50 / 69
第13話 散りゆく星々、閉ざされた南路 2/3
しおりを挟む
3.慈悲という名の無力、水鏡の苦悩
水鏡塾の門前は、地獄絵図と化していた。学問の府としての静謐さは消え失せ、そこには飢餓と絶望だけが満ちていた。
「先生!水鏡先生!どうかお助けください!」
「お救いください!家族が飢えているのです!どうかお慈悲を!一口の水でいいのです!」
「子供が、子供が息をしていないんです!先生!」
逃げ遅れた民衆が、最後の希望として、徳の高い司馬徽――水鏡先生の元へ押し寄せていたのだ。
彼らは知っていた。
役人は逃げた。
太守は狂った。
名士たちは去った。
だが、この先生だけは、自分たちを見捨てないことを。
その仁徳だけが、この地獄に残された唯一の蜘蛛の糸であることを。
だが、さすがの水鏡先生も、この圧倒的な数には顔面蒼白だった。
門前を埋め尽くすのは数千、いや数万の飢えた人々だ。塾の備蓄など、この人数に配れば半日も持たない。
「お、落ち着きなさい……。天は無辜の民を見放しはせぬ……。誰か、あるだけの粥を炊き出しなさい……」
司馬徽は、震える手で泣き叫ぶ子供の頭を撫で、なだめようとする。その手は温かいが、無力だった。彼の目には深い苦悩と絶望が浮かんでいた。
(どうすればよいのだ……。食糧はない。兵もない。南への道は袁術軍と賊で塞がれている。ここで籠城すれば全員餓死し、外へ出れば略奪され、殺される)
論理的に考えれば「解散」しかない。
「各自、散り散りに逃げろ。運の良い者だけが生き残れ」と言うのが、最も生存率の高い指示だ。
集団でいれば目立つし、食糧も尽きる。個々に分散して草の根を食んで生き延びるほうが、全滅は避けられる。
だが、仁義を説き、徳を重んじてきた彼に、目の前の老人や子供を見捨てて「散れ」とは、どうしても言えなかった。
それは彼自身の魂を殺すことと同義であり、彼が信じてきた「人の道」を否定することになるからだ。
「……すまぬ。私には……私には言葉しか持てぬ……。お前たちを腹一杯に食わせる麦も、敵を追い払う剣も、私は持っていないのだ……」
司馬徽が膝をつく。
その姿は、あまりに無力な「聖人」の限界だった。
理想だけでは、腹は膨れない。
涙だけでは、命は守れない。
その残酷な現実が、司馬徽の心を押しつぶそうとしていた。
4.限りなくゼロの生存率、不承不承の決断
その光景を、門の陰から見ていた男たちがいた。
徐福、石韜、孟建、李譔。そして、向朗である。
彼らは水鏡塾の門下生であり、師の苦悩を誰よりも理解していた。
「……先生は優しすぎる」
徐福が、血が出るほど拳を握りしめていた。
その顔には、悔しさと怒りが滲んでいる。
「だが、優しさだけじゃ、この人数は救えねえ。綺麗事じゃねえんだよ!飯がなきゃ人は死ぬ。安全な場所がなきゃ殺される。それだけだ!」
徐福が、血走った目で向朗を睨みつけた。
それは縋るような、それでいて脅すような、切迫した視線だった。
彼らは知っていた。
この中で唯一、感情に流されず、冷徹に状況を俯瞰できる男が誰かを。
「おい、向朗。お前の頭の中にある算盤じゃ、どう出てる?……やっぱり、見捨てるしかねえのか?俺たちだけで逃げるのが正解なのか?」
全員の視線が、向朗に集まる。
向朗は、死んだ魚のような目で、ボロボロの城壁にもたれかかっていた。
彼の脳内では、既に冷徹な計算式が弾き出されていた。
感情を排した、数字だけの世界だ。
「……計算上はね」
向朗は淡々と答えた。
感情を一切排した、乾いた声だった。
