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令嬢になるための努力
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エイリスには、侍女が三人いた。
マリアンヌ──年配で口数が少なく、視線と言葉の選び方に慎重さがある。以前から仕えており、どこか“業務としての忠義”を貫いている印象を受ける。
ティナ──一番若い。焦ると手元が震える。動作にぎこちなさが残り、常に怯えたような目をしていた。エイリスの顔を見るたび、言葉を飲み込むような仕草をする。
リゼット──よく気が利く。手際は良く、髪を整えるのは彼女の役目だった。エイリスとも年が近く、エイリスが愚痴を言うと、いつもうまく話を合わせていた。
ティナとリゼットは、エイリスが目覚めた瞬間にいた侍女達だ。その時は怯えていたが、今はエイリスの世話を今まで通り滞りなく行っている。
起床、着替え、簡単な朝食。
その後は読書をして、昼を迎える。
昼食の後は何もしない。
午後の光が窓に差し込む頃、リゼットが来て、髪を整える。
夜にはスープとパン。食欲がない日は、それでも少しだけ口をつけた。
灯りが消されるまで、部屋から出ることはない。
誰かが訪れることも滅多にない。
部屋の隅、重厚なクッションに身を預け、彼女は静かに目を閉じる。
心を侵すように、エイリスの記憶が流れ込んでくる。
思い出されるのは、自分――いや、“この体の元の持ち主”がしてきた、恐るべき行いの数々だった。
(……ひどいな……)
思わず息を呑む。
魔王であった頃にも、ここまで陰湿な仕打ちを目にしたことはなかった。
彼女は、使用人を人とも思わず、他人の尊厳を踏みにじることに何のためらいもなかった。侮辱と支配は日常のもので、家族すら例外ではなく、気に入らなければ容赦なく踏みつける。
微笑みながら残酷な言葉を投げかけ、冷たい手で人の心を壊していく。その姿は、昔魔王が読んだ人間の小説に中に描かれていた、“悪役令嬢”そのものだった。
(……人間は、…やっぱり恐ろしい存在だ)
自分の中にある“悪”の定義すら、根底から揺らいでいく。
戦場では、剣と魔法がすべてを決めた。
だが、この“エイリス”の世界では――言葉と笑顔で、心を切り裂く。
(これが、“人間社会”というものか……)
ぞっとした。
刃を持たず、血も流さず、それでも確実に誰かを壊していく。
それは魔王の時代には存在しなかった“見えない暴力”だった。
「……これは戦争より恐ろしいな……」
そう呟き、クッションに顔をうずめる。
冷たい汗が背筋を伝った。
次の日。
雨が静かに屋根を打つ音がした。エイリスはゆっくりと窓を見上げた。
「……失礼いたします、お嬢様」
朝の淡い光が窓辺を照らす頃、控えめなノック音とともに、ティナの声が響いた。
エイリスは静かに目を開け、短く答える。
「入っていい」
その声は、冷たくも優しくもない。ただ、淡々としていた。
扉がゆっくりと開き、ティナが入室する。その後ろには、リゼットとマリアンヌの姿も見える。
三人の侍女は、まるで地雷原に足を踏み入れる兵士のような表情で、慎重な足取りを進めてきた。
「……おはようございます、お嬢様。お目覚めはいかがでしょうか」
「特に問題はない。用意を」
そう言って、エイリスはベッドから立ち上がる。
(……思ったよりも自然に言えたな)
過去の記憶は鮮明だ。
この体の“エイリス”が、いかに周囲を苛立ちと不安で支配していたかも、嫌というほど知っている。
理不尽に侍女を怒鳴り、服の皺ひとつで平手打ちをくれ、侍医の診察に舌打ちしながら毒づく日々。
(突然別人のように優しくなったら、まず間違いなく警戒されるだろう)
だから、エイリスは“変わらなさすぎないように、変わる”という難題に挑んでいた。
「お嬢様、こちらのドレスを……」
「それでいい」
リゼットの差し出したドレスを一瞥し、即答する。
(本来なら、細かくケチをつけていただろうな)
「では、こちらにお立ちください……」
「……」
ティナとマリアンヌが、エイリスを着替え台へと誘導する。手際よくドレスを外し、新しい衣装を着せていく。エイリスは動じず、何の感情もない目でただ前を向いていた。
