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第18話 荊州へ 1/2
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1.噂の拡散と、移動都市の肥大化
「葛陂の賊、二万が壊滅した」
その噂は、早馬よりも速く、風に乗って近隣の村々へと拡散した。
それも、尾ひれがついて。
「水鏡先生の一行には、天より遣わされた戦女神がついている」
「黒き死神が、賊の首を一瞬で跳ね飛ばした」
「あそこに行けば、飢えずに済む。水鏡先生が麦を降らせてくれる」
絶望に沈んでいた荒野の民にとって、その噂は暗闇に差す強烈な光だった。
舞陽を出発した時点で十二万強だった一行は、南下する過程で復陽国、襄郷県の流民たちを磁石のように吸い寄せ、雪だるま式に膨れ上がっていた。
通過する村や小さな邑は、物理的に「解体」され、人の波に飲み込まれていく。
家財道具を背負った農民、逃亡兵、没落した商人。
ありとあらゆる人間が、三色の布を巻いた巨大な隊列に組み込まれていく。
向朗の構築した仕組み――「赤(警護)」「青(運搬)」「黄(弱者)」の分類と、荷車による移動城壁――は、この無秩序な膨張に対しても、驚くべき適応力を見せていた。
新規加入者は即座に選別され、役割を与えられ、巨大な歯車の一部となる。
それはもはや避難民の行列ではない。
大地を削り取りながら進む、二十万人の「移動する国」であった。
2.篩(ふるい)
揺れる荷車の荷台の上で、一人の人物が長いため息をついた。
かつて「聖女」として崇められていた美少女の姿は、そこにはない。
化粧を落とし、豪奢な着物を脱ぎ捨て、ボサボサの髪をかきむしる、猫背の青年がいるだけだ。
李譔である。
彼は愛用の亀の甲羅を愛おしそうに磨いていた。
「あー、肩凝った。もう『聖女』は引退だ。僕が立たなくても、噂が勝手に一人歩きして、民衆が勝手に拝んでくるんだもん。……生き神様を演じるのも楽じゃないね」
李譔は、隣で竹簡と格闘している向朗に視線を投げた。
パチン!
乾いた音が響いた。
向朗が自分の両頬を、力いっぱい叩いた音だ。
陽翟を出発してから二十日近く。
向朗は馬上で数刻の仮眠をとる以外、まともに眠っていなかった。
十万、いや二十万に膨れ上がった集団の兵站管理。
水、食料、排泄、宿営地。
その全てが彼の脳内計算と指示によってギリギリで維持されている。
彼が思考を止めれば、この巨大な行軍は即座に瓦解するのだ。
「……うう、ん……よし」
向朗はうめき声を上げ、充血した目で再び筆を握り直した。
その顔色は蝋のように白く、目の下にはどす黒い隈が刻まれている。
「ねえ、向朗。君の計算通り、二十万人に達しようとしているけど……一つ聞いていい?」
「……なんだい」
向朗は顔を上げずに答えた。声には生気がなく、ただ疲労の色だけが濃い。
「なんで、この辺境のルートを選んだの?ここより西、南陽郡の宛県を経由すれば、街道も広かった。補給も楽だったはずだ」
向朗の手が止まった。
一瞬、意識が飛びそうになり、彼はまた自分の頬をつねった。
痛みで無理やり脳を覚醒させ、重い溜息をつく。
「……宛は、中原で最も人口が多い地域の一つだからね。仮に、袁術とも協力が得られて……もしあそこを通れば、どうなっていたと思う?」
「どうって……もっと多くの人を救えた?」
「違うよ。……たぶん、少なくても五十万人は付いてきちゃっただろうね」
向朗は、ボソボソとした口調で言った。
まるで今日の天気を語るかのように。
だが、その言葉を紡ぐためだけに、彼は全身の力を振り絞っていた。
「五十万だよ、李譔。食料が尽きる。水が枯れる。疫病が蔓延する。統制なんて効かなくなって、内部から暴動が起きて瓦解する。……そうしたら、全員死んじゃうよ」
向朗は、強烈な睡魔に襲われ、カクンと首を落としそうになった。慌てて頭を振る。
「この山がちで、賊が出る辺境のルートをわざわざ選んだのは……それが『篩(ふるい)』になるからさ。付いてこられる体力と意志のある人たち、そして……僕達が管理できる限界の数……それが、二十万なんだ」
向朗の言葉に、李譔は背筋が寒くなるのを感じた。
この男は、限界を超えた疲労の中で、涙を流すことも、声を荒らげることもなく、ただ淡々と数字として二十万人を選んだ。
