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王都の城壁が遠くに見える、街道沿いの野営地。
そこには、夜の闇に浮かび上がる巨大な光の繭がありました。
ユーリが魔力で作り上げた「特設・移動式全自動温室」です。
「はぁ……。この湿気、この土の匂い。やっぱり人間には、一立方メートルあたり三万個のマイナスイオンが必要不可欠ですわね」
ユーリは温室の中央に置かれたベンチに深く腰掛け、満足そうに深呼吸をしました。
周囲には、旅の途中で「救出」してきた珍しい高山植物や、精霊からもらった伝説の種が、ユーリの魔力を浴びてキラキラと輝いています。
「……ユーリ。あまり魔力を使いすぎるなと言っただろう。明日からは王都で『戦い』が始まるのだぞ」
温室の入り口から、ゼノスが所在なげに入ってきました。
いつもは冷徹な「茨公爵」も、熱帯夜のような蒸し暑さと、色とりどりの花々に囲まれると、毒気を抜かれたような顔になります。
「あら、ゼノス様。お疲れのようですね。さあ、こちらへ。このベンチの下には『癒やしの苔』が敷き詰められていますの。座るだけで、腰痛と対人恐怖症に効きますわよ」
「……苔にそんな効能があるとは初耳だ」
ゼノスは苦笑しながら、ユーリの隣に腰を下ろしました。
ふわりと、花の香りと共に、ユーリの体から漂う瑞々しい魔力の匂いが鼻をくすぐります。
温室の中は二人きり。ランタンの灯りに照らされたユーリの横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えました。
(……思えば、この女と出会ってから、私の世界は一変したな)
ゼノスは、自分の隣で幸せそうに葉っぱを撫でている令嬢を盗み見ました。
かつては「呪い」と恐れた自分の力も、彼女の手にかかれば「芸術的な支柱」になりました。孤独だった城の中庭は、今や世界一の楽園になろうとしています。
「……ユーリ」
「はい、何でしょう? もしや、新しい肥料の配合を思いつきました?」
「いや、そうではない。……礼を言いたかったのだ。貴様のおかげで、私は自分の茨を……自分自身を、少しだけ好きになれた気がする」
ゼノスの声は低く、ひどく真剣でした。彼は勇気を出して、ユーリの泥で少し汚れた手をそっと握りました。
「王都へ行けば、再び貴様を悪女と呼ぶ者たちが現れるだろう。だが、案ずるな。今度は私が、貴様という花を守る『生垣(いけがき)』になろう」
沈黙が流れます。
温室の温度が数度上がったかのような、甘く、熱い空気。
ゼノスは、彼女が「嬉しい」と言ってくれるか、あるいは赤らめた顔を見せてくれるのを期待していました。
しかし、ユーリはゼノスの手をじっと見つめた後、感動に震える声でこう言ったのです。
「……ゼノス様。今、気づきましたわ」
「……あ、ああ。何だ?」
「あなたのこの、力強い腕の筋肉……。これ、大型のスコップを持つのに最適な角度で発達していますわね! 上腕二頭筋のしなりが、粘土質の土を掘り返す際の『テコの原理』を最大限に引き出していますわ!」
「…………は?」
「素晴らしいわ、ゼノス様! その筋肉があれば、一日でエーカー単位の開墾が可能です! ああ、なんて惚れ惚れする『農耕用スペック』なのかしら! その腕、後でデッサン……いえ、型取りをさせてもらってもよろしい?」
ゼノスは、握っていた手をそっと離しました。
「……ユーリ。今、私はかなり真面目に愛の告白……に近いことを言っていたつもりなのだが」
「愛? ええ、愛ならたっぷりと感じていますわ! ゼノス様のその筋肉から溢れ出る『土への献身』! これこそが真実の愛ですわね!」
ユーリはゼノスの肩をガシガシと叩きました。
「さあ、ゼノス様! 感傷に浸っている暇はありませんわ。見てください、あちらのサボテン。私たちの熱い語らい(二酸化炭素)を浴びて、今まさにトゲを太くしようと頑張っています!」
「……サボテンが、頑張っている、だと?」
「そうです! この子たちの成長を妨げるのは、人間の怠慢だけですわ。さあ、ゼノス様。仕上げにあなたのその『茨の魔力』を、あそこの培養土に一振りしてください。最高のミネラル成分になるはずです!」
ゼノスは深く、深く溜息をつきました。
(……この女に、ロマンチックなムードを期待した私が馬鹿だった)
しかし、不思議と嫌な気分ではありませんでした。
ユーリの瞳には、打算も、恐怖も、偽りもありません。ただ純粋に、植物と、それを育てるパートナーへの全幅の信頼があるだけです。
「……分かった。やればいいんだろう、やれば。……出よ、黒棘の微塵粉(ソーン・パウダー)!」
「まあっ! なんて細やかな粉砕技術! ゼノス様、あなた本当に、世界一の『粉砕機(ミキサー)』になれますわ!」
「……もはや公爵としての尊厳が消えかけているが、貴様が喜ぶならそれでいい」
二人は夜が更けるまで、温室の中で語り合いました。
ただし、語られたのは「愛の誓い」ではなく、「効率的な堆肥の攪拌(かくはん)方法」と「王宮の庭をいかにしてジャングルに変えるか」という、過激な園芸プランばかりでした。
「明日は王都ですね、ゼノス様」
「ああ。……覚悟はいいか、ユーリ」
「もちろんですわ。……カトレア様の造花だらけの庭に、本物の『生命の重み(物理的な意味での肥料)』を叩き込んで差し上げますわ!」
温室の光は、王都の空を不気味に、そして希望に満ちて照らし出していました。
