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クライヴに手作りクッキーを渡した翌日。シャーベット家の朝は、いつもより穏やかな空気が流れていた。アリスは多少寝不足気味ながらも、どこか上機嫌。屋敷の使用人たちにも「今日はご機嫌ですね、お嬢様」などと囁かれるほどだ。
「ふぁ……。寝るのは嫌いだけど、まあ、気分がいいと眠くもならないですね」
アリスはダイニングで紅茶を飲みながら、小さくあくびのような呼吸をする。昨日、クライヴが心からクッキーを喜んでくれたことが嬉しかったのだろう。いつにも増して頬がほんのり桜色だ。
「お嬢様、今日は何をなさいますか? 天気も良いですし、散策に出かけても気持ちが良いかと」
侍女長のミレイが提案するが、アリスは少し考え込む。クライヴとは「また話したい」と約束したが、まだ連絡は来ていない。今のうちに別の用事を済ませるのもいいが、気持ちが落ち着かない。
「うーん、そうですね。ちょっとお庭を歩く程度ならいいかもしれませんけど……。あ、でもわたし、エリックに相談したいことがあるんです」
「エリック様なら、中庭のほうにいらっしゃるようですよ。朝の訓練がお済みの時間でしょうし」
ミレイの言葉に「ありがとう」と返して、アリスは椅子を立ち上がる。
中庭へ出ると、エリックが木剣を片付けているところだった。アリスの足音に気づくと、彼はゆるりと振り返る。
「アリス、おはよう。どうした、こんなところまで」
「エリック、少し話せますか? ……お散歩しながらでも」
アリスが控えめに声をかけると、エリックはわずかに眉をひそめながら「いいぞ」と答える。二人は中庭の花壇沿いの道を並んで歩き始めた。いつものようにエリックが半歩後ろを歩くわけでもなく、ほぼ同じペースだ。
「クライヴさま……すごく喜んでくれたんです。クッキー、ちゃんと食べてくれました」
「そうか。……良かったな」
「はい。夜更かしして作った甲斐がありました」
アリスは照れ隠しに微笑むが、エリックの反応は淡白だ。アリスは彼の横顔をちらりと見やり、少し不安になる。やはりクライヴの話題を出すと、エリックは微妙な態度を取る気がするのだ。
「……エリック、もしかして怒ってますか? わたし、あなたを巻き込んでばっかりで」
「いや、怒ってない。アリスが楽しそうにしてるなら、俺はそれでいい」
エリックの言葉自体は穏やかだが、その表情にはどこか影がある。アリスは何も言えず、足元を見つめたまま歩く。
すると、エリックがぽつりと呟くように続ける。
「ただ、ここ数日……社交界では変な噂が流れてる。『クライヴとアリスが再婚約するらしい』とか、『すでに復縁の準備は整ってる』とか」
「えっ……そうなんですか?」
「詳しくはわからん。夜会のときの様子や、クライヴがアリスを意識してる風を目撃した連中が面白おかしく話を作ってるんだろう」
アリスは一瞬言葉を失う。実際、婚約破棄が撤回されたわけではないし、正式に誰にもそんなことを言っていない。けれど、クライヴが「もう少し距離を縮めたい」と言っているのは事実だ。
「再婚約……。わたし、そんな話をされたわけじゃないです。クライヴさまも『焦らない』って言ってましたし……」
「だろうな。お前もまだ結婚を考える段階じゃないって言ってたし。……でも、周りが勝手に盛り上がるせいで、お前にまた求婚者が殺到するかもしれないぞ」
「ええ……もう手紙はこりごりです」
思い出すだけで頭が痛くなりそうだ。大量の手紙を仕分けし、丁寧に断る作業を思うと、再び同じ苦労を繰り返すのは嫌だった。
エリックはそんなアリスの顔を見て、小さくため息をつく。
「俺はお前を守る。それは変わらない。……でも、クライヴを含め、誰とどうなるかは結局お前が決めるんだ。周りの噂に流されるなよ」
「うん……ありがとう、エリック」
アリスは素直にお礼を言う。エリックは「礼なんて要らない」と苦笑するが、その目にはまだ拭いきれない葛藤が宿っている。
しばらく無言で歩いた後、アリスはふと思いつき、口を開いた。
