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ふたりの愛憎編
13.父の面影 ──秋人
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日本に定住することが決まった時、本当に本当に不安だったのだ。
べつに日本に行ったことがないわけじゃない。母さんの実家は日本にあるし、ロングステイして日本のコンクールに出たことだってある。
でも定住するとなると話は変わってくるし、なにより唯一の肉親である母さんと離れて暮らすことになるのがいちばん不安だった。
『ねぇ、秋人。お母さんね、あなたのピアノをそばで聞けないことがすごく悲しいのよ。夏休みになったらなるべく早くドイツに帰ってきてちょうだいね』
「うん…。わかってる、そうするつもり」
『まだ本調子でもないんでしょう? 本当に辛かったらドイツに戻ってもいいんだからね?』
二年の夏休みを間近に控えたとある放課後、ピアノが置いてあるレッスン室で母さんに電話をしていた。電話が終わったらついでにピアノを弾いて帰るつもりをしている。
以前は寮の部屋で電話していたけど、陽介からの告白を機にそれは避けていた。べつに陽介になにか言われたわけじゃないんだけど、なんとなく嫌だろうなと思って。
「なぁ、母さん。ちょっと変なこと聞いてもいいか?」
心配の言葉をかけ続けてくれている母さんの言葉を遮るように話を変える。今日は世間話をするために母さんに電話をしたわけではないのだ。
『なに? いいわよ、なんでも聞いて』
「……父さん。俺の父親って、どんな人だった?」
一度も聞いたことがなかったな、とふと思ったのだ。母さんが父さんのことを嫌っていることはなんとなくわかっていたし、わざわざ嫌いな人間の話をさせるのも申し訳ないと思っていて…。
でも陽介が、俺の好きな人が人生の大半を共にしてきた人物でもあるのだ。少しだけでもいいから話を聞いてみたい。
『うぅん…。そうね、とにかく飄々とした男だったわ。あ、飄々としたって日本語わかる?』
「……うん、わかるよ」
なぜか陽介の顔が浮かんだ。陽介もそういうタイプだよなぁ。
『飄々としていて…。でも、誰にでも優しかったわ。物腰が柔らかくて……そうね、ジェントルマンってあぁいう人間のことを言うんじゃないかしら。若い時から相当モテてたみたい』
目を閉じてみる。父さんの顔はちっとも覚えてないけど、きっと陽介は父親似なんだろうな。
ピアノの前に座って蓋を撫でながら、陽介の艶のある黒髪を思い出す。もしかしたら父さんの髪もこんな色をしてるのかな?
『そして……私のピアノを世界一愛してくれていたわ』
「…っ…!」
胸が、高鳴る。手が震える。
彼も同じように言った。嫌いじゃないと言ってくれた。
母さんも同じ気持ちになったのだろうか? 自分のピアノを褒められて嫌な気持ちになるわけがない。
『会ったんでしょう? 陽介と』
「……え?」
母さんの鋭い声が鼓膜を叩く。
蓋の上に置いていた手をぎゅっと握りしめた。
『中等部から同じ学校に通ってるって話は聞いてたわ。……ごめんね、秋人。またこっちに戻ってきてくれたらお母さんからも全て話すわ。包み隠さずね』
「母さん……」
そうか、年に一度だけ俺たちの写真を送りあってるって言ってたもんな。どこの学校に通ってるかぐらいの情報はお互いに共有していてもおかしくない。
ピアノの蓋を開け、耳に押し当てていたスマートフォンを譜面台に置いた。
「ごめん、俺もずっと隠してた。陽介とは中等部からいままでずっと寮の部屋が同じなんだ」
『……そうなの』
「それで……高等部に上がる少し前に陽介から話を聞いたよ。俺たちが双子の兄弟で、父親はまだ生きてるって」
鍵盤に指を添え、小さく深呼吸してから曲を紡ぎ始めた。
練習曲作品10第3番ホ長調、通称"Abschiedswalzer"。ショパンのエチュードで、日本では「別れの曲」として親しまれている曲だ。
『あら、ショパンじゃない。珍しいわね、秋人がショパン弾いてるの』
電話の向こうの母さんが驚いたような声を出す。
うちの学校はオールラウンダーな演奏家を目指す教育システムではないので、それぞれの特性に合った選曲を許してくれる。俺はもっと重い曲が好みだから、授業やコンクールのためにショパンを弾くことはほとんどないと言ってもよかった。