そこには、夜の闇に浮かび上がる巨大な光の繭がありました。
ユーリが魔力で作り上げた「特設・移動式全自動温室」です。
「はぁ……。この湿気、この土の匂い。やっぱり人間には、一立方メートルあたり三万個のマイナスイオンが必要不可欠ですわね」
ユーリは温室の中央に置かれたベンチに深く腰掛け、満足そうに深呼吸をしました。
周囲には、旅の途中で「救出」してきた珍しい高山植物や、精霊からもらった伝説の種が、ユーリの魔力を浴びてキラキラと輝いています。
「……ユーリ。あまり魔力を使いすぎるなと言っただろう。明日からは王都で『戦い』が始まるのだぞ」
温室の入り口から、ゼノスが所在なげに入ってきました。
いつもは冷徹な「茨公爵」も、熱帯夜のような蒸し暑さと、色とりどりの花々に囲まれると、毒気を抜かれたような顔になります。
「あら、ゼノス様。お疲れのようですね。さあ、こちらへ。このベンチの下には『癒やしの苔』が敷き詰められていますの。座るだけで、腰痛と対人恐怖症に効きますわよ」
「……苔にそんな効能があるとは初耳だ」
ゼノスは苦笑しながら、ユーリの隣に腰を下ろしました。
ふわりと、花の香りと共に、ユーリの体から漂う瑞々しい魔力の匂いが鼻をくすぐります。
温室の中は二人きり。ランタンの灯りに照らされたユーリの横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えました。
(……思えば、この女と出会ってから、私の世界は一変したな)
ゼノスは、自分の隣で幸せそうに葉っぱを撫でている令嬢を盗み見ました。
かつては「呪い」と恐れた自分の力も、彼女の手にかかれば「芸術的な支柱」になりました。孤独だった城の中庭は、今や世界一の楽園になろうとしています。
「……ユーリ」
「はい、何でしょう? もしや、新しい肥料の配合を思いつきました?」
「いや、そうではない。……礼を言いたかったのだ。貴様のおかげで、私は自分の茨を……自分自身を、少しだけ好きになれた気がする」
ゼノスの声は低く、ひどく真剣でした。彼は勇気を出して、ユーリの泥で少し汚れた手をそっと握りました。
「王都へ行けば、再び貴様を悪女と呼ぶ者たちが現れるだろう。だが、案ずるな。今度は私が、貴様という花を守る『生垣(いけがき)』になろう」
沈黙が流れます。
温室の温度が数度上がったかのような、甘く、熱い空気。
ゼノスは、彼女が「嬉しい」と言ってくれるか、あるいは赤らめた顔を見せてくれるのを期待していました。
しかし、ユーリはゼノスの手をじっと見つめた後、感動に震える声でこう言ったのです。
「……ゼノス様。今、気づきましたわ」
「……あ、ああ。何だ?」
「あなたのこの、力強い腕の筋肉……。これ、大型のスコップを持つのに最適な角度で発達していますわね! 上腕二頭筋のしなりが、粘土質の土を掘り返す際の『テコの原理』を最大限に引き出していますわ!」
「…………は?」
「素晴らしいわ、ゼノス様! その筋肉があれば、一日でエーカー単位の開墾が可能です! ああ、なんて惚れ惚れする『農耕用スペック』なのかしら! その腕、後でデッサン……いえ、型取りをさせてもらってもよろしい?」
ゼノスは、握っていた手をそっと離しました。
「……ユーリ。今、私はかなり真面目に愛の告白……に近いことを言っていたつもりなのだが」
「愛? ええ、愛ならたっぷりと感じていますわ! ゼノス様のその筋肉から溢れ出る『土への献身』! これこそが真実の愛ですわね!」
ユーリはゼノスの肩をガシガシと叩きました。
「さあ、ゼノス様! 感傷に浸っている暇はありませんわ。見てください、あちらのサボテン。私たちの熱い語らい(二酸化炭素)を浴びて、今まさにトゲを太くしようと頑張っています!」
「……サボテンが、頑張っている、だと?」
「そうです! この子たちの成長を妨げるのは、人間の怠慢だけですわ。さあ、ゼノス様。仕上げにあなたのその『茨の魔力』を、あそこの培養土に一振りしてください。最高のミネラル成分になるはずです!」
ゼノスは深く、深く溜息をつきました。
(……この女に、ロマンチックなムードを期待した私が馬鹿だった)
しかし、不思議と嫌な気分ではありませんでした。
ユーリの瞳には、打算も、恐怖も、偽りもありません。ただ純粋に、植物と、それを育てるパートナーへの全幅の信頼があるだけです。
「……分かった。やればいいんだろう、やれば。……出よ、黒棘の微塵粉(ソーン・パウダー)!」
「まあっ! なんて細やかな粉砕技術! ゼノス様、あなた本当に、世界一の『粉砕機(ミキサー)』になれますわ!」
「……もはや公爵としての尊厳が消えかけているが、貴様が喜ぶならそれでいい」
二人は夜が更けるまで、温室の中で語り合いました。
ただし、語られたのは「愛の誓い」ではなく、「効率的な堆肥の攪拌(かくはん)方法」と「王宮の庭をいかにしてジャングルに変えるか」という、過激な園芸プランばかりでした。
「明日は王都ですね、ゼノス様」
「ああ。……覚悟はいいか、ユーリ」
「もちろんですわ。……カトレア様の造花だらけの庭に、本物の『生命の重み(物理的な意味での肥料)』を叩き込んで差し上げますわ!」
温室の光は、王都の空を不気味に、そして希望に満ちて照らし出していました。
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