婚約破棄のショックで食欲が……倍増しました!

鏡おもち

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「……最高。最高ですわ、カシアン様。見てください、この滴る黄金色の脂を!」

城の中庭。
私たちは、急遽設えられた巨大な焚き火を囲んでいました。
目の前では、先ほどカシアン様が仕留めた鋼鉄猪(アイアンボア)のバラ肉が、太い串に刺されてパチパチとはぜています。

夜の闇の中に、肉の焼ける香ばしい匂いが立ち込め、私の鼻腔をこれでもかと愛撫してくるのです。
ああ、この香りだけで白米が三杯……いえ、パンが三斤はいけますわね。

「……落ち着け、ラテ。まだ中まで火が通っていない。焦って生焼けを食えば、腹を壊すぞ」

カシアン様は、火の粉を浴びながらも平然と串を回していました。
その無骨な横顔。
揺れる炎に照らされて、まるで名画のような美しさですわ。
……まあ、私の視線の八割は肉に固定されていますけれど。

「わかっておりますわ。お肉との対話は、忍耐の連続ですもの。表面はカリッと、中はジューシーに。……さて、カシアン様。そろそろ『あれ』の出番ではありませんか?」

「『あれ』だと? なんだ」

「決まっていますわ。味の決め手、このお肉を完成へと導く聖水……『タレ』ですわよ! さあ、出しなさいな。あなたの隠し持っている、秘伝の甘辛ダレ、あるいはニンニクの効いた醤油ベースのソースを!」

私は期待に胸を膨らませ、カシアン様の顔を見上げました。
しかし。
彼は、不思議そうに眉を寄せただけでした。

「……タレ? そんなものはない。味付けなら、もう済ませてある」

「……済ませてある? いつの間に? 私は一瞬たりとも目を離していませんでしたわよ?」

「これだ」

カシアン様が、ポケットから無造作に取り出したのは、小さな布袋でした。
その中身を指先で摘み、肉の上にパラパラと振りかけます。

「……塩、ですの?」

「そうだ。岩塩だ。素材の味を引き出すには、これが一番だ。我ら騎士団は、代々この食べ方で生きてきた」

私は、凍りつきました。
夜風が、私の頬を冷たく通り過ぎていきます。

「……塩だけ? この、脂がのりにのった、最高級の猪肉に対して……塩、だけですの?」

「不満か? この塩は、北の海から命がけで運ばれてきた上質なものだぞ」

「不満どころではありませんわ! 無能です! カシアン様、あなたは武芸においては天才かもしれませんが、食文化においては救いようのない無能ですわ!」

「む、無能だと……!?」

カシアン様が、心外だと言わぬばかりに目を見開きました。
死神と恐れられる彼に「無能」と言い放つ女など、この大陸広しといえど私くらいなものでしょう。
でも、言わねばならないのです。
これは、食の尊厳に関わる問題なのですから!

「いいですか、カシアン様! 塩は確かに素晴らしい。素材を活かす基本です。しかし! この猪の力強い脂には、それを受け止める『包容力』が必要なのですわ! 甘酸っぱい果実のソースや、ピリリと辛い香辛料を煮詰めた濃厚なタレ……。それらが絡み合うことで、お肉は初めて『料理』という名の芸術に昇華されるのです!」

「……理屈っぽい女だな。食えれば同じだろう。ほら、焼けたぞ」

カシアン様は私の演説を無視して、焼き上がった肉の塊をナイフで削ぎ、私の皿に放り投げました。
……ああっ、悔しい。
悔しいけれど、見た目は完璧ですわ。
外側はクリスピーな茶色、断面からは透明な肉汁が溢れ出しています。

私は、ぷんぷんと怒りながらも、その肉をフォークで突き刺しました。
そして、大口を開けて齧り付きます。

「……んんっ……!?」

口に入れた瞬間、鋼鉄猪の圧倒的な弾力が歯を押し返してきました。
そして、噛み締めるたびに、塩によって引き立てられた野性味溢れる旨味が、濁流のように喉へと流れ込んでくるのです。
……美味しい。
信じられないくらい、美味しいですわ。

「……どうだ。無能な塩の味は」

カシアン様が、勝ち誇ったような、それでいて少し楽しげな表情で覗き込んできました。

「……っ。……美味しいですわよ! 素材が良いから、当然ですわ! でも、でもですわね! ここに醤油と蜂蜜、あるいはすりおろしたリンゴと生姜を加えたタレがあったなら、私は今ごろ気絶して幸せの向こう側へ行っていたはずなんですのよ!」

「幸せの向こう側がどこかは知らんが……。お前は本当に、食うことになると元気がいいな」

カシアン様は、自分でも肉を一切れ口にし、満足げに頷きました。

「……ヴォルフ領には、贅沢な調味料などない。王都のような華やかな生活を求めても無駄だと言っただろう」

「ないなら、作ればいいだけですわ! 幸い、昼間に見つけたあのトリュフや、貯蔵庫の山羊乳……。それらを組み合わせれば、タレのバリエーションなんて無限に生み出せますわよ!」

私は鼻息荒く、空になった皿をカシアン様に突き出しました。

「カシアン様。明日、いえ、今すぐ私を市場、あるいは近隣の村へ連れて行きなさい。ヴォルフ領に眠る『未知のタレ原材料』を、私が片っ端から発掘して差し上げますわ!」

「……今すぐは無理だ。夜の森を、そんな飢えた目をした女と歩く勇気は私にはない」

「失礼ね! 私の目は、希望に満ち溢れていると言いなさいな!」

「食欲という名の希望だろう。……わかった、わかった。近いうちに隣村の交易市へ連れて行ってやる。だから、そのお代わりを急かすような目で私を見るのをやめろ」

カシアン様は、溜息をつきながらも、再び大きな肉の塊を切り分けてくれました。
塩だけの肉。
それは確かに武骨で、この辺境の地に相応しい味でした。
けれど、私の手によって、この地に「タレ」という名の文明をもたらす日が、今から待ち遠しくて仕方がありません。

「カシアン様。一つ言っておきますけれど……。私を満足させるタレを見つけたら、あなた、もう一生塩だけの生活には戻れなくなりますわよ?」

「……。それは、脅迫か?」

「いえ、愛の告白……あるいは、呪いですわ。うふふ」

私は再び肉にかぶりつき、夜の空に高笑いを響かせました。
辺境の夜は更けていきますが、私の野望(献立)は、まだ始まったばかりなのです。
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