「陽介のショパンが最高なんだ。俺なんか全然敵わないぐらいに」
『へぇ? 珍しいわね、秋人がそんな簡単に負けを認めるなんて』
「……簡単にってわけじゃないけど」
あの日、舞台裏で初対面の陽介に突っかかっていったことを思い出してしまう。しかし時の流れがそうさせたのか、いまでは素直に陽介のピアノを好きだと思えるようになった。
陽介自身も、陽介のピアノのことも。世界でいちばん愛してやまない存在だ。
「そうだ、父さんと写真送りあってたんだろ? 今度帰国した時に見せてくれよ、陽介の写真」
『そう、ね。準備しておくわ』
「ありがとう」
最後に一言二言だけやりとりをして母さんとの通話を終了させる。母さんとは仲が悪いわけじゃないけど、やっと心の奥の方にしまっていたものを吐き出せた気がしてほっとした。
スマートフォンの画面を見て時間を確認する。もう少しここでピアノを弾いてから寮に帰ろうかな。
鍵盤に指を置き、適当な音階を奏でながら頭の中で楽譜を検索した。どうしようかな、と少し考えてまたショパンを弾くことにする。
「……Der kleine Walzer(子犬のワルツ)」
うん、やっぱりこれだな。ほんとは陽介が弾くこの曲がいちばん好きだけど。
俺がまだなにも知らなくて、幸せだと思っていたあの頃。初めて陽介にキスをされた次の日、朝を迎えた時の音だ。
小さく息を吐いて、彼の弾く「子犬のワルツ」を思い出そうとすると防音室になっている部屋のドアが開いた。
「……えっ」
鍵をかけてなかったっけ? という驚きではない。
ドアが開いて現れたのが、ちょうど俺の頭の中を占めていた男だったことの方に驚いてしまった。
「陽介…?」
なぜか突然現れた張本人も驚いた顔をしていて、俺もますます驚いてしまう。そこからまさか『革命』の連弾なんてめちゃくちゃな提案をされるとは思っていなかったけど…。
確かにこの日、この時の連弾こそが俺と陽介の始まりの日となったのである。
べつに日本に行ったことがないわけじゃない。母さんの実家は日本にあるし、ロングステイして日本のコンクールに出たことだってある。
でも定住するとなると話は変わってくるし、なにより唯一の肉親である母さんと離れて暮らすことになるのがいちばん不安だった。
『ねぇ、秋人。お母さんね、あなたのピアノをそばで聞けないことがすごく悲しいのよ。夏休みになったらなるべく早くドイツに帰ってきてちょうだいね』
「うん…。わかってる、そうするつもり」
『まだ本調子でもないんでしょう? 本当に辛かったらドイツに戻ってもいいんだからね?』
二年の夏休みを間近に控えたとある放課後、ピアノが置いてあるレッスン室で母さんに電話をしていた。電話が終わったらついでにピアノを弾いて帰るつもりをしている。
以前は寮の部屋で電話していたけど、陽介からの告白を機にそれは避けていた。べつに陽介になにか言われたわけじゃないんだけど、なんとなく嫌だろうなと思って。
「なぁ、母さん。ちょっと変なこと聞いてもいいか?」
心配の言葉をかけ続けてくれている母さんの言葉を遮るように話を変える。今日は世間話をするために母さんに電話をしたわけではないのだ。
『なに? いいわよ、なんでも聞いて』
「……父さん。俺の父親って、どんな人だった?」
一度も聞いたことがなかったな、とふと思ったのだ。母さんが父さんのことを嫌っていることはなんとなくわかっていたし、わざわざ嫌いな人間の話をさせるのも申し訳ないと思っていて…。
でも陽介が、俺の好きな人が人生の大半を共にしてきた人物でもあるのだ。少しだけでもいいから話を聞いてみたい。
『うぅん…。そうね、とにかく飄々とした男だったわ。あ、飄々としたって日本語わかる?』
「……うん、わかるよ」
なぜか陽介の顔が浮かんだ。陽介もそういうタイプだよなぁ。
『飄々としていて…。でも、誰にでも優しかったわ。物腰が柔らかくて……そうね、ジェントルマンってあぁいう人間のことを言うんじゃないかしら。若い時から相当モテてたみたい』
目を閉じてみる。父さんの顔はちっとも覚えてないけど、きっと陽介は父親似なんだろうな。
ピアノの前に座って蓋を撫でながら、陽介の艶のある黒髪を思い出す。もしかしたら父さんの髪もこんな色をしてるのかな?