「エリック、またわたしと一緒にお菓子作りしませんか? えっと、クライヴさまにってわけじゃなくて、ほかにも誰かに配ったり……」
「何で俺が? この前も夜更かしに付き合っただろ」
「だって、わたし一人じゃ危ないし……エリックとなら楽しいですし。寝るの嫌いだけど、その時間をお菓子作りに使えば有意義って思えるんです」
アリスが笑顔で頼むと、エリックは「困ったやつだな」と呟くが、まんざら嫌でもない様子だ。むしろアリスの頼みなら断れない性格をしている。
「……わかったよ。今度はクライヴへのプレゼントじゃないんだな?」
「はい。……もちろん、また作ったらクライヴさまにも少し分けてあげたいですけど、そこまで気負ってないです。フローレンスとか、ほかの友人にも配れたらいいなって」
「そっか。じゃあ、また夜更かしだな。俺の身体がもつかどうか」
エリックは冗談めかして言い、二人はくすくすと笑い合う。穏やかな時間が流れ、アリスは少しだけ“再婚約の噂”への不安を和らげることができた。
---
しかし、その噂は思いのほか勢いを増して広まっていた。「公爵家が破棄を撤回するようだ」「アリスはすでにクライヴの元へ通い始めている」など、真偽不明の話が飛び交い、社交界の一部では既成事実のように語られつつある。
そこへ、前にアリスへ猛アプローチをしていたディーン子爵が黙っているはずもない。アリスの拒絶で一時は諦めかけていたが、今回の噂に激しく反応しはじめたのだ。
「再婚約なんて……俺の入る隙はないのか! いや、諦めるものか」
ディーンはそう息巻いて動き出した。再びシャーベット家に接触を図ろうとしているという噂が流れ、アリスの周辺にさらなる波乱を予感させる。
エリックの懸念は的中しそうだった。アリス本人はまだクライヴとの関係を模索中にすぎないが、周りがそれを許さない雰囲気を醸成している。
そんな状況を、当のアリスはまだ深く理解していない。彼女は「またお菓子作りをして夜更かししちゃおう」と軽やかに考え、エリックを巻き込もうとしている。ディーンの暗躍や社交界の噂がどんな結末を呼ぶのか、想像もしていないのだ。
――春の陽射しの中、アリスとエリックは中庭をゆっくりと歩き続ける。その足音は平穏だが、遠からずやってくる波乱の足音はすぐ近くまで迫っていた。
「ふぁ……。寝るのは嫌いだけど、まあ、気分がいいと眠くもならないですね」
アリスはダイニングで紅茶を飲みながら、小さくあくびのような呼吸をする。昨日、クライヴが心からクッキーを喜んでくれたことが嬉しかったのだろう。いつにも増して頬がほんのり桜色だ。
「お嬢様、今日は何をなさいますか? 天気も良いですし、散策に出かけても気持ちが良いかと」
侍女長のミレイが提案するが、アリスは少し考え込む。クライヴとは「また話したい」と約束したが、まだ連絡は来ていない。今のうちに別の用事を済ませるのもいいが、気持ちが落ち着かない。
「うーん、そうですね。ちょっとお庭を歩く程度ならいいかもしれませんけど……。あ、でもわたし、エリックに相談したいことがあるんです」
「エリック様なら、中庭のほうにいらっしゃるようですよ。朝の訓練がお済みの時間でしょうし」
ミレイの言葉に「ありがとう」と返して、アリスは椅子を立ち上がる。
中庭へ出ると、エリックが木剣を片付けているところだった。アリスの足音に気づくと、彼はゆるりと振り返る。
「アリス、おはよう。どうした、こんなところまで」
「エリック、少し話せますか? ……お散歩しながらでも」
アリスが控えめに声をかけると、エリックはわずかに眉をひそめながら「いいぞ」と答える。二人は中庭の花壇沿いの道を並んで歩き始めた。いつものようにエリックが半歩後ろを歩くわけでもなく、ほぼ同じペースだ。
「クライヴさま……すごく喜んでくれたんです。クッキー、ちゃんと食べてくれました」
「そうか。……良かったな」
「はい。夜更かしして作った甲斐がありました」
アリスは照れ隠しに微笑むが、エリックの反応は淡白だ。アリスは彼の横顔をちらりと見やり、少し不安になる。やはりクライヴの話題を出すと、エリックは微妙な態度を取る気がするのだ。
「……エリック、もしかして怒ってますか? わたし、あなたを巻き込んでばっかりで」
