【完結】「婚約破棄ですか?分かりました」おしまい?

えるろって

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ディーン子爵の再来騒ぎもあっけなく収束し、シャーベット家は再び落ち着きを取り戻した。アリスはエリックとの“内定”をゆっくり進めながら、父グラントや使用人たちに支えられ、昼間の社交や夜のクッキー作りを並行している。  
ある夜、アリスは久々に大きなクッキーを焼きたいと思い立ち、エリックが来られる日はいつか確認してからキッチンにこもることにした。彼が王宮仕事を終え、深夜に合流する形。寝るのが嫌いなアリスにとっては普通のことだが、婚約前提の恋人関係になった今では、少し背徳感も薄れて純粋に楽しめる。

「ふぁ……夜のキッチンでエリックを待つの、わくわくしますね。わたし、寝るのが嫌いでも、いつかあなたと朝を迎えたいって思うんです」

そんな独り言を漏らしていると、扉が開いてエリックが顔を覗かせる。アリスは「あ、待ってました!」と嬉しそうに迎える。

「今日は早めに仕事が終わった。……何を作るつもりだ?」

エリックは腰をおろし、手元の材料を見ながらアリスに尋ねる。アリスは「今日は一枚の大きなクッキーに“絵”を描きたいんです」と微笑む。珍しい試みだ。

「絵? どんな絵?」

「エリックとの“将来の姿”……って言うと大げさですけど、ふふ、まだ秘密です。わたしが寝るの嫌いな理由も含めて、夜の景色を描こうかなと思って」

エリックは照れつつ「そうか」と小さく笑う。寝るのが嫌いな少女が、夜の厨房で人生を絵にする――それが二人にとってとても象徴的に感じられるのだろう。  
作業が始まり、アリスは大きく伸ばしたクッキー生地にアイシングやチョコを使って絵を描き始める。エリックが隣でサポートし、細部のチョコペンの扱いなどを手伝う。夜はいつもより静かで、その中で二人の呼吸音が心地よい。

「ふぁ……けっこう難しいですね。線がにじんだりして」

「焦らなくていいさ。寝るのが嫌いなんだから、夜はまだ長い」

ちょっとした冗談も交えながら、大きなクッキーアートが完成に近づく。そこには夜の星空と、男性と女性が手を繋いでいるシルエットが描かれ、月の下に小さくバラをあしらった意匠がある。アリスが「バラの思い出」は捨てきれないと自分なりに表現したのだ。

「わあ……うまく描けない部分もあるけど、夜っぽい雰囲気、伝わりますか?」

アリスは不安気に尋ねる。エリックは生地を覗き込み、「ああ、星空もちゃんと見えるし……男と女が手を繋いでるのは、俺とお前ってことか?」と笑う。  
アリスは「はい、そうです」と頬を染め、「いつかわたしが夜を克服して朝を迎えても、あなたと並んでいたいんです」とつぶやく。エリックは深く頷き、「もちろん、その時も一緒だ」と答える。

「寝るのが嫌いなままでいい。いつか眠れるようになったらそれもいい。……俺はずっとそばにいるから」

「ありがとう……エリック」

クッキーアートが焼き上がるまでオーブンに入れ、二人は椅子に並んで腰掛ける。お互いの肩が触れ合う距離だが、もう緊張は薄い。代わりに、夜の静けさと甘い生地の香りが二人を包み込む。  
しばし無言で寄り添う時間が続き、アリスはそっと目を閉じる。「ふぁ……寝るの嫌いなのに、眠くなりそう」と呟くが、その声にエリックは微笑んで応じる。「無理に起きてなくてもいいんだぞ。俺がオーブンを見張るから」

「ううん、今は……あなたと起きてたいの。なんか、寝ちゃうのがもったいない夜って初めてかも」

そう言いながら首を傾け、アリスはエリックの肩に頭を預ける。騎士見習いという肩書きはもう二人を分かつ壁ではない。寝るのが嫌いな少女が、夜をこうして心地よく感じるのは、すべてエリックが受け止めてくれるからだ。

「いつか正式に婚約発表をして、結婚式を迎えて、その後は……わたしも普通に昼を過ごして、夜はあなたと寝られるようになりたいな。寝るのが嫌いって言わない日が来るかも」

「……そうなったら、俺はもっとお前を愛せるだろうな。夜会や昼の社交も一緒に乗り越えて、寝るのが嫌いな理由を払拭していこう」

アリスはほっと笑みをこぼす。「はい、一歩ずつがんばります」と返事をする。「でも夜更かしクッキーはやめたくないです」と茶化すと、エリックは「俺も手伝う」と即答する。二人は笑いあいながら、オーブンのタイマーが鳴るのを待つ。  
クッキーアートが焼き上がったとき、その絵は少し焦げて線がにじんでいたものの、夜空と二人の姿はかろうじて判別できる形を保っていた。アリスは「ふぁ……失敗しちゃいましたね」と照れるが、エリックは「いや、いい出来だよ。俺たちらしい」と称賛する。  
寝るのが嫌いな少女の夜は、もう恐怖でも孤独でもなく、愛が満ちた時間になりつつある。ディーンを退け、クライヴを断るまで遠回りしたが、結末はエリックとの結ばれ方に収束した。朝になればまた別の課題が待つかもしれないが、二人なら乗り越えられるだろう。

「ふぁ……わたし、このクッキー大事に保存しておきますね。いつか本当に朝を迎えても“夜の絆”を忘れないように」

「俺たちの象徴だな。……いつか子どもができたら見せるか?」

「子ども……?そういう話は早いのでは?」

軽口を叩き合いながら、二人は焼きたてクッキーを眺める。これまでアリスが眠るのを拒んできた夜が、こんなにも甘くて穏やかなもので満ちる未来がある――彼女はその確信を得た瞬間だった。  
こうして、もう一つの夜が深まる。寝るのが嫌いな少女にとって、エリックとの愛があれば夜も朝も怖くない。いつか正式に結婚を発表して、昼も夜も共に生きる日が来るまで、二人の夜はまだまだ続いていく。
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