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第36話 チョロい
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「いいえ」
私ははっきり聞こえるように言った。
「今年中に二十五日分の有休消化。そのお手伝いのために私は雇われました。来年になったら、一緒に行く理由がありませんよ」
「ガイドではなく、ただ一緒に行きたいという理由ではいけませんか」
「いけません」
無理に今年じゃなくたって良い、来年になったって海は逃げない、私だって何度そう考えたことか。
「ただ一緒に海へ行くなら、その関係には別の呼び方が必要になるでしょう? 私には……」
「俺は坂本さんと、ちゃんと付き合いたいと言っているんです。恋人として」
言われてしまった。せっかく言わせないように遠回しな言葉を選んでいたのに、察してはくれないらしい。
「篠塚さん。そもそもの話をします」
「どうぞ」
「なんで私にそこまでの興味を? わざわざ家まで非売品の靴を持ってきたところから、明らかにおかしいですよね。ちょっとお世話になった人全員にやってるわけではないでしょう」
「あなたが靴を投げたからです」
私の脳裏に宙を舞うパンプスが浮かんだ。あれのことだろうか。
「俺もこんな家と立場に縛られていれば、色々と嫌になることもあります。それを顔にも口にも出してはいけないことに一番苛立ったりする。そんな時です、ぶん投げられる自社商品を見たのは」
「……それで?」
「それだけです。多くの人がワレモノのように扱う高級靴が、美しいほどの軌跡を描いて空を飛んだ。なんだか凄くすっきりしましてね。あんなに愉快だったのは久々でした」
全くもってよく分からない。自分を縛り付けている家や会社に関する物が、ぞんざいに扱われているのを見てストレス発散になった、みたいな理由だろうか。
「まあ、何を言っているのか分からないでしょう」
「全くもって分かりません」
「それで良いです。ただ俺にとっては新鮮で、とても意味のあることだったんです。計略謀略で根回しから物事を進
める篠塚家において、とっさに単純な答えを出して動く人などいないから。人生は案外単純で良いのかもしれないと思えて。それで、まあ、この人とちゃんと話してみたいと思ってしまった」
「そこからガイドなんかで一緒に遊んでいるうちに、離れがたくなってしまったと?」
微妙な笑い声が返ってきた。たぶんYESの意味なのだろう。
「あのですね、篠塚さん。チョロすぎます」
「ちょろ?」
「何ですか、その単純すぎるキッカケ話! 大丈夫です。私なんか関わらなくても篠塚さんは十分単純に出来上がってますから!」
自分でも何を言っているのか分からないが、とりあえず思ったことが口に出た。これはツッコまざるを得なかったのだ。庶民に新鮮な感情を抱く王子様の図って……いつの時代の少女漫画だろう。
「ええと。単純ですか」
ハンドルを離せず目も前を見るしかない状況で、篠塚さんが反応に困っている。でも運転中に告白なんて始めるのが悪いのだ。運転中じゃなければ良いって話でもないけど。
「まず話は分かりました。その上で、やっぱり私には無理ですね。ごめんなさい」
「どうしてですか。今日までは一緒に居られたのに」
「一緒にいる時間が増えるということは、新鮮さが無くなっていくってことなんですよ」
最初は楽しいだろう。普段の生活には無い庶民の休日を経験し、目新しい世界を堪能する。それに慣れてしまった後は? ひとしきり遊んで、現実を見ることになった後はどうするの?