『そして……私のピアノを世界一愛してくれていたわ』
「…っ…!」
胸が、高鳴る。手が震える。
彼も同じように言った。嫌いじゃないと言ってくれた。
母さんも同じ気持ちになったのだろうか? 自分のピアノを褒められて嫌な気持ちになるわけがない。
『会ったんでしょう? 陽介と』
「……え?」
母さんの鋭い声が鼓膜を叩く。
蓋の上に置いていた手をぎゅっと握りしめた。
『中等部から同じ学校に通ってるって話は聞いてたわ。……ごめんね、秋人。またこっちに戻ってきてくれたらお母さんからも全て話すわ。包み隠さずね』
「母さん……」
そうか、年に一度だけ俺たちの写真を送りあってるって言ってたもんな。どこの学校に通ってるかぐらいの情報はお互いに共有していてもおかしくない。
ピアノの蓋を開け、耳に押し当てていたスマートフォンを譜面台に置いた。
「ごめん、俺もずっと隠してた。陽介とは中等部からいままでずっと寮の部屋が同じなんだ」
『……そうなの』
「それで……高等部に上がる少し前に陽介から話を聞いたよ。俺たちが双子の兄弟で、父親はまだ生きてるって」
鍵盤に指を添え、小さく深呼吸してから曲を紡ぎ始めた。
練習曲作品10第3番ホ長調、通称"Abschiedswalzer"。ショパンのエチュードで、日本では「別れの曲」として親しまれている曲だ。
『あら、ショパンじゃない。珍しいわね、秋人がショパン弾いてるの』
電話の向こうの母さんが驚いたような声を出す。
うちの学校はオールラウンダーな演奏家を目指す教育システムではないので、それぞれの特性に合った選曲を許してくれる。俺はもっと重い曲が好みだから、授業やコンクールのためにショパンを弾くことはほとんどないと言ってもよかった。
「陽介のショパンが最高なんだ。俺なんか全然敵わないぐらいに」
『へぇ? 珍しいわね、秋人がそんな簡単に負けを認めるなんて』
「……簡単にってわけじゃないけど」
あの日、舞台裏で初対面の陽介に突っかかっていったことを思い出してしまう。しかし時の流れがそうさせたのか、いまでは素直に陽介のピアノを好きだと思えるようになった。
陽介自身も、陽介のピアノのことも。世界でいちばん愛してやまない存在だ。
「そうだ、父さんと写真送りあってたんだろ? 今度帰国した時に見せてくれよ、陽介の写真」
『そう、ね。準備しておくわ』
「ありがとう」
最後に一言二言だけやりとりをして母さんとの通話を終了させる。母さんとは仲が悪いわけじゃないけど、やっと心の奥の方にしまっていたものを吐き出せた気がしてほっとした。
スマートフォンの画面を見て時間を確認する。もう少しここでピアノを弾いてから寮に帰ろうかな。
鍵盤に指を置き、適当な音階を奏でながら頭の中で楽譜を検索した。どうしようかな、と少し考えてまたショパンを弾くことにする。
「……Der kleine Walzer(子犬のワルツ)」
うん、やっぱりこれだな。ほんとは陽介が弾くこの曲がいちばん好きだけど。
俺がまだなにも知らなくて、幸せだと思っていたあの頃。初めて陽介にキスをされた次の日、朝を迎えた時の音だ。
小さく息を吐いて、彼の弾く「子犬のワルツ」を思い出そうとすると防音室になっている部屋のドアが開いた。
「……えっ」
鍵をかけてなかったっけ? という驚きではない。
ドアが開いて現れたのが、ちょうど俺の頭の中を占めていた男だったことの方に驚いてしまった。
「陽介…?」
なぜか突然現れた張本人も驚いた顔をしていて、俺もますます驚いてしまう。そこからまさか『革命』の連弾なんてめちゃくちゃな提案をされるとは思っていなかったけど…。
確かにこの日、この時の連弾こそが俺と陽介の始まりの日となったのである。
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