それ以外には解がないかのように。
(……怖)
「……僕は、計算しただけだよ。僕達が生き残って、この二十万人を確実に生かすために……一番確実な道を選んだんだ」
そう言って再び竹簡に目を落とす向朗の横顔は、悪党にも英雄にも見えなかった。
ただ、膨大な書簡の片付けに追われる、疲れ切って今にも倒れそうな書生のようだった。
その極限状態での「普通さ」こそが、李譔には何よりも恐ろしく、そして頼もしく思えた。
「……へえ。君、意外と怖いね。安心したよ」
李譔はニヤリと笑い、亀の甲羅を振った。
「占いによると、君の運勢は『大凶』だ。……それだけの業を背負えば当然だね。でも、僕らが一緒に背負ってやるから安心しなよ」
3.章陵到達、石韜の驚愕と懸念
数日後、一行はついに目的の地、章陵県に到達した。
地平線を埋め尽くす人の波が止まると、大地が安堵の息を吐いたかのように静まり返った。
先頭を進んでいた向朗の馬も足を止めた。
だが、鞍の上の向朗は、慣性の法則に従ってゆらりと前につんのめりそうになる。
彼は慌てて馬のたてがみを掴んで体勢を戻し、うつろな目で周囲を見渡した。
視界が揺れている。
限界はとうに超えていた。
今はただ、責任感という細い糸だけで意識を繋ぎ止めている状態だった。
城門から、数人の騎馬が駆け寄ってくる。先行していた石韜だ。
彼は満面の笑みで出迎えるはずだったが、その表情は引きつっていた。
「……向朗、おい。これは何だ」
石韜は、果てしなく続く天幕と荷車の海を指差して絶句した。
「数万じゃなかったのか?なんだこの数は!二十万!?国を一つ持ってきたのかお前は!」
「増えちゃいました……」
向朗は馬の上で、今にも閉じそうな瞼を指で無理やりこじ開けながら、夢遊病者のように言った。
「でも、計算の……誤差の範囲内です……たぶん……ふあ」
あくびを噛み殺す気力すらないのか、言葉の端々が溶けている。
向朗は自分の太ももをギュッとつねった。
激痛で一瞬だけ意識を覚醒させ、焦点の定まらない目で石韜を見る。
「で……劉表様との、会談の手筈は……?」
「……ああ、整っている。劉表様も、洛陽から逃れてきたばかりで基盤が弱い。名士である水鏡先生の来訪は歓迎だそうだ。……だが」
石韜は声を潜め、死人のような顔色の友人を案じながらも告げた。
「側近の蒯越という男が厄介だ。切れ者だぞ。この二十万の群衆を見て、顔色を変えていた。『これは難民ではない、侵略軍だ』とな」
「葛陂の賊、二万が壊滅した」
その噂は、早馬よりも速く、風に乗って近隣の村々へと拡散した。
それも、尾ひれがついて。
「水鏡先生の一行には、天より遣わされた戦女神がついている」
「黒き死神が、賊の首を一瞬で跳ね飛ばした」
「あそこに行けば、飢えずに済む。水鏡先生が麦を降らせてくれる」
絶望に沈んでいた荒野の民にとって、その噂は暗闇に差す強烈な光だった。
舞陽を出発した時点で十二万強だった一行は、南下する過程で復陽国、襄郷県の流民たちを磁石のように吸い寄せ、雪だるま式に膨れ上がっていた。
通過する村や小さな邑は、物理的に「解体」され、人の波に飲み込まれていく。
家財道具を背負った農民、逃亡兵、没落した商人。
ありとあらゆる人間が、三色の布を巻いた巨大な隊列に組み込まれていく。
向朗の構築した仕組み――「赤(警護)」「青(運搬)」「黄(弱者)」の分類と、荷車による移動城壁――は、この無秩序な膨張に対しても、驚くべき適応力を見せていた。
新規加入者は即座に選別され、役割を与えられ、巨大な歯車の一部となる。
それはもはや避難民の行列ではない。
大地を削り取りながら進む、二十万人の「移動する国」であった。
2.篩(ふるい)
揺れる荷車の荷台の上で、一人の人物が長いため息をついた。
かつて「聖女」として崇められていた美少女の姿は、そこにはない。
化粧を落とし、豪奢な着物を脱ぎ捨て、ボサボサの髪をかきむしる、猫背の青年がいるだけだ。
李譔である。
彼は愛用の亀の甲羅を愛おしそうに磨いていた。
「あー、肩凝った。もう『聖女』は引退だ。僕が立たなくても、噂が勝手に一人歩きして、民衆が勝手に拝んでくるんだもん。……生き神様を演じるのも楽じゃないね」
李譔は、隣で竹簡と格闘している向朗に視線を投げた。
パチン!