ときおり結び目が少しきつくなるが、何も言わない。
(我慢してるように見えるのも不自然だな……一言くらい言うか)
「締めすぎだ。緩めろ」
「は、はい!申し訳ございませんっ!」
ティナが跳ねるように手を緩める。
(悪いな……別に怒ってはいない)
しかし、そう言うのも変だ。
これが今の“自分”に課せられた役割なのだと、魔王であるエイリスは理解していた。
着替えを終えると、東棟のテラスで紅茶が用意されていた。
「本日はセイロンでございます。お好みで蜂蜜を」
「……要らない。砂糖一杯で」
リゼットが少しだけ驚いた顔をする。
かつてのエイリスは、砂糖が“甘ったるくて貧乏くさい”と嫌っていたはずだ。
(それすらも、記憶にあるのが皮肉だな)
だが、魔王にとってはこの味がちょうど良かった。
甘さは、魔力を安定させる効果がある――というわけではないが、気分の問題である。
「お嬢様、今日の体調は……?」
「問題ない」
それだけ答え、エイリスは窓の外を見やる。整えられた庭園、遠くで鳥がさえずり、使用人たちが忙しなく動いている。
この家は、華やかで美しい。だが、どこか異様なほどに“整いすぎて”いた。
(檻、だな)
口に出すことはないが、魔王の視点から見れば、この屋敷はまるで絢爛な牢獄のようだった。
そしてその中心で、彼女は“令嬢という名の人形”を演じている。
ティナが紅茶を注ぎながら、恐る恐る尋ねた。
「……あの、お嬢様」
「なんだ」
「……もしかして、何か……記憶を失われている、というようなことは……?」
「ない。すべて覚えている」
即答したエイリスに、ティナはわずかに肩をすくめた。
「そう……でございますか」
その返答が、逆に三人の不安をあおったようだった。
“覚えている”のに、“こんなにも変わった”という違和感。
それが余計に、不気味さを漂わせる。
(……少しは、ぼかしたほうが良かったか)
けれど、嘘はつけなかった。
魔王は、言葉に責任を持つタイプだった。
午後、屋敷内をゆっくり歩く時間が設けられた。マリアンヌが付き添い、エイリスは廊下を進む。
壁には豪華な絵画、天井には煌びやかなシャンデリア。かつてのエイリスは、この空間に見合う“傲慢さ”を当然と思っていた。
しかし今のエイリスは、そのすべてが虚飾に思えた。
「マリアンヌ、私に質問があるか?」
「え!?いえ……」
「……言ってみろ。黙っているほうが、不自然だ」
「……お嬢様は、本当にお嬢様……ですよね?」
その一言に、エイリスは一瞬立ち止まった。
「記憶はあると言った。性格が変わったと、感じているか?」
「……はい。以前とは、まるで……」
「そうか」
エイリスは再び歩き出した。
「では、今の私は、“少しだけマシなエイリス”ということで、どうだ?」
その言い方は、淡々としていて、どこか自嘲じみていた。
マリアンヌは何も言えず、ただその背中を見つめるしかなかった。
夜。
ベッドに横たわりながら、エイリスは天井を見つめていた。“演じる”という行為は、想像以上に神経を削る。魔王であった頃のように、強さだけで立っていられる世界ではない。
だが――
(人間の心は……脆いけれど、温かくもある)
魔王として最後に見たあの“勇者”の目。
それは、今の自分の“再生”を支えている唯一の記憶。
その目を思い出すと、少しだけ気持ちが安らぐ。
エイリスは一冊の書をめくった。表紙には、古い貴族礼儀作法集と書かれている。
(……やはり、これは必須だな)
「貴族令嬢としての口調」「侍女への接し方」「夜会での挨拶例」――
どれも形式ばっていて、魔王の感覚には正直退屈極まりない。
だが。
(言葉は、力を持つ。軽んじてはいけない)
エイリスは過去の記憶――魔王として、数千の軍を前に放った言葉、命令、誓いの数々を思い返す。
ひとつの言葉で人は奮い立ち、
ひとつの命令で命が失われる。
それは人間でも、魔族でも同じことだった。
(“お前”や“貴様”では駄目だ。“あなた”や“そなた”……いや、これは古すぎるか)
声に出して試してみる。少し照れくさい気持ちが顔をよぎる。
「……ティナ、リゼット……いや、ティナさん。……さん?」
(“さん”付けは下に見られる、か。じゃあ、“あなたたち”は……少し距離がありすぎる?)
