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ぎこちない家族の晩餐
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「会話をする時には、気をつけねばなるまい……」
エイリスはぽつりとつぶやいた。
会話をできる限りしないのは、どうしてもエイリスと魔王の言葉遣いが違うからだ。威圧的にしなくても、魔王言葉はどうしても威圧的に感じられてしまうようだった。
しかも、今までのエイリスの行いを考えると、加えての命令口調……。どう考えても怖がらせてしまう。
幸いにも、エイリスの記憶があるので、気を付けると令嬢らしい言葉遣いはできるものの、気を抜くと魔王の口調が出てしまうので、人と会う時はかなり緊張していた。
「どうやら、親子関係もあまりよくないようだしな……」
父・アルセリオ公爵は、二度訪れた。
一度目は、医師の診察中。
扉の外に立ち、少し遠巻きに様子を見ていた。
「……元気そうだな。体調は、大丈夫か?」
アルセリオ公爵が、気を遣うように静かに言った。
「……ああ。大丈夫だ」
と、エイリスが答えると、公爵は目を見開いて、そのまま部屋を後にした。
二度目は、夕方の静かな時間。
窓辺に座るエイリスを前に、椅子に腰掛けて、しばらく黙っていた。
「……あのとき、もう駄目だと思ったよ。心臓が止まったと聞いた時はな……まあ、生きていたなら、それでいい」
それ以上の感情はなかった。
親としての義務だけがそこにあるような、淡白な声だった。
驚かせてはいけないと思い、エイリスは無言で頷くだけにした。
継母・カトリーヌは、一度だけ訪れた。
実母のリシアが亡くなった後、すぐにアルセリオ公爵と結婚したのが、このカトリーヌだった。リシアの従妹にあたり、エイリス達とも血縁関係にあたるのだが、エイリスとの関係は良くなかった。
華やかな香水を纏い、白いドレスで静かに現れた。
扉の前に立ち止まり、にこりと言う。
「……元気そうで、よかったわ」
目は笑っていない。それだけを言って、立ち去っていった。
妹レナは、一度も部屋を訪れる事はなかった。
かすかに残る記憶の中に、レナの怯えた目と、扉の陰に隠れる姿がある。
足音も声も、まったくなかった。
こうして、静かな日々が続いていた。
誰も深く関わらず、誰も問いかけず、部屋の空気だけが時間を刻む。
今日は曇り。昨日は晴れ。明日は雨かもしれない。
それだけだった。
目覚めてから二週間後。
晩餐に呼ばれたのは、目覚めてから初めてのことだった。
公爵家の広間に足を踏み入れると、そこには重厚なシャンデリアと白磁の食器、絢爛な刺繍が施された椅子が並び、まるで舞踏会の余韻を閉じ込めたような静けさが漂っていた。
(できるかぎり、口調には気を付けよう……!令嬢らしく振舞うのだ!!)
