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ふたりの愛憎編
08.さよならの音 ──秋人
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08.さよならの音 ──秋人
中等部の卒業を間近に控えたとある放課後。
外は警報級の大雨で、俺の精神状態そのものだなと思った。
「月島くん、話は聞いたよ。上手くピアノが弾けなくなったって」
いつだったか、俺の演奏が変わったと指摘してきた初老の男性教師が声を掛けてくる。いつもの癖で放課後にレッスン室の予約をとっていたけど、ピアノを弾く気になれずにぼんやりしていた。ピアノの蓋を開けてすらいない。
あまり眠れていないせいか、雨のせいか。どっちが原因かわからないけど、朝からずっと頭が痛い。
「すみません。卒業公演の演奏、他の人にしてもらってもいいですか?」
久し振りにまともに声を出したせいか、驚くほど掠れていた。外の雨音にすら負けそうな弱々しい響きで、思わず笑ってしまう。
情けない。いままでは風邪をひこうが熱を出そうがピアノを弾いてきたのに。
「……急だね。なにがあったのか聞いても?」
黙って首を振り、膝の上で握りしめた手を見つめる。
物心がついたころには既にピアノを弾いていて、いままで一日も休んだことがなかった。少しでも弾かなきゃって焦りはなんとなくあるけど、こうしてピアノを前にすると身体が動かなくなってしまうのだ。
「あの…。母親に連絡するのだけはやめてもらってもいいですか? 心配かけたくなくて。たぶん少し休めば大丈夫だと思うので」
なんの確証もなかった。だってこんなふうになったことがなかったから。
小さくため息をつく気配がして顔を上げる。純粋に心配そうな顔をした教師が俺のことを見つめていて、胸がチクリと痛んだ。
「月島くん、君の演奏の完成度はその時の感情に左右される傾向にあると思うのだけれど…。いまの自分の気持ちと向き合って弾いてみてはどうかな?」
「えっ……いや、あの……」
「ごめんね。荒療治だとは思うけど、君は実際の言葉や表情よりもピアノでの感情表現がいちばん上手いと思うから」
ほら、と楽譜を手渡される。
気が進まなかったが、いったん目を通そうとして心臓がぎゅっと締め付けられた。ショパンの曲だった。
「これを……俺が?」
「弾いたことはあるかい? 初見だと難しいかな」
「いえ、一応弾いたことはあります……けど。公の場では弾いたことがないと言うか。コンクールで自分からショパンを選ぶことはないので」
楽譜の最初から最後まで目を通してから譜面台に置く。
心臓の音が一段とうるさくなった気がしたけど、それを無理やり無視してピアノの蓋を開けた。三日振りの光景だった。
「あの……久し振り、なので。ピアノも、ショパンを弾くことも」
「いいよ、好きに弾いてごらん。テンポも好きにすればいい」
予防線を張ろうとして失敗してしまった。
そうだ、とにかく弾かなきゃ話にならない。わざわざ日本に定住してまで音楽を勉強してるっていうのに、こんなところでつまづいてたまるか。
大きく深呼吸してから鍵盤に指を置く。たった三日間だけ触らなかっただけなのに、ひどく懐かしい気がした。
練習曲ハ短調作品10-12、革命のエチュード。
はじめて俺が『二番』になったコンクールで陽介が弾いていた曲がこれだった。どうせ今回も俺が優勝だろうな、と他の出場者の演奏を適当に聞き流していたところに飛び込んできた演奏の衝撃はいまでも忘れられない。
本当はその時にもう負けを確信してしまっていたのだ。一年後、陽介に喧嘩を吹っ掛けるように舞台裏で声をかけたのも「納得していないから」なんかじゃない。
俺にはできない演奏だと思った。テンポも速くて感情が剥き出しになったような曲なのに、どこか寄り添ってくれるような東城陽介のピアノに一目惚れしたのだ。
「……っは、…っ」
最悪だ。こんな演奏、とてもじゃないけど人に聞かせられるものじゃない。
演奏が進むペースに合わせて楽譜を捲ってくれていた教師は、なにも言わずに俺の肩をとんと叩いた。最後まで弾くことすらできなかったのになにも言われなくて、そのまま楽譜を回収してレッスン室を出ていく。
雨の音が強くなった気がした。頭の痛みも増してしまっているような気がする。
そんなわけないのに、世界にたった一人で取り残されたような孤独感に襲われた。
「陽介……ごめん」
涙が止まらない。弾いている途中から溢れてきて、ほとんど楽譜が見えていなかった。
俺が奪ってしまっていた。俺はなにも知らなかった。
陽介はどんな気持ちで俺に優しく接してくれていたのだろう。舞台裏で俺に声を掛けられたあの日、どんな気持ちで話をしてくれていたのだろう。
なにもわからない。わからないよ、陽介。
「……っ好き、」
駄目、駄目だ。陽介はそんなつもりで俺に触れていたわけじゃないってわかってるのに。
両手で顔を覆い、次々と出て来る涙をせき止めようとした。最近手入れをサボってしまっているせいで爪が当たって痛い。
「Ich liebe dich…!(愛してる…!)」
