いいえ、ただ私は婚約破棄されたいだけなんです!

鏡おもち

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「オーホッホッホ! ……ゲホッ、ゲホッ!」


朝の静かな自室に、不気味な高笑いと無様なむせ返り声が響いた。
鏡の前に立つ私は、喉を押さえながら涙目で自分を睨みつける。


「お嬢様、朝から何をなさっているのですか。喉が潰れてしまえば、朝食のクロワッサンが通りませんよ」


「アンナ、大事な練習なのよ。悪役……いえ、婚約破棄されるに相応しい女に見えるための、高飛車な笑いよ!」


私は再び鏡に向き直り、口角をこれ以上ないほど不自然に吊り上げた。
目は細め、顎を引き、見下ろすような視線を作る。
これだ。これこそが、平民や格下の貴族を震え上がらせる「高飛車な令嬢」の表情に違いない。


「見てなさい。今日はこれを使って、学園中の人間に『あの子、性格が悪そうね』と思わせてやるわ。特に王子にはね!」


「お嬢様、その顔……鏡で見ると、なんだか神々しい後光が差しているように見えますが、大丈夫ですか?」


「何言ってるのよ、最高に性格が悪そうじゃない。ほら、行くわよ!」


私は鼻息も荒く、学園のラウンジへと乗り込んだ。
ここには多くの生徒が集まり、優雅に朝のひとときを過ごしている。
嫌われるには絶好の舞台だ。


ラウンジの中央に差し掛かった時、向こうからアレン王子と、その取り巻きたちが歩いてくるのが見えた。
チャンス到来である。


私は足を止め、周囲の視線が集まるのを待った。
そして、練習通りに顎を上げ、扇をバサリと広げて口元を隠す。


「あらあら、アレン殿下ではありませんか。こんな朝早くから、取り巻きを引き連れてゾロゾロと……。まるで群れを成さないと歩けない羊さんのようですわね。オーーッホッホッホッホ!」


精一杯の嘲笑を込めたつもりだった。
私の計算では、ここで王子は顔をしかめ、周囲は「なんて失礼な!」と騒ぎ出すはずだ。
だが。


「…………っ!」


王子の足が止まった。
その顔は驚愕に染まり、目を見開いて私を凝視している。
よし、効いているわ!


しかし、静まり返ったラウンジに響いたのは、私の期待とは真逆の「溜息」だった。


「……なんて、気高いんだ」


王子の口から漏れたのは、うっとりとした感嘆の声だった。


「えっ?」


「ロニエ……今の微笑みは何だい? まるで、迷える子羊のような僕たちを慈しみ、高みへと導いてくれる女神の慈愛に満ちた眼差し……。そしてその笑い声は、天空の鐘が鳴り響くような清らかさだ」


王子はふらふらと私に近づくと、私の両手をそっと包み込んだ。


「君は僕たちを羊に例えたね。それはつまり、『僕が良き羊飼いとして、民を導く存在になれ』という、深い啓示なのだろう? 自分の未熟さを笑い飛ばしてくれる君の度量の広さに、僕は今、猛烈に感動している!」


「……は? いや、単なる悪口ですわよ? 性格が悪いって言ってほしいんですけれど」


私が困惑してそう告げると、周りの令嬢たちからも熱い視線が送られてきた。


「見ましたか、今のロニエ様の表情。まるで全てを包み込むような、聖母のような神々しさでしたわ……」


「『オーホッホ』というお声、あれは高次元の癒やしの波動が含まれているに違いありませんわ!」


「私もいつか、あんな風に凛としていて、それでいて慈悲深い笑い方をしてみたいものですわ……」


口々に聞こえてくるのは、称賛、羨望、そしてもはや崇拝に近い言葉。
どうやら、私の「全力の悪顔」は、この世界の住人の目には「尊すぎる聖女の微笑み」としてフィルタリングされてしまったらしい。


「ロニエ。君の今の教え、胸に刻んだよ。僕は君に相応しい、立派な羊飼い……いや、国王になってみせる」


王子は私の手を握ったまま、キラキラした目で宣言した。
その瞳の奥には、私への狂信的なまでの愛情が宿っている。


「(……嘘でしょう。この学校の人たち、全員眼科に行った方がいいんじゃないかしら)」


私は絶望の淵に立たされた。
性格の悪さをアピールすればするほど、私の「聖女伝説」が補強されていく。
これでは婚約破棄どころか、王妃への階段を猛スピードで駆け上がっているだけだ。


「あ、あの、殿下。私、本当はすごく性格が悪いんです。裏ではアンナをいびり倒したり、アリを踏み潰したりしているかもしれませんわよ?」


「お嬢様、嘘はいけません。昨晩も、部屋に迷い込んだ小さな虫を『外に逃がしてあげて』と、涙ながらに私に頼んだではありませんか」


「アンナ!! 余計なことを言わないで!」


王子の表情がさらに輝きを増した。


「虫一匹の命を慈しむ、深い愛情……。ロニエ、君という女性は、どこまで僕を驚かせれば気が済むんだい?」


王子は感極まった様子で、私を強く抱きしめた。
ラウンジ内からは拍手が巻き起こり、「お似合いのご夫婦だわ!」という声が飛んでくる。


私は王子の腕の中で、遠くの空を見つめた。
私の目指していた「没落・離れ生活」という理想郷が、また一歩、遠のいていく音がした。


「……アンナ、次の作戦を練るわよ。次はもっと……もっと直接的に、誰が見ても『これはアウトだわ』と思うような悪行を……」


「お嬢様、次は『ヒロイン』を使うのはいかがでしょう? 王子に新しいお相手を見つけて差し上げるのです。それが一番の近道かと」


アンナが私の耳元で囁いた。
その言葉に、私は暗闇の中に一筋の光を見た気がした。


そうだ。私がいじめっ子になれないのなら、王子が心変わりするような魅力的な女の子を用意すればいいのだ。
そうすれば、私は「身を引く悲劇の(実は歓喜の)ヒロイン」として、自由の身になれるはず。


「……それよ! 次は、ヒロイン発掘大作戦を開始するわ!」


私の闘志はまだ潰えていなかった。
王子の腕の中で、私は新たな「婚約破棄への計画」を、静かに、そして邪悪に(本人の主観では)練り始めたのである。
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