エイリスはかなり緊張していた。
食卓には、父・アルセリオ公爵、継母カトリーヌ、妹のレナが既に着席していた。
「エイリス、おまえの席はこちらだ」
公爵もやや緊張した声でそう告げた。
視線を向ければ、公爵の目には微かな不安と戸惑いが浮かんでいた。
それが“かつてのエイリス”を知る者の当然の反応だということは、魔王である彼女にも理解できた。
「……ご…、ご心配をおかけしました、お、お父様」
椅子に腰を下ろしながら、静かに、けれどどこかたどたどしく挨拶をする。
言葉の選び方も抑揚も、どこか「覚えたばかりの礼儀作法」のようで不自然だったが、それでも公爵は、ほっとしたように一息ついた。
「……体の調子はどうだ?」
「……ああ。いや、え、ええ。お、お気遣いに感謝いたします」
レナが目を丸くしてこちらを見ていた。
カトリーヌは、いつものように微笑を浮かべていたが、その笑みには“観察する者”の視線が潜んでいる。
彼女の手元にはナイフとフォーク、そしてその横に置かれたワイングラス。細い指がゆるやかに縁をなぞっている。
料理は温かく、彩りも鮮やかだったが、会話が少ないせいか、食卓全体がどこか冷えきっているようだった。
「……エイリス」
沈黙を破ったのは、公爵だった。声には微かな慎重さがあった。
「実は……、お前が昏睡状態になっていた半年……。その間に……」
公爵は、慎重に言葉を選びながら言った。
「陛下より、正式な婚約が発表された。第一皇子、レニオス殿下と――ミリア・レグリス嬢の婚約だ。そして、3か月前に、二人は結婚した」
言葉が落ちた瞬間、食卓の空気がわずかに緊張した。
カトリーヌがわざとらしく息を漏らし、レナはスプーンを持つ手を止めてエイリスを見た。
(……レニオスと、ミリアか)
エイリスの中に残る“記憶”がささやいた。
レニオス。
美しく、誰もが振り向くような容貌と気品を備えていて、エイリスが誰よりも愛していた男。
ミリアは、エイリスと同じく三大名家の令嬢で、中でも聡明と評されていたが、“偽善者”と呼び、エイリスが毛嫌いしていた令嬢だった。
かつてのエイリスなら、この状況に烈火のごとく怒り狂っていた。だが今は、ただ静かに微笑むのみだった。
「……なるほど。それは、おめでたいことですね」
ナイフとフォークを持ったまま、平然と答える。その声に怒気はなく、むしろ食後の紅茶でも頼むかのような静けさがあった。
公爵は目を見開いた。
「……おまえ、本当に……怒っていないのか?」
「怒る理由など。それは決定事項なのだろう…なのでしょう?だいたい、レニオス皇子と私は……別に婚約者だった訳ではないです」
「……いや、そう、だが……」
どこか困惑したように言葉を濁す公爵。
それを横で聞いていたカトリーヌが、くすりと笑った。
「まぁ、私達も驚きましたわ。あのレニオス様がミリア嬢と……。世間では、エイリスがレニオス様の婚約者になると囁かれていましたのに」
その言葉には棘があった。
だが、エイリスは表情一つ変えず、スープを口に運ぶ。
(……レニオスが婚約しようが、どうでもいい)
かつて抱いていた執着すら、今では薄い霧のように消えていた。
「……それと、もうひとつ話がある」
公爵の声色が変わった。
今までの淡白な父親の口調から一転、何かを慎重に告げようとする、まるで爆弾を投げる前の静けさのような緊張がにじんでいた。
エイリスは手元のナイフとフォークを静かに置き、父の方へと視線を向ける。
その眼差しは凛としていたが、内心は穏やかではない。
「お前が……その、元気になったことで、陛下より正式な命が下された。婚約相手が、決まったそうだ」
(……婚約?)
頭の片隅で、まさか私が!!と思う。
だが、この体は公爵家の令嬢、貴族である以上避けられぬ運命だろうと、エイリスは冷静に受け止めようとしていた――その時だった。
「……相手は、第二皇子。リュシオン殿下だ」
――ガシャンッ。
銀のフォークが手から滑り、皿にぶつかって甲高い音を立てた。
その瞬間、場の空気が凍りつく。
「エ、エイリス……。いや、わかってるつもりだ。お前があの方をどんな風に見ていたか……だがしかし……」
公爵が慌てて声をかけるが、エイリスは返事をしない。
目を見開き、唇が震えていた。血の気が一気に引いて、顔が青ざめていく。
(……嘘だろう……今、なんて?)
リュシオン? リュシオン殿下? あの“リュシオン”が、この国の皇子……?
──そうだ。思い出した。今さらながらに、脳裏で結びついてしまった。
リュシオン・エルヴェイン。
私が――魔王だった私が、最後に命をかけて戦ったあの少年。
赤い瞳、静かな怒りを湛えたまなざし。
そう、間違いない。
あの時、あの場で、私と相打ちになった……あの“勇者”だ。
(くそっ……なんで忘れていた!? なぜ、この国の皇子の名前が“リュシオン”であることを……!?)