乾いた音が響いた。
向朗が自分の両頬を、力いっぱい叩いた音だ。
陽翟を出発してから二十日近く。
向朗は馬上で数刻の仮眠をとる以外、まともに眠っていなかった。
十万、いや二十万に膨れ上がった集団の兵站管理。
水、食料、排泄、宿営地。
その全てが彼の脳内計算と指示によってギリギリで維持されている。
彼が思考を止めれば、この巨大な行軍は即座に瓦解するのだ。
「……うう、ん……よし」
向朗はうめき声を上げ、充血した目で再び筆を握り直した。
その顔色は蝋のように白く、目の下にはどす黒い隈が刻まれている。
「ねえ、向朗。君の計算通り、二十万人に達しようとしているけど……一つ聞いていい?」
「……なんだい」
向朗は顔を上げずに答えた。声には生気がなく、ただ疲労の色だけが濃い。
「なんで、この辺境のルートを選んだの?ここより西、南陽郡の宛県を経由すれば、街道も広かった。補給も楽だったはずだ」
向朗の手が止まった。
一瞬、意識が飛びそうになり、彼はまた自分の頬をつねった。
痛みで無理やり脳を覚醒させ、重い溜息をつく。
「……宛は、中原で最も人口が多い地域の一つだからね。仮に、袁術とも協力が得られて……もしあそこを通れば、どうなっていたと思う?」
「どうって……もっと多くの人を救えた?」
「違うよ。……たぶん、少なくても五十万人は付いてきちゃっただろうね」
向朗は、ボソボソとした口調で言った。
まるで今日の天気を語るかのように。
だが、その言葉を紡ぐためだけに、彼は全身の力を振り絞っていた。
「五十万だよ、李譔。食料が尽きる。水が枯れる。疫病が蔓延する。統制なんて効かなくなって、内部から暴動が起きて瓦解する。……そうしたら、全員死んじゃうよ」
向朗は、強烈な睡魔に襲われ、カクンと首を落としそうになった。慌てて頭を振る。
「この山がちで、賊が出る辺境のルートをわざわざ選んだのは……それが『篩(ふるい)』になるからさ。付いてこられる体力と意志のある人たち、そして……僕達が管理できる限界の数……それが、二十万なんだ」
向朗の言葉に、李譔は背筋が寒くなるのを感じた。
この男は、限界を超えた疲労の中で、涙を流すことも、声を荒らげることもなく、ただ淡々と数字として二十万人を選んだ。
それ以外には解がないかのように。
(……怖)
「……僕は、計算しただけだよ。僕達が生き残って、この二十万人を確実に生かすために……一番確実な道を選んだんだ」
そう言って再び竹簡に目を落とす向朗の横顔は、悪党にも英雄にも見えなかった。
ただ、膨大な書簡の片付けに追われる、疲れ切って今にも倒れそうな書生のようだった。
その極限状態での「普通さ」こそが、李譔には何よりも恐ろしく、そして頼もしく思えた。
「……へえ。君、意外と怖いね。安心したよ」
李譔はニヤリと笑い、亀の甲羅を振った。
「占いによると、君の運勢は『大凶』だ。……それだけの業を背負えば当然だね。でも、僕らが一緒に背負ってやるから安心しなよ」
3.章陵到達、石韜の驚愕と懸念
数日後、一行はついに目的の地、章陵県に到達した。
地平線を埋め尽くす人の波が止まると、大地が安堵の息を吐いたかのように静まり返った。
先頭を進んでいた向朗の馬も足を止めた。
だが、鞍の上の向朗は、慣性の法則に従ってゆらりと前につんのめりそうになる。
彼は慌てて馬のたてがみを掴んで体勢を戻し、うつろな目で周囲を見渡した。
視界が揺れている。
限界はとうに超えていた。
今はただ、責任感という細い糸だけで意識を繋ぎ止めている状態だった。
城門から、数人の騎馬が駆け寄ってくる。先行していた石韜だ。
彼は満面の笑みで出迎えるはずだったが、その表情は引きつっていた。
「……向朗、おい。これは何だ」
石韜は、果てしなく続く天幕と荷車の海を指差して絶句した。
「数万じゃなかったのか?なんだこの数は!二十万!?国を一つ持ってきたのかお前は!」
「増えちゃいました……」
向朗は馬の上で、今にも閉じそうな瞼を指で無理やりこじ開けながら、夢遊病者のように言った。
「でも、計算の……誤差の範囲内です……たぶん……ふあ」
あくびを噛み殺す気力すらないのか、言葉の端々が溶けている。
向朗は自分の太ももをギュッとつねった。
激痛で一瞬だけ意識を覚醒させ、焦点の定まらない目で石韜を見る。
「で……劉表様との、会談の手筈は……?」
「……ああ、整っている。劉表様も、洛陽から逃れてきたばかりで基盤が弱い。名士である水鏡先生の来訪は歓迎だそうだ。……だが」
石韜は声を潜め、死人のような顔色の友人を案じながらも告げた。
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