「いや、怒ってない。アリスが楽しそうにしてるなら、俺はそれでいい」
エリックの言葉自体は穏やかだが、その表情にはどこか影がある。アリスは何も言えず、足元を見つめたまま歩く。
すると、エリックがぽつりと呟くように続ける。
「ただ、ここ数日……社交界では変な噂が流れてる。『クライヴとアリスが再婚約するらしい』とか、『すでに復縁の準備は整ってる』とか」
「えっ……そうなんですか?」
「詳しくはわからん。夜会のときの様子や、クライヴがアリスを意識してる風を目撃した連中が面白おかしく話を作ってるんだろう」
アリスは一瞬言葉を失う。実際、婚約破棄が撤回されたわけではないし、正式に誰にもそんなことを言っていない。けれど、クライヴが「もう少し距離を縮めたい」と言っているのは事実だ。
「再婚約……。わたし、そんな話をされたわけじゃないです。クライヴさまも『焦らない』って言ってましたし……」
「だろうな。お前もまだ結婚を考える段階じゃないって言ってたし。……でも、周りが勝手に盛り上がるせいで、お前にまた求婚者が殺到するかもしれないぞ」
「ええ……もう手紙はこりごりです」
思い出すだけで頭が痛くなりそうだ。大量の手紙を仕分けし、丁寧に断る作業を思うと、再び同じ苦労を繰り返すのは嫌だった。
エリックはそんなアリスの顔を見て、小さくため息をつく。
「俺はお前を守る。それは変わらない。……でも、クライヴを含め、誰とどうなるかは結局お前が決めるんだ。周りの噂に流されるなよ」
「うん……ありがとう、エリック」
アリスは素直にお礼を言う。エリックは「礼なんて要らない」と苦笑するが、その目にはまだ拭いきれない葛藤が宿っている。
しばらく無言で歩いた後、アリスはふと思いつき、口を開いた。
「エリック、またわたしと一緒にお菓子作りしませんか? えっと、クライヴさまにってわけじゃなくて、ほかにも誰かに配ったり……」
「何で俺が? この前も夜更かしに付き合っただろ」
「だって、わたし一人じゃ危ないし……エリックとなら楽しいですし。寝るの嫌いだけど、その時間をお菓子作りに使えば有意義って思えるんです」
アリスが笑顔で頼むと、エリックは「困ったやつだな」と呟くが、まんざら嫌でもない様子だ。むしろアリスの頼みなら断れない性格をしている。
「……わかったよ。今度はクライヴへのプレゼントじゃないんだな?」
「はい。……もちろん、また作ったらクライヴさまにも少し分けてあげたいですけど、そこまで気負ってないです。フローレンスとか、ほかの友人にも配れたらいいなって」
「そっか。じゃあ、また夜更かしだな。俺の身体がもつかどうか」
エリックは冗談めかして言い、二人はくすくすと笑い合う。穏やかな時間が流れ、アリスは少しだけ“再婚約の噂”への不安を和らげることができた。
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しかし、その噂は思いのほか勢いを増して広まっていた。「公爵家が破棄を撤回するようだ」「アリスはすでにクライヴの元へ通い始めている」など、真偽不明の話が飛び交い、社交界の一部では既成事実のように語られつつある。
そこへ、前にアリスへ猛アプローチをしていたディーン子爵が黙っているはずもない。アリスの拒絶で一時は諦めかけていたが、今回の噂に激しく反応しはじめたのだ。
「再婚約なんて……俺の入る隙はないのか! いや、諦めるものか」
ディーンはそう息巻いて動き出した。再びシャーベット家に接触を図ろうとしているという噂が流れ、アリスの周辺にさらなる波乱を予感させる。
エリックの懸念は的中しそうだった。アリス本人はまだクライヴとの関係を模索中にすぎないが、周りがそれを許さない雰囲気を醸成している。
そんな状況を、当のアリスはまだ深く理解していない。彼女は「またお菓子作りをして夜更かししちゃおう」と軽やかに考え、エリックを巻き込もうとしている。ディーンの暗躍や社交界の噂がどんな結末を呼ぶのか、想像もしていないのだ。
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