私を愛さないなんて、世界最大の損失ではなくて?

鏡おもち

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深夜、屋敷は静寂に包まれていた。


ミントの寝室だけは例外で、数本の最高級蜜蝋キャンドルが灯され、昼間のような明るさが保たれていた。


「……よし。今夜の保湿クリームの浸透率は百二十パーセント。私の肌が、潤いを歓迎して歌っているのが聞こえるわ」


ミントは豪奢なナイトドレスに身を包み、巨大な姿見の前でうっとりと自分の頬を両手で包み込んでいた。


「アンナも優秀ね。この部屋の湿度が常に六十パーセントに保たれるよう、濡れタオルを配置する位置が完璧だわ。これなら朝まで、私は乾燥という名の悪魔から守られる……」


ミントが至福の「自分鑑賞タイム」に浸っていた、その時。


ヒュッ、と微かな風切り音がして、窓の鍵が音もなく外された。


黒い影が、音もなく部屋の中に滑り込む。全身を黒装束で覆い、目元だけを出したその人物は、プロの暗殺者だった。王都の「ある人物」から、ミントの抹殺を依頼された凄腕である。


(……ターゲット確認。鏡の前で隙だらけだ。一撃で終わらせる)


暗殺者は呼吸を殺し、懐から毒塗りの短剣を取り出した。足音を完全に消し、ミントの背後へと忍び寄る。


あと三歩。あと二歩。短剣を振り上げ、その細い首筋に狙いを定めた瞬間。


「……ちょっと。貴方、邪魔よ」


ミントの声が、静かな部屋に響いた。


暗殺者は動きを止めた。気づかれた? いや、まさか。自分の隠密スキルは完璧だったはずだ。


「聞こえないのかしら? 今、私の姿見の左端に、貴方の薄汚い黒い影が映り込んでしまったの。せっかくの完璧な構図が台無しだわ。すぐに退いてちょうだい」


ミントは後ろを振り向きもせず、鏡越しに暗殺者を睨みつけた。その目は、殺人者を見る目ではなく、ドレスに付いたシミを見るような、心底嫌そうな目だった。


(……こいつ、自分が殺されかけていると分かっていないのか!?)


暗殺者は混乱した。だが、プロとしての矜持がすぐに彼を現実に引き戻す。


「……悪く思うな。これも仕事だ」


暗殺者は短剣を振り下ろした。その刃がミントの肌に触れる寸前。


カッ!!


強烈な光が、暗殺者の視界を真っ白に染め上げた。


「ぐあああっ!?」


暗殺者は悲鳴を上げ、両手で目を覆って後ずさった。網膜が焼けるような痛みに襲われ、涙が止まらない。


「……な、なんだ!? 閃光魔法か!?」


「失礼ね。魔法なんて野蛮なもの、私が使うわけないでしょう」


光が収まった後、そこに立っていたのは、手に持った大きめの手鏡を優雅に掲げたミントだった。


「私の愛用する『ナルシス・ミラー・スペシャル』よ。私の美しさを一ミクロンも漏らさず映し出すために、ダイヤモンドの粉末で磨き上げ、光の反射率を極限まで高めてあるの。キャンドルの光をちょっと集めただけで、その威力よ。……私の美しさを見慣れていない貴方の貧弱な眼球には、刺激が強すぎたようね」


「かが……鏡だと!? ふざけるな!」


視力を奪われた暗殺者が、闇雲に短剣を振り回す。


その時、部屋の扉が荒々しく蹴破られた。


「ミント様! ご無事ですか! 不審な気配を感じて……!」


飛び込んできたのは、剣を抜いたジルコンだった。彼は部屋の惨状――目を押さえて呻く黒ずくめの男と、鏡を持って仁王立ちするミント――を見て、一瞬で状況を把握した。


「……チッ、鼠が入り込んでいたか!」


ジルコンは手負いの暗殺者に迷わず肉薄し、剣の柄で後頭部を強打した。暗殺者は抵抗する間もなく、その場に崩れ落ちて気絶した。


「……はあ、はあ。ミント様、お怪我は!? どこも傷つけられていませんね!?」


ジルコンが血相を変えてミントに駆け寄る。


ミントは、心底迷惑そうに、自分の手鏡の表面をハンカチで拭っていた。


「ええ、大丈夫よ。危うく、この男の脂ぎった視線が私の肌に触れるところだったけれど、私の美しき反射神経が勝ったわ」


「……反射神経、ですか。一体何をしたのですか」


「ただ、鏡を見せただけよ。『私の美しさを直視しなさい!』ってね。そうしたら、あまりの眩しさに目が潰れてしまったみたい。罪な美貌ね、私って」


ジルコンは床に転がる哀れな暗殺者を見下ろし、深い、深いため息をついた。


「……こいつは王都でも名の知れた手練れですよ。それを、手鏡一つで撃退するとは。貴女のナルシシズムは、ついに物理的な攻撃力を持ってしまったようですね」


「あら、褒め言葉として受け取っておくわ。それよりジルコン、この汚いものを早く片付けて。私の神聖な寝室に、美しくないものが一秒でも存在することが許せないの」


「……はいはい。ただちに連行します」


ジルコンは気絶した暗殺者を米俵のように担ぎ上げた。


「ああ、そうだわ。彼を王都に送り返すなら、伝言をお願いできるかしら?」


ミントは再び鏡に向き直り、乱れた(と本人は思っている)前髪を直し始めた。


「『次に来るなら、もっと美しい刺客を寄越しなさい。私の引き立て役にもならないような地味な男じゃ、退屈でアクビが出て毛穴が開いてしまうわ』ってね」


ジルコンは何も言わず、ただ深く頭を下げて部屋を出て行った。彼の背中には、安堵と同時に、底知れぬ疲労感が漂っていた。


後に残されたミントは、何事もなかったかのように、中断されたスキンケアの続きに戻った。


「さあ、世界で一番可愛い私。怖い思いをして(?)少しお肌が緊張してしまったかしら? たっぷりと化粧水をあげなくてはね」


彼女にとって、命を狙われた危機でさえ、肌のコンディションを乱す「ちょっとしたハプニング」に過ぎないのであった。
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