「驚きと新鮮味が無くなったら、私はただの庶民Aです。今もその辺を歩いている人達と同じ。そしたら別れるつもりですか」
「そんな無責任なこと! 俺は真剣に交際を」
「将来まで考えてると? 私が篠塚家の妻になれると思いますか」
なんで私、わざわざ会いたくて呼び出したような人に対して、こんなにトゲトゲしい態度を取ってるんだろう。ちゃんと勇気を出してくれたのに。喜ぶべき言葉だったはずなのに。必死になって否定しようとしているのが私自身だ。
「何を恐れているんですか。俺は、なれると思いますよ。篠塚家の妻」
「何を根拠に」
「根拠があるから結婚する人などいません」
そう言う口調はとても優しかった。私が絆されそうになるのは、この安心感だ。
口を開くと余計な話が再開しそうで、私は家に着くまで黙って窓の外を眺めていた。悪いことをしたとは思う。沈黙の満ちる変な空気のまま送らせるなんて。
私ははっきり聞こえるように言った。
「今年中に二十五日分の有休消化。そのお手伝いのために私は雇われました。来年になったら、一緒に行く理由がありませんよ」
「ガイドではなく、ただ一緒に行きたいという理由ではいけませんか」
「いけません」
無理に今年じゃなくたって良い、来年になったって海は逃げない、私だって何度そう考えたことか。
「ただ一緒に海へ行くなら、その関係には別の呼び方が必要になるでしょう? 私には……」
「俺は坂本さんと、ちゃんと付き合いたいと言っているんです。恋人として」
言われてしまった。せっかく言わせないように遠回しな言葉を選んでいたのに、察してはくれないらしい。
「篠塚さん。そもそもの話をします」
「どうぞ」
「なんで私にそこまでの興味を? わざわざ家まで非売品の靴を持ってきたところから、明らかにおかしいですよね。ちょっとお世話になった人全員にやってるわけではないでしょう」
「あなたが靴を投げたからです」
私の脳裏に宙を舞うパンプスが浮かんだ。あれのことだろうか。
「俺もこんな家と立場に縛られていれば、色々と嫌になることもあります。それを顔にも口にも出してはいけないことに一番苛立ったりする。そんな時です、ぶん投げられる自社商品を見たのは」
「……それで?」
「それだけです。多くの人がワレモノのように扱う高級靴が、美しいほどの軌跡を描いて空を飛んだ。なんだか凄くすっきりしましてね。あんなに愉快だったのは久々でした」
全くもってよく分からない。自分を縛り付けている家や会社に関する物が、ぞんざいに扱われているのを見てストレス発散になった、みたいな理由だろうか。
「まあ、何を言っているのか分からないでしょう」
「全くもって分かりません」
「それで良いです。ただ俺にとっては新鮮で、とても意味のあることだったんです。計略謀略で根回しから物事を進
める篠塚家において、とっさに単純な答えを出して動く人などいないから。人生は案外単純で良いのかもしれないと思えて。それで、まあ、この人とちゃんと話してみたいと思ってしまった」
「そこからガイドなんかで一緒に遊んでいるうちに、離れがたくなってしまったと?」
微妙な笑い声が返ってきた。たぶんYESの意味なのだろう。
「あのですね、篠塚さん。チョロすぎます」
「ちょろ?」
「何ですか、その単純すぎるキッカケ話! 大丈夫です。私なんか関わらなくても篠塚さんは十分単純に出来上がってますから!」
自分でも何を言っているのか分からないが、とりあえず思ったことが口に出た。これはツッコまざるを得なかったのだ。庶民に新鮮な感情を抱く王子様の図って……いつの時代の少女漫画だろう。
「ええと。単純ですか」
ハンドルを離せず目も前を見るしかない状況で、篠塚さんが反応に困っている。でも運転中に告白なんて始めるのが悪いのだ。運転中じゃなければ良いって話でもないけど。
「まず話は分かりました。その上で、やっぱり私には無理ですね。ごめんなさい」
「どうしてですか。今日までは一緒に居られたのに」
「一緒にいる時間が増えるということは、新鮮さが無くなっていくってことなんですよ」
最初は楽しいだろう。普段の生活には無い庶民の休日を経験し、目新しい世界を堪能する。それに慣れてしまった後は? ひとしきり遊んで、現実を見ることになった後はどうするの?
「驚きと新鮮味が無くなったら、私はただの庶民Aです。今もその辺を歩いている人達と同じ。そしたら別れるつもりですか」
「そんな無責任なこと! 俺は真剣に交際を」
「将来まで考えてると? 私が篠塚家の妻になれると思いますか」
なんで私、わざわざ会いたくて呼び出したような人に対して、こんなにトゲトゲしい態度を取ってるんだろう。ちゃんと勇気を出してくれたのに。喜ぶべき言葉だったはずなのに。必死になって否定しようとしているのが私自身だ。
「何を恐れているんですか。俺は、なれると思いますよ。篠塚家の妻」
「何を根拠に」
「根拠があるから結婚する人などいません」
そう言う口調はとても優しかった。私が絆されそうになるのは、この安心感だ。
口を開くと余計な話が再開しそうで、私は家に着くまで黙って窓の外を眺めていた。悪いことをしたとは思う。沈黙の満ちる変な空気のまま送らせるなんて。
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