思わず額を押さえた。
「……ややこしいな!!」
その声に、ドアの外で待機していたティナが小さく息を呑む気配がした。
(聞かれていたか。まあ、いい)
やがて本を閉じ、ランプの火を落とす。
「……“人間らしく”なりたいわけじゃない。ただ――」
そこまで言って、口を閉じた。
(人間たちに恐れられていた魔王の私だが……、ずっと人間と心を通わせてみたかったのだ)
明日こそは、少しだけ柔らかい言葉を――
それがどんなに不自然でも、努力しよう。
マリアンヌ──年配で口数が少なく、視線と言葉の選び方に慎重さがある。以前から仕えており、どこか“業務としての忠義”を貫いている印象を受ける。
ティナ──一番若い。焦ると手元が震える。動作にぎこちなさが残り、常に怯えたような目をしていた。エイリスの顔を見るたび、言葉を飲み込むような仕草をする。
リゼット──よく気が利く。手際は良く、髪を整えるのは彼女の役目だった。エイリスとも年が近く、エイリスが愚痴を言うと、いつもうまく話を合わせていた。
ティナとリゼットは、エイリスが目覚めた瞬間にいた侍女達だ。その時は怯えていたが、今はエイリスの世話を今まで通り滞りなく行っている。
起床、着替え、簡単な朝食。
その後は読書をして、昼を迎える。
昼食の後は何もしない。
午後の光が窓に差し込む頃、リゼットが来て、髪を整える。
夜にはスープとパン。食欲がない日は、それでも少しだけ口をつけた。
灯りが消されるまで、部屋から出ることはない。
誰かが訪れることも滅多にない。
部屋の隅、重厚なクッションに身を預け、彼女は静かに目を閉じる。
心を侵すように、エイリスの記憶が流れ込んでくる。
思い出されるのは、自分――いや、“この体の元の持ち主”がしてきた、恐るべき行いの数々だった。
(……ひどいな……)
思わず息を呑む。
魔王であった頃にも、ここまで陰湿な仕打ちを目にしたことはなかった。
彼女は、使用人を人とも思わず、他人の尊厳を踏みにじることに何のためらいもなかった。侮辱と支配は日常のもので、家族すら例外ではなく、気に入らなければ容赦なく踏みつける。
微笑みながら残酷な言葉を投げかけ、冷たい手で人の心を壊していく。その姿は、昔魔王が読んだ人間の小説に中に描かれていた、“悪役令嬢”そのものだった。
(……人間は、…やっぱり恐ろしい存在だ)
自分の中にある“悪”の定義すら、根底から揺らいでいく。
戦場では、剣と魔法がすべてを決めた。
だが、この“エイリス”の世界では――言葉と笑顔で、心を切り裂く。
(これが、“人間社会”というものか……)
ぞっとした。
刃を持たず、血も流さず、それでも確実に誰かを壊していく。
それは魔王の時代には存在しなかった“見えない暴力”だった。
「……これは戦争より恐ろしいな……」
そう呟き、クッションに顔をうずめる。
冷たい汗が背筋を伝った。
次の日。
雨が静かに屋根を打つ音がした。エイリスはゆっくりと窓を見上げた。
「……失礼いたします、お嬢様」
朝の淡い光が窓辺を照らす頃、控えめなノック音とともに、ティナの声が響いた。
エイリスは静かに目を開け、短く答える。
「入っていい」
その声は、冷たくも優しくもない。ただ、淡々としていた。
扉がゆっくりと開き、ティナが入室する。その後ろには、リゼットとマリアンヌの姿も見える。
三人の侍女は、まるで地雷原に足を踏み入れる兵士のような表情で、慎重な足取りを進めてきた。
「……おはようございます、お嬢様。お目覚めはいかがでしょうか」
「特に問題はない。用意を」
そう言って、エイリスはベッドから立ち上がる。
(……思ったよりも自然に言えたな)
過去の記憶は鮮明だ。
この体の“エイリス”が、いかに周囲を苛立ちと不安で支配していたかも、嫌というほど知っている。
理不尽に侍女を怒鳴り、服の皺ひとつで平手打ちをくれ、侍医の診察に舌打ちしながら毒づく日々。
(突然別人のように優しくなったら、まず間違いなく警戒されるだろう)
だから、エイリスは“変わらなさすぎないように、変わる”という難題に挑んでいた。
「お嬢様、こちらのドレスを……」
「それでいい」
リゼットの差し出したドレスを一瞥し、即答する。
(本来なら、細かくケチをつけていただろうな)
「では、こちらにお立ちください……」
「……」
ティナとマリアンヌが、エイリスを着替え台へと誘導する。手際よくドレスを外し、新しい衣装を着せていく。エイリスは動じず、何の感情もない目でただ前を向いていた。
ときおり結び目が少しきつくなるが、何も言わない。
(我慢してるように見えるのも不自然だな……一言くらい言うか)
「締めすぎだ。緩めろ」
「は、はい!申し訳ございませんっ!」