動揺で思考が混乱する。
魔王であった時の記憶と、エイリスの身体を通して感じる現在の現実がぶつかり合い、頭の中で警鐘が鳴り響いていた。
(そうか……! あれは、リュシオンは“皇子”だったのか。人間の中で、もっとも高貴な血を引く者……!)
それに、魔王の記憶の中で“勇者”が皇族であるという情報は、ごくわずかだった。
アリアの報告にも、ほとんど名前が出なかった。
それもそのはずだ。リュシオンは“影の皇子”、皇族でありながら王宮の端に追いやられていた皇子であった。
そして、エイリスは、レニオスとの記憶は強くあるものの、リュシオンには全く興味がなかったようだ。
(どうりで、情報が少なかったわけだ……)
そんな人物と、婚約……?
結婚だと?
一つ屋根の下で、同じ空間に身を置く……?
(ありえない……ッ!)
かつて、私を殺し、そして私に殺された男だぞ!?
それが、いま私の“婚約者”? なんの冗談だ。
エイリスは、必死に心の中のざわめきを押し込めた。
両手を太ももに押し当て、震えを感じさせないように静かに力を込める。顔は笑顔――のつもりだったが、引きつった口角の形がそれを物語っていた。
「……それは、光栄……でございます」
ひと呼吸置いて絞り出されたその言葉に、場の空気が一瞬止まった。
まず、アルセリオ公爵が目を見開いた。
あの娘が――自分の娘が、あのリュシオン殿下に婚約を命じられて、喚き散らさないなどと想像もしなかった。
「……ほ、本当に、いいのか?」
にわかに信じられず、疑念を込めた視線がエイリスに向けられる。
「……ああ、いや、ええ。陛下の命には、逆らえませんので」
一応、令嬢らしく整えた丁寧な口調だったが、微かに震えるその声は、聞く者の胸にかすかな違和感を残した。
公爵の心中には混乱が渦巻いていた。
あの傲慢で、皇子の存在すら認めずにいた娘が、まさか自ら婚約を受け入れるなど――。
「……記憶が、まだ戻っていないのではないか?」
思わず疑念が口を突いて出る。
「大丈夫です。お心遣い、感謝いたします」
穏やかな返答だった。だが、あまりにも“別人”のような口ぶりに、公爵はますます眉をひそめた。
レナは、驚きでスプーンを落としかけた。
汚れた皇子と言って、目すら合わせようとしなかった姉が、まさかリュシオン殿下との婚約に――あんな穏やかに応じるとは。
(……嘘でしょ。お姉様が……?)
数年前、エイリスがリュシオンを見たあの瞬間。
あからさまな侮蔑の目。まるで、“そこにいることが許されない存在”でも見るような、冷たい視線――あれを忘れることなど、レナにはできなかった。
そして、今。
婚約の知らせに動揺するどころか、静かに受け入れている姉を見て、レナは思わず自分の手を見つめ直した。
震えていたのは、姉ではなく自分の指先だった。
カトリーヌはと言えば、ワイングラスをくるくると回す手をぴたりと止めた。
その瞳には、鋭い興味と、冷静な“観察”が宿っていた。
(……この子、本当にエイリス?)
