婚約破棄のショックで食欲が……倍増しました!

鏡おもち

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「……お肉。赤い、血の滴るような、野生の生命力を感じるお肉が食べたいですわ……」

私は城の執務室のソファに横たわり、天井を見つめてうわ言のように繰り返していました。
トリュフパンは確かに絶品でした。
山羊の乳も濃厚で素晴らしかった。
ですが、今の私の細胞は、もっとこう、ガツンとくる「獣の脂」を求めているのです!

「……ラテ。仕事の邪魔だ。お前のその、今にも餓死しそうな声のせいで、報告書の内容が頭に入ってこない」

カシアン様が眉間に深い皺を寄せて、ペンを止めました。
彼は領主としての激務をこなしている最中ですが、私の「食の呪文」は防げなかったようですわね。

「カシアン様。人間には三つの欲求があると言われていますわ。食欲、睡眠欲、そして……『お肉を死ぬほど食べたい欲』ですのよ!」

「三つ目がだいぶ偏っている気がするが」

「いいですか。ヴォルフ領には、強靭な肉体を持つ魔物や野生動物がたくさんいるのでしょう? 騎士団の皆様が日々鍛錬に励むのは、彼らと戦い、その尊い命を『美味しいお肉』としていただくためではないのですか!?」

「違う。領民を守るためだ。……だが、確かに備蓄の肉が少なくなってきたのも事実だな」

カシアン様は、ふっと立ち上がりました。
そして、壁にかけられた無骨な大剣を手に取りました。

「……よし、行くぞ。ちょうど偵察の報告で、森の入り口に『鋼鉄猪(アイアンボア)』が現れたという情報が入っている。あれなら、お前のそのうるさい胃袋も黙るだろう」

「鋼鉄猪……! なんて美味しそうな響きかしら。鉄分も豊富そうですわね! すぐに行きましょう、カシアン様!」

私たちは再び「黒狼の森」へと足を踏み入れました。
カシアン様は鋭い視線で周囲を警戒し、物音一つ立てずに進んでいきます。
一方の私は、木の枝に引っかかったドレスの裾を気にすることもなく、「どの部位をどう調理するか」のシミュレーションに余念がありませんでした。

「……いたぞ。静かにしていろ」

カシアン様が私の肩をぐっと抑えました。
藪の向こうに、小型の馬ほどもある巨大な猪が姿を現しました。
その皮膚は金属のような光沢を放ち、凶悪な牙が地面を掘り返しています。

「……ふふ、ふふふふ。見てください、カシアン様。あの盛り上がった肩肉……。あそこは少し硬いでしょうけれど、赤ワインで三日三晩煮込めば、ホロホロの絶品になりますわ。それからあのバラ肉! 厚切りにして、カリッカリに焼いて塩だけで食べたいですわね……!」

「……ラテ。お前、あんな化け物を見てヨダレを垂らす奴がどこにいる」

「ここにいますわ! ああ、早く仕留めてくださいませ! 逃げられたら私の今日の睡眠の質が著しく低下しますわよ!」

「……やれやれ。お前を失望させると、後が怖そうだな」

カシアン様が、一歩前に踏み出しました。
その瞬間、空気が変わりました。
先ほどまでの「少し困った顔の騎士様」ではありません。
全身から、圧倒的な威圧感と闘気が溢れ出しています。

「グォォォォンッ!」

鋼鉄猪が私たちに気づき、地響きを立てて突進してきました。
まさに、大型トラックが突っ込んでくるような衝撃。
しかし、カシアン様は微動だにしません。

「……ハッ!」

一閃。
カシアン様が跳躍し、大剣が空を切りました。
目にも止まらぬ速さの抜刀術。
鋼鉄猪の堅い皮膚を、バターでも切るかのように真っ二つに断ち割ったのです。

返り血を浴びることなく、軽やかに着地するカシアン様。
背後で、巨大な獲物がどさりと崩れ落ちました。

「……終わったぞ。怪我はないか、ラテ」

カシアン様が剣を鞘に納め、こちらを振り返りました。
逆光を浴びて立つその姿。
風に揺れる漆黒の髪。
そして、力強い腕。

「……あ。……あぁ……っ」

私は、胸の鼓動が激しく高鳴るのを感じました。
顔が熱くなり、視界がうるんでいきます。
これは……まさか。
王宮の舞踏会でも、どんな美しい宝石を見ても感じたことのない、この感情は……。

「……どうした、ラテ? 腰を抜かしたのか?」

カシアン様が心配そうに駆け寄ってきて、私の手を取りました。
私は、震える声で答えました。

「カシアン様……。私、今……恋に落ちてしまいましたわ……」

「……っ!? な、何を……いきなり……」

カシアン様が、見たこともないほど赤くなって絶句しました。
しかし、私は彼の目を見つめ、熱く語り続けました。

「カシアン様の剣捌き! あの無駄のない動きによって、お肉の繊維が一切傷ついておりませんわ! 断面がこれほどまでに美しいなんて……! なんて完璧な『解体』かしら! ああっ、素晴らしいですわカシアン様! あなたこそ、私が見つけた最高、最強の……専属狩人(エスコート)ですわ!」

「…………」

カシアン様の顔が、みるみるうちに無表情へと戻っていきました。
いえ、正確には「スン……」という音が聞こえそうなほど、虚無の表情です。

「……お前という奴は。期待した私が馬鹿だった」

「何を仰っていますの? 早く、早く運び出しましょう! まずは血抜きですわ! 新鮮なうちに血を抜かないと、レバーが臭くなってしまいますもの!」

「……わかった。わかったから私の服を引っ張るな。獲物は逃げない」

私はカシアン様を急かし、巨大な猪を城へと持ち帰る準備を始めました。
カシアン様の背中が、少しだけ寂しそうに見えたのは気のせいでしょうか。

でも、私は確信しました。
この人と一緒なら、私はこの辺境で、誰よりも幸せな(お腹いっぱいの)一生を送り、伝説の「満腹令嬢」になれるに違いありません。

「さあカシアン様、今夜は猪のフルコースですわよ! 腕が鳴りますわ!」

「……ああ、勝手にするがいい。……腹が減ったな」

カシアン様の独り言は、私の「美味しいものレーダー」によって正確にキャッチされました。
今夜は、宴ですわ!
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