ティナが跳ねるように手を緩める。
(悪いな……別に怒ってはいない)
しかし、そう言うのも変だ。
これが今の“自分”に課せられた役割なのだと、魔王であるエイリスは理解していた。
着替えを終えると、東棟のテラスで紅茶が用意されていた。
「本日はセイロンでございます。お好みで蜂蜜を」
「……要らない。砂糖一杯で」
リゼットが少しだけ驚いた顔をする。
かつてのエイリスは、砂糖が“甘ったるくて貧乏くさい”と嫌っていたはずだ。
(それすらも、記憶にあるのが皮肉だな)
だが、魔王にとってはこの味がちょうど良かった。
甘さは、魔力を安定させる効果がある――というわけではないが、気分の問題である。
「お嬢様、今日の体調は……?」
「問題ない」
それだけ答え、エイリスは窓の外を見やる。整えられた庭園、遠くで鳥がさえずり、使用人たちが忙しなく動いている。
この家は、華やかで美しい。だが、どこか異様なほどに“整いすぎて”いた。
(檻、だな)
口に出すことはないが、魔王の視点から見れば、この屋敷はまるで絢爛な牢獄のようだった。
そしてその中心で、彼女は“令嬢という名の人形”を演じている。
ティナが紅茶を注ぎながら、恐る恐る尋ねた。
「……あの、お嬢様」
「なんだ」
「……もしかして、何か……記憶を失われている、というようなことは……?」
「ない。すべて覚えている」
即答したエイリスに、ティナはわずかに肩をすくめた。
「そう……でございますか」
その返答が、逆に三人の不安をあおったようだった。
“覚えている”のに、“こんなにも変わった”という違和感。
それが余計に、不気味さを漂わせる。
(……少しは、ぼかしたほうが良かったか)
けれど、嘘はつけなかった。
魔王は、言葉に責任を持つタイプだった。
午後、屋敷内をゆっくり歩く時間が設けられた。マリアンヌが付き添い、エイリスは廊下を進む。
壁には豪華な絵画、天井には煌びやかなシャンデリア。かつてのエイリスは、この空間に見合う“傲慢さ”を当然と思っていた。
しかし今のエイリスは、そのすべてが虚飾に思えた。
「マリアンヌ、私に質問があるか?」
「え!?いえ……」
「……言ってみろ。黙っているほうが、不自然だ」
「……お嬢様は、本当にお嬢様……ですよね?」
その一言に、エイリスは一瞬立ち止まった。
「記憶はあると言った。性格が変わったと、感じているか?」
「……はい。以前とは、まるで……」
「そうか」
エイリスは再び歩き出した。
「では、今の私は、“少しだけマシなエイリス”ということで、どうだ?」
その言い方は、淡々としていて、どこか自嘲じみていた。
マリアンヌは何も言えず、ただその背中を見つめるしかなかった。
夜。
ベッドに横たわりながら、エイリスは天井を見つめていた。“演じる”という行為は、想像以上に神経を削る。魔王であった頃のように、強さだけで立っていられる世界ではない。
だが――
(人間の心は……脆いけれど、温かくもある)
魔王として最後に見たあの“勇者”の目。
それは、今の自分の“再生”を支えている唯一の記憶。
その目を思い出すと、少しだけ気持ちが安らぐ。
エイリスは一冊の書をめくった。表紙には、古い貴族礼儀作法集と書かれている。
(……やはり、これは必須だな)
「貴族令嬢としての口調」「侍女への接し方」「夜会での挨拶例」――
どれも形式ばっていて、魔王の感覚には正直退屈極まりない。
だが。
(言葉は、力を持つ。軽んじてはいけない)
エイリスは過去の記憶――魔王として、数千の軍を前に放った言葉、命令、誓いの数々を思い返す。
ひとつの言葉で人は奮い立ち、
ひとつの命令で命が失われる。
それは人間でも、魔族でも同じことだった。
(“お前”や“貴様”では駄目だ。“あなた”や“そなた”……いや、これは古すぎるか)
声に出して試してみる。少し照れくさい気持ちが顔をよぎる。
「……ティナ、リゼット……いや、ティナさん。……さん?」
(“さん”付けは下に見られる、か。じゃあ、“あなたたち”は……少し距離がありすぎる?)
思わず額を押さえた。
「……ややこしいな!!」
その声に、ドアの外で待機していたティナが小さく息を呑む気配がした。
(聞かれていたか。まあ、いい)
やがて本を閉じ、ランプの火を落とす。
「……“人間らしく”なりたいわけじゃない。ただ――」
そこまで言って、口を閉じた。
(人間たちに恐れられていた魔王の私だが……、ずっと人間と心を通わせてみたかったのだ)
明日こそは、少しだけ柔らかい言葉を――
それがどんなに不自然でも、努力しよう。
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