その微笑は崩れなかったが、唇の端はわずかに引き締まり、警戒と疑念がわずかににじむ。
「……さすがは公爵家の娘ね。冷静で立派だこと」
そう口にしながらも、どこか試すような響きがある。
エイリスは、スープをすするふりをした。
手はかすかに震えていた。匙がカチャリと小さく音を立てる。
(リュシオン……まさか、この世界でも、彼と再び関わることになるとは)
あの赤い瞳。静かで、深く、凍てつくような怒りを宿した眼差し――忘れたくても、忘れられない光景が脳裏に浮かぶ。
その時、エイリスの舞踏会の記憶がよみがえる。
煌びやかな光の中、レニオス皇子の隣に立つ自分。
まるでその場の空気すら従わせるように、誰もがエイリスの顔色をうかがい、息をひそめる。
その美しさと立ち居振る舞いは堂々たるものだった。
優しく微笑みながらレニオス皇子に手を添え、耳元に囁く。
「殿下のお隣に立つと、皆が見惚れてしまいますわね」
レニオスはわずかに笑い、当然のようにそれを受け入れる。
だがその場に、リュシオン皇子が現れると、空気が明らかに変わった。
エイリスは一瞥すらくれず、まるで虫が足元を這っているかのような視線を下に落とす。言葉など、もってのほかだ。彼に話しかけることすら、自らの価値を損なう行為に思えるのだろう。
それでも、彼女の声はしっかりと届く距離で、言うのだった。
「……あら、今、何か臭わなかったかしら?」
「やっぱり血って、隠せないのね。どれだけ着飾っても、ねぇ?」
「私、汚らわしいものに近づくと、肌が荒れるのよ。困ったわ」
柔らかく、上品な口調で語られるその言葉の刃は、誰よりも冷たく鋭い。リュシオンはそれを無視するしかない。反論は無意味。相手は皇子であっても“彼女”には届かない。
視線すら交わさない。
まるでそこに“人間”など存在していないかのように、エイリスは微笑み、レニオスの腕にそっと寄り添った。
それが、“彼女のやり方”だった。
そのときの“自分”は、優越感に満ちた笑みを浮かべながら、まるで女王のように振る舞っていた。
(……エイリスはリュシオンに嫌われていてる。絶対に……。過去の“エイリス”の振る舞いを思えば、顔を合わせるのも辛いくらいだ)
それでも。
(……もし、もう一度、話せるのなら)
それは、贖罪でもなく、同情でもない。
ただ、あのとき果たせなかった“対話”を、今度こそ――。
(……今度は、ちゃんと……向き合いたい)
それはまだ名前も形もない、ただのかけらのような感情だった。
だが、魔王だった彼女の中にはなかった、“変化”の兆しだった。
エイリスはぽつりとつぶやいた。
会話をできる限りしないのは、どうしてもエイリスと魔王の言葉遣いが違うからだ。威圧的にしなくても、魔王言葉はどうしても威圧的に感じられてしまうようだった。
しかも、今までのエイリスの行いを考えると、加えての命令口調……。どう考えても怖がらせてしまう。
幸いにも、エイリスの記憶があるので、気を付けると令嬢らしい言葉遣いはできるものの、気を抜くと魔王の口調が出てしまうので、人と会う時はかなり緊張していた。
「どうやら、親子関係もあまりよくないようだしな……」
父・アルセリオ公爵は、二度訪れた。
一度目は、医師の診察中。
扉の外に立ち、少し遠巻きに様子を見ていた。
「……元気そうだな。体調は、大丈夫か?」
アルセリオ公爵が、気を遣うように静かに言った。
「……ああ。大丈夫だ」
と、エイリスが答えると、公爵は目を見開いて、そのまま部屋を後にした。
二度目は、夕方の静かな時間。
窓辺に座るエイリスを前に、椅子に腰掛けて、しばらく黙っていた。
「……あのとき、もう駄目だと思ったよ。心臓が止まったと聞いた時はな……まあ、生きていたなら、それでいい」
それ以上の感情はなかった。
親としての義務だけがそこにあるような、淡白な声だった。
驚かせてはいけないと思い、エイリスは無言で頷くだけにした。
継母・カトリーヌは、一度だけ訪れた。
実母のリシアが亡くなった後、すぐにアルセリオ公爵と結婚したのが、このカトリーヌだった。リシアの従妹にあたり、エイリス達とも血縁関係にあたるのだが、エイリスとの関係は良くなかった。
華やかな香水を纏い、白いドレスで静かに現れた。
扉の前に立ち止まり、にこりと言う。
「……元気そうで、よかったわ」
目は笑っていない。それだけを言って、立ち去っていった。
妹レナは、一度も部屋を訪れる事はなかった。
かすかに残る記憶の中に、レナの怯えた目と、扉の陰に隠れる姿がある。
足音も声も、まったくなかった。
こうして、静かな日々が続いていた。
誰も深く関わらず、誰も問いかけず、部屋の空気だけが時間を刻む。
今日は曇り。昨日は晴れ。明日は雨かもしれない。
それだけだった。
目覚めてから二週間後。
晩餐に呼ばれたのは、目覚めてから初めてのことだった。
公爵家の広間に足を踏み入れると、そこには重厚なシャンデリアと白磁の食器、絢爛な刺繍が施された椅子が並び、まるで舞踏会の余韻を閉じ込めたような静けさが漂っていた。
(できるかぎり、口調には気を付けよう……!令嬢らしく振舞うのだ!!)
エイリスはかなり緊張していた。
食卓には、父・アルセリオ公爵、継母カトリーヌ、妹のレナが既に着席していた。
「エイリス、おまえの席はこちらだ」
公爵もやや緊張した声でそう告げた。
視線を向ければ、公爵の目には微かな不安と戸惑いが浮かんでいた。
それが“かつてのエイリス”を知る者の当然の反応だということは、魔王である彼女にも理解できた。
「……ご…、ご心配をおかけしました、お、お父様」
椅子に腰を下ろしながら、静かに、けれどどこかたどたどしく挨拶をする。
言葉の選び方も抑揚も、どこか「覚えたばかりの礼儀作法」のようで不自然だったが、それでも公爵は、ほっとしたように一息ついた。
「……体の調子はどうだ?」
「……ああ。いや、え、ええ。お、お気遣いに感謝いたします」
レナが目を丸くしてこちらを見ていた。
カトリーヌは、いつものように微笑を浮かべていたが、その笑みには“観察する者”の視線が潜んでいる。
彼女の手元にはナイフとフォーク、そしてその横に置かれたワイングラス。細い指がゆるやかに縁をなぞっている。
料理は温かく、彩りも鮮やかだったが、会話が少ないせいか、食卓全体がどこか冷えきっているようだった。
「……エイリス」
沈黙を破ったのは、公爵だった。声には微かな慎重さがあった。
「実は……、お前が昏睡状態になっていた半年……。その間に……」
公爵は、慎重に言葉を選びながら言った。
「陛下より、正式な婚約が発表された。第一皇子、レニオス殿下と――ミリア・レグリス嬢の婚約だ。そして、3か月前に、二人は結婚した」
言葉が落ちた瞬間、食卓の空気がわずかに緊張した。
カトリーヌがわざとらしく息を漏らし、レナはスプーンを持つ手を止めてエイリスを見た。
(……レニオスと、ミリアか)
エイリスの中に残る“記憶”がささやいた。
レニオス。
美しく、誰もが振り向くような容貌と気品を備えていて、エイリスが誰よりも愛していた男。
ミリアは、エイリスと同じく三大名家の令嬢で、中でも聡明と評されていたが、“偽善者”と呼び、エイリスが毛嫌いしていた令嬢だった。
かつてのエイリスなら、この状況に烈火のごとく怒り狂っていた。だが今は、ただ静かに微笑むのみだった。
「……なるほど。それは、おめでたいことですね」
ナイフとフォークを持ったまま、平然と答える。その声に怒気はなく、むしろ食後の紅茶でも頼むかのような静けさがあった。
公爵は目を見開いた。
「……おまえ、本当に……怒っていないのか?」
「怒る理由など。それは決定事項なのだろう…なのでしょう?だいたい、レニオス皇子と私は……別に婚約者だった訳ではないです」
「……いや、そう、だが……」
どこか困惑したように言葉を濁す公爵。
それを横で聞いていたカトリーヌが、くすりと笑った。
「まぁ、私達も驚きましたわ。あのレニオス様がミリア嬢と……。世間では、エイリスがレニオス様の婚約者になると囁かれていましたのに」
その言葉には棘があった。
だが、エイリスは表情一つ変えず、スープを口に運ぶ。
(……レニオスが婚約しようが、どうでもいい)
かつて抱いていた執着すら、今では薄い霧のように消えていた。
「……それと、もうひとつ話がある」
公爵の声色が変わった。
今までの淡白な父親の口調から一転、何かを慎重に告げようとする、まるで爆弾を投げる前の静けさのような緊張がにじんでいた。
エイリスは手元のナイフとフォークを静かに置き、父の方へと視線を向ける。
その眼差しは凛としていたが、内心は穏やかではない。
「お前が……その、元気になったことで、陛下より正式な命が下された。婚約相手が、決まったそうだ」
(……婚約?)
頭の片隅で、まさか私が!!と思う。
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「……相手は、第二皇子。リュシオン殿下だ」
――ガシャンッ。
銀のフォークが手から滑り、皿にぶつかって甲高い音を立てた。
その瞬間、場の空気が凍りつく。
「エ、エイリス……。いや、わかってるつもりだ。お前があの方をどんな風に見ていたか……だがしかし……」
公爵が慌てて声をかけるが、エイリスは返事をしない。
目を見開き、唇が震えていた。血の気が一気に引いて、顔が青ざめていく。
(……嘘だろう……今、なんて?)
リュシオン? リュシオン殿下? あの“リュシオン”が、この国の皇子……?
──そうだ。思い出した。今さらながらに、脳裏で結びついてしまった。
リュシオン・エルヴェイン。
私が――魔王だった私が、最後に命をかけて戦ったあの少年。
赤い瞳、静かな怒りを湛えたまなざし。
そう、間違いない。
あの時、あの場で、私と相打ちになった……あの“勇者”だ。
(くそっ……なんで忘れていた!? なぜ、この国の皇子の名前が“リュシオン”であることを……!?)
動揺で思考が混乱する。
魔王であった時の記憶と、エイリスの身体を通して感じる現在の現実がぶつかり合い、頭の中で警鐘が鳴り響いていた。
(そうか……! あれは、リュシオンは“皇子”だったのか。人間の中で、もっとも高貴な血を引く者……!)
それに、魔王の記憶の中で“勇者”が皇族であるという情報は、ごくわずかだった。
アリアの報告にも、ほとんど名前が出なかった。
それもそのはずだ。リュシオンは“影の皇子”、皇族でありながら王宮の端に追いやられていた皇子であった。
そして、エイリスは、レニオスとの記憶は強くあるものの、リュシオンには全く興味がなかったようだ。
(どうりで、情報が少なかったわけだ……)
そんな人物と、婚約……?
結婚だと?
一つ屋根の下で、同じ空間に身を置く……?
(ありえない……ッ!)
かつて、私を殺し、そして私に殺された男だぞ!?
それが、いま私の“婚約者”? なんの冗談だ。
エイリスは、必死に心の中のざわめきを押し込めた。
両手を太ももに押し当て、震えを感じさせないように静かに力を込める。顔は笑顔――のつもりだったが、引きつった口角の形がそれを物語っていた。
「……それは、光栄……でございます」
ひと呼吸置いて絞り出されたその言葉に、場の空気が一瞬止まった。
まず、アルセリオ公爵が目を見開いた。
あの娘が――自分の娘が、あのリュシオン殿下に婚約を命じられて、喚き散らさないなどと想像もしなかった。
「……ほ、本当に、いいのか?」
にわかに信じられず、疑念を込めた視線がエイリスに向けられる。
「……ああ、いや、ええ。陛下の命には、逆らえませんので」
一応、令嬢らしく整えた丁寧な口調だったが、微かに震えるその声は、聞く者の胸にかすかな違和感を残した。
公爵の心中には混乱が渦巻いていた。
あの傲慢で、皇子の存在すら認めずにいた娘が、まさか自ら婚約を受け入れるなど――。
「……記憶が、まだ戻っていないのではないか?」
思わず疑念が口を突いて出る。
「大丈夫です。お心遣い、感謝いたします」
穏やかな返答だった。だが、あまりにも“別人”のような口ぶりに、公爵はますます眉をひそめた。
レナは、驚きでスプーンを落としかけた。
汚れた皇子と言って、目すら合わせようとしなかった姉が、まさかリュシオン殿下との婚約に――あんな穏やかに応じるとは。
(……嘘でしょ。お姉様が……?)