溢れてしまった涙も気持ちも言葉も、すくい上げてくれる人がいなくて死んでいく音がした。
中等部の卒業を間近に控えたとある放課後。
外は警報級の大雨で、俺の精神状態そのものだなと思った。
「月島くん、話は聞いたよ。上手くピアノが弾けなくなったって」
いつだったか、俺の演奏が変わったと指摘してきた初老の男性教師が声を掛けてくる。いつもの癖で放課後にレッスン室の予約をとっていたけど、ピアノを弾く気になれずにぼんやりしていた。ピアノの蓋を開けてすらいない。
あまり眠れていないせいか、雨のせいか。どっちが原因かわからないけど、朝からずっと頭が痛い。
「すみません。卒業公演の演奏、他の人にしてもらってもいいですか?」
久し振りにまともに声を出したせいか、驚くほど掠れていた。外の雨音にすら負けそうな弱々しい響きで、思わず笑ってしまう。
情けない。いままでは風邪をひこうが熱を出そうがピアノを弾いてきたのに。
「……急だね。なにがあったのか聞いても?」
黙って首を振り、膝の上で握りしめた手を見つめる。
物心がついたころには既にピアノを弾いていて、いままで一日も休んだことがなかった。少しでも弾かなきゃって焦りはなんとなくあるけど、こうしてピアノを前にすると身体が動かなくなってしまうのだ。
「あの…。母親に連絡するのだけはやめてもらってもいいですか? 心配かけたくなくて。たぶん少し休めば大丈夫だと思うので」
なんの確証もなかった。だってこんなふうになったことがなかったから。
小さくため息をつく気配がして顔を上げる。純粋に心配そうな顔をした教師が俺のことを見つめていて、胸がチクリと痛んだ。
「月島くん、君の演奏の完成度はその時の感情に左右される傾向にあると思うのだけれど…。いまの自分の気持ちと向き合って弾いてみてはどうかな?」
「えっ……いや、あの……」
「ごめんね。荒療治だとは思うけど、君は実際の言葉や表情よりもピアノでの感情表現がいちばん上手いと思うから」
ほら、と楽譜を手渡される。
気が進まなかったが、いったん目を通そうとして心臓がぎゅっと締め付けられた。ショパンの曲だった。
「これを……俺が?」
「弾いたことはあるかい? 初見だと難しいかな」
「いえ、一応弾いたことはあります……けど。公の場では弾いたことがないと言うか。コンクールで自分からショパンを選ぶことはないので」
楽譜の最初から最後まで目を通してから譜面台に置く。
心臓の音が一段とうるさくなった気がしたけど、それを無理やり無視してピアノの蓋を開けた。三日振りの光景だった。
「あの……久し振り、なので。ピアノも、ショパンを弾くことも」
「いいよ、好きに弾いてごらん。テンポも好きにすればいい」
予防線を張ろうとして失敗してしまった。
そうだ、とにかく弾かなきゃ話にならない。わざわざ日本に定住してまで音楽を勉強してるっていうのに、こんなところでつまづいてたまるか。
大きく深呼吸してから鍵盤に指を置く。たった三日間だけ触らなかっただけなのに、ひどく懐かしい気がした。
練習曲ハ短調作品10-12、革命のエチュード。
はじめて俺が『二番』になったコンクールで陽介が弾いていた曲がこれだった。どうせ今回も俺が優勝だろうな、と他の出場者の演奏を適当に聞き流していたところに飛び込んできた演奏の衝撃はいまでも忘れられない。
本当はその時にもう負けを確信してしまっていたのだ。一年後、陽介に喧嘩を吹っ掛けるように舞台裏で声をかけたのも「納得していないから」なんかじゃない。
俺にはできない演奏だと思った。テンポも速くて感情が剥き出しになったような曲なのに、どこか寄り添ってくれるような東城陽介のピアノに一目惚れしたのだ。
「……っは、…っ」
最悪だ。こんな演奏、とてもじゃないけど人に聞かせられるものじゃない。
演奏が進むペースに合わせて楽譜を捲ってくれていた教師は、なにも言わずに俺の肩をとんと叩いた。最後まで弾くことすらできなかったのになにも言われなくて、そのまま楽譜を回収してレッスン室を出ていく。
雨の音が強くなった気がした。頭の痛みも増してしまっているような気がする。
そんなわけないのに、世界にたった一人で取り残されたような孤独感に襲われた。
「陽介……ごめん」
涙が止まらない。弾いている途中から溢れてきて、ほとんど楽譜が見えていなかった。
俺が奪ってしまっていた。俺はなにも知らなかった。
陽介はどんな気持ちで俺に優しく接してくれていたのだろう。舞台裏で俺に声を掛けられたあの日、どんな気持ちで話をしてくれていたのだろう。
なにもわからない。わからないよ、陽介。
「……っ好き、」
駄目、駄目だ。陽介はそんなつもりで俺に触れていたわけじゃないってわかってるのに。
両手で顔を覆い、次々と出て来る涙をせき止めようとした。最近手入れをサボってしまっているせいで爪が当たって痛い。
「Ich liebe dich…!(愛してる…!)」
溢れてしまった涙も気持ちも言葉も、すくい上げてくれる人がいなくて死んでいく音がした。
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