「食糧不足は致命的。疫病のリスクも高すぎる。南の袁術軍は通行を許可しないだろうし、街道には賊が待ち構えている。一〇万人が集団移動して生き残る確率は、限りなくゼロに近い。常識的に考えれば『解なし』だ。ここで解散し、各自が運を天に任せて逃げるのが、数学的に最も多くの人間が生き残る方法だ」
徐福が顔を歪めた。期待していた答えではなかったからだ。だが、向朗は言葉を切らなかった。
「……でも、ゼロじゃない」
向朗は、深く眉間に皺を寄せ、静かに目を閉じた。
長い沈黙が流れる。
風の音と、民衆の呻き声、そして遠くから響く略奪者の笑い声だけが聞こえる。
やがて、彼はゆっくりと目を開けた。
その瞳には、いつもの無気力さはなく、鋭い知性の光が宿っていた。
「変数が多すぎるんだ。一〇万人の足の速さ、一日あたりの排泄物の処理量、袁術の虚栄心と心理、天候、そして……我々が得意とする『嘘』の活用法。これらを全て制御できれば、あるいは……」
向朗は、抱えていた竹簡の束を、ギュッと抱きしめた。
「めんどくさい。本当にめんどくさい。やりたくない。なんで僕がこんな貧乏くじを引かなきゃならないんだ。僕はただ、静かに本を読んでいたいだけなのに」
彼は本心から嫌そうに呟き、それから深く息を吐いた。
「一日待ってくれ。……明日の朝までに、その『ゼロに近い確率』を、こじ開けられるか計算してみる。僕の給料分くらいは、働いてみせるよ」
水鏡塾の門前は、地獄絵図と化していた。学問の府としての静謐さは消え失せ、そこには飢餓と絶望だけが満ちていた。
「先生!水鏡先生!どうかお助けください!」
「お救いください!家族が飢えているのです!どうかお慈悲を!一口の水でいいのです!」
「子供が、子供が息をしていないんです!先生!」
逃げ遅れた民衆が、最後の希望として、徳の高い司馬徽――水鏡先生の元へ押し寄せていたのだ。
彼らは知っていた。
役人は逃げた。
太守は狂った。
名士たちは去った。
だが、この先生だけは、自分たちを見捨てないことを。
その仁徳だけが、この地獄に残された唯一の蜘蛛の糸であることを。
だが、さすがの水鏡先生も、この圧倒的な数には顔面蒼白だった。
門前を埋め尽くすのは数千、いや数万の飢えた人々だ。塾の備蓄など、この人数に配れば半日も持たない。
「お、落ち着きなさい……。天は無辜の民を見放しはせぬ……。誰か、あるだけの粥を炊き出しなさい……」
司馬徽は、震える手で泣き叫ぶ子供の頭を撫で、なだめようとする。その手は温かいが、無力だった。彼の目には深い苦悩と絶望が浮かんでいた。
(どうすればよいのだ……。食糧はない。兵もない。南への道は袁術軍と賊で塞がれている。ここで籠城すれば全員餓死し、外へ出れば略奪され、殺される)
論理的に考えれば「解散」しかない。
「各自、散り散りに逃げろ。運の良い者だけが生き残れ」と言うのが、最も生存率の高い指示だ。
集団でいれば目立つし、食糧も尽きる。個々に分散して草の根を食んで生き延びるほうが、全滅は避けられる。
だが、仁義を説き、徳を重んじてきた彼に、目の前の老人や子供を見捨てて「散れ」とは、どうしても言えなかった。
それは彼自身の魂を殺すことと同義であり、彼が信じてきた「人の道」を否定することになるからだ。
「……すまぬ。私には……私には言葉しか持てぬ……。お前たちを腹一杯に食わせる麦も、敵を追い払う剣も、私は持っていないのだ……」
司馬徽が膝をつく。
その姿は、あまりに無力な「聖人」の限界だった。
理想だけでは、腹は膨れない。
涙だけでは、命は守れない。
その残酷な現実が、司馬徽の心を押しつぶそうとしていた。
4.限りなくゼロの生存率、不承不承の決断
その光景を、門の陰から見ていた男たちがいた。