数年前、エイリスがリュシオンを見たあの瞬間。
あからさまな侮蔑の目。まるで、“そこにいることが許されない存在”でも見るような、冷たい視線――あれを忘れることなど、レナにはできなかった。
そして、今。
婚約の知らせに動揺するどころか、静かに受け入れている姉を見て、レナは思わず自分の手を見つめ直した。
震えていたのは、姉ではなく自分の指先だった。
カトリーヌはと言えば、ワイングラスをくるくると回す手をぴたりと止めた。
その瞳には、鋭い興味と、冷静な“観察”が宿っていた。
(……この子、本当にエイリス?)
その微笑は崩れなかったが、唇の端はわずかに引き締まり、警戒と疑念がわずかににじむ。
「……さすがは公爵家の娘ね。冷静で立派だこと」
そう口にしながらも、どこか試すような響きがある。
エイリスは、スープをすするふりをした。
手はかすかに震えていた。匙がカチャリと小さく音を立てる。
(リュシオン……まさか、この世界でも、彼と再び関わることになるとは)
あの赤い瞳。静かで、深く、凍てつくような怒りを宿した眼差し――忘れたくても、忘れられない光景が脳裏に浮かぶ。
その時、エイリスの舞踏会の記憶がよみがえる。
煌びやかな光の中、レニオス皇子の隣に立つ自分。
まるでその場の空気すら従わせるように、誰もがエイリスの顔色をうかがい、息をひそめる。
その美しさと立ち居振る舞いは堂々たるものだった。
優しく微笑みながらレニオス皇子に手を添え、耳元に囁く。
「殿下のお隣に立つと、皆が見惚れてしまいますわね」
レニオスはわずかに笑い、当然のようにそれを受け入れる。
だがその場に、リュシオン皇子が現れると、空気が明らかに変わった。
エイリスは一瞥すらくれず、まるで虫が足元を這っているかのような視線を下に落とす。言葉など、もってのほかだ。彼に話しかけることすら、自らの価値を損なう行為に思えるのだろう。
それでも、彼女の声はしっかりと届く距離で、言うのだった。
「……あら、今、何か臭わなかったかしら?」
「やっぱり血って、隠せないのね。どれだけ着飾っても、ねぇ?」
「私、汚らわしいものに近づくと、肌が荒れるのよ。困ったわ」
柔らかく、上品な口調で語られるその言葉の刃は、誰よりも冷たく鋭い。リュシオンはそれを無視するしかない。反論は無意味。相手は皇子であっても“彼女”には届かない。
視線すら交わさない。
まるでそこに“人間”など存在していないかのように、エイリスは微笑み、レニオスの腕にそっと寄り添った。
それが、“彼女のやり方”だった。
そのときの“自分”は、優越感に満ちた笑みを浮かべながら、まるで女王のように振る舞っていた。
(……エイリスはリュシオンに嫌われていてる。絶対に……。過去の“エイリス”の振る舞いを思えば、顔を合わせるのも辛いくらいだ)
それでも。
(……もし、もう一度、話せるのなら)
それは、贖罪でもなく、同情でもない。
ただ、あのとき果たせなかった“対話”を、今度こそ――。
(……今度は、ちゃんと……向き合いたい)
それはまだ名前も形もない、ただのかけらのような感情だった。
だが、魔王だった彼女の中にはなかった、“変化”の兆しだった。
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何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
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