徐福、石韜、孟建、李譔。そして、向朗である。
彼らは水鏡塾の門下生であり、師の苦悩を誰よりも理解していた。
「……先生は優しすぎる」
徐福が、血が出るほど拳を握りしめていた。
その顔には、悔しさと怒りが滲んでいる。
「だが、優しさだけじゃ、この人数は救えねえ。綺麗事じゃねえんだよ!飯がなきゃ人は死ぬ。安全な場所がなきゃ殺される。それだけだ!」
徐福が、血走った目で向朗を睨みつけた。
それは縋るような、それでいて脅すような、切迫した視線だった。
彼らは知っていた。
この中で唯一、感情に流されず、冷徹に状況を俯瞰できる男が誰かを。
「おい、向朗。お前の頭の中にある算盤じゃ、どう出てる?……やっぱり、見捨てるしかねえのか?俺たちだけで逃げるのが正解なのか?」
全員の視線が、向朗に集まる。
向朗は、死んだ魚のような目で、ボロボロの城壁にもたれかかっていた。
彼の脳内では、既に冷徹な計算式が弾き出されていた。
感情を排した、数字だけの世界だ。
「……計算上はね」
向朗は淡々と答えた。
感情を一切排した、乾いた声だった。
「食糧不足は致命的。疫病のリスクも高すぎる。南の袁術軍は通行を許可しないだろうし、街道には賊が待ち構えている。一〇万人が集団移動して生き残る確率は、限りなくゼロに近い。常識的に考えれば『解なし』だ。ここで解散し、各自が運を天に任せて逃げるのが、数学的に最も多くの人間が生き残る方法だ」
徐福が顔を歪めた。期待していた答えではなかったからだ。だが、向朗は言葉を切らなかった。
「……でも、ゼロじゃない」
向朗は、深く眉間に皺を寄せ、静かに目を閉じた。
長い沈黙が流れる。
風の音と、民衆の呻き声、そして遠くから響く略奪者の笑い声だけが聞こえる。
やがて、彼はゆっくりと目を開けた。
その瞳には、いつもの無気力さはなく、鋭い知性の光が宿っていた。
「変数が多すぎるんだ。一〇万人の足の速さ、一日あたりの排泄物の処理量、袁術の虚栄心と心理、天候、そして……我々が得意とする『嘘』の活用法。これらを全て制御できれば、あるいは……」
向朗は、抱えていた竹簡の束を、ギュッと抱きしめた。
「めんどくさい。本当にめんどくさい。やりたくない。なんで僕がこんな貧乏くじを引かなきゃならないんだ。僕はただ、静かに本を読んでいたいだけなのに」
彼は本心から嫌そうに呟き、それから深く息を吐いた。
「一日待ってくれ。……明日の朝までに、その『ゼロに近い確率』を、こじ開けられるか計算してみる。僕の給料分くらいは、働いてみせるよ」
0
あなたにおすすめの小説
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
劉禅が勝つ三国志
みらいつりびと
歴史・時代
中国の三国時代、炎興元年(263年)、蜀の第二代皇帝、劉禅は魏の大軍に首府成都を攻められ、降伏する。
蜀は滅亡し、劉禅は幽州の安楽県で安楽公に封じられる。
私は道を誤ったのだろうか、と後悔しながら、泰始七年(271年)、劉禅は六十五歳で生涯を終える。
ところが、劉禅は前世の記憶を持ったまま、再び劉禅として誕生する。
ときは建安十二年(207年)。
蜀による三国統一をめざし、劉禅のやり直し三国志が始まる。
第1部は劉禅が魏滅の戦略を立てるまでです。全8回。
第2部は劉禅が成都を落とすまでです。全12回。
第3部は劉禅が夏候淵軍に勝つまでです。全11回。
第4部は劉禅が曹操を倒し、新秩序を打ち立てるまで。全8回。第39話が全4部の最終回です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる