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「……はあ。昨夜の猪肉、味は良かったですけれど。やはり、醤油、醤油が恋しいですわ……」
翌朝、私は城のバルコニーで、遠くの山々を眺めながら黄昏れていました。
王都では当たり前のように使っていた調味料。
それがこれほどまでに恋しくなるとは、失って初めて気づく恋心のようなものですわね。
いえ、恋心よりももっと重く、切実なものですわ。
「……何を朝から、この世の終わりのような顔をしている」
背後から、聞き慣れた低い声が響きました。
カシアン様です。
彼は朝の巡回を終えたのか、少しだけ汗を滲ませた精悍な姿で立っていました。
「カシアン様。終わりの始まりですわ。タレのない食生活は、色彩を失った絵画、あるいはオチのないジョークのようなものですのよ」
「相変わらず大袈裟な女だ。……ほら、これを受け取れ」
カシアン様が、無造作に何かを私に放り投げてきました。
それは、革でできた小さな、使い込まれた巾着袋でした。
「……何ですの、これ。私への慰謝料? それとも、昨日の『無能』発言に対する果たし状かしら?」
「いいから開けてみろ。……たまたま、交易商から買い叩いたものがあったのを思い出しただけだ」
私は疑わしげに鼻を鳴らしながら、その袋の紐を解きました。
その瞬間。
鼻腔を突き抜けたのは、ツンとした刺激、そして後から追いかけてくる独特の芳香!
「……っ! これは……芥子(マスタード)の種ではありませんか! しかも、ただの種じゃない。一度乾燥させてから、微かに燻製されていますわね!?」
「……隣村の猟師たちが、肉の保存に使っている秘密のスパイスだそうだ。王都の洗練されたものとは違うだろうが、お前なら何かに使うかと思ってな」
私は袋の中身を手のひらに出し、その一粒一粒を、愛おしい宝石でも見るかのように見つめました。
カシアン様、あなた。
昨夜あんなに「塩だけでいい」と突き放しておきながら、裏でこんなものを用意していたなんて!
「カシアン様……。あなた、意外と……いえ、とんでもなく『マメ』な方なんですのね?」
「……勘違いするな。お前に朝から晩まで『タレ、タレ』と騒がれるのが、私の精神衛生上よろしくないと思っただけだ」
カシアン様はそっぽを向きましたが、耳の端が少しだけ赤くなっているのを私は見逃しません。
ああ、可愛いところがありますわね、この死神様。
でも、今の私にはカシアン様の照れ顔よりも、この芥子の方が百倍魅力的なのです!
「よし! これがあれば、昨夜の残りのお肉も、冷めても美味しい『極上のローストポーク風』に生まれ変わりますわ! カシアン様、すぐに厨房へ戻りますわよ!」
「……待て、私はこれから報告書を……おい、引っ張るなと言っているだろう!」
私はカシアン様の腕を力いっぱい掴み、厨房へと猛ダッシュしました。
城の廊下を、公爵令嬢と騎士団長が全力疾走する姿。
すれ違う騎士たちが「何事だ!?」「敵襲か!?」と騒ぎ出していますが、知ったことではありませんわ!
厨房へ飛び込むなり、私は手近なすり鉢を奪い取りました。
そこへ、カシアン様がくれた芥子の種を投入します。
「ゴリゴリ、ゴリゴリ……。ふふふ、いい音ですわ。カシアン様、そこの山羊乳のクリームを少し、それから昨日の蜂蜜を少し分けてくださいな!」
「……。使い走りにされている気がするが……まあいい。これか?」
カシアン様が、不器用ながらも私の指示に従って材料を揃えてくれます。
すり潰した芥子に、濃厚な山羊乳、そして野生の蜂蜜。
そこへ、昨日あれほど馬鹿にした「塩」をひとつまみ……。
「……完成ですわ! ラテ特製、『死神様からの贈り物ソース』!」
私は、薄くスライスした猪の肉に、その黄金色のソースをたっぷりとかけました。
そして、フォークで掬ってカシアン様の口元へ運びます。
「さあ、毒味のお時間ですわよ。あーん、しなさいな」
「……っ。……。……あー……」
カシアン様は少しだけ躊躇しましたが、観念したように口を開けました。
肉を噛み締めた瞬間、彼の眉がピクリと動きます。
「……どうかしら?」
「…………。……悔しいが、旨いな。芥子の刺激が、蜂蜜の甘みで丸くなり、それが猪の脂と混ざり合って……。塩だけの時よりも、肉の味が『深く』感じる」
「当然ですわ! これが調和(ハーモニー)というものですもの!」
私は自分でも一口食べ、その出来栄えに満足の溜息をつきました。
辛味、甘味、酸味、そして肉の旨味。
これらが口の中で舞踏会を開いているようですわ。
昨日の「無能」発言、取り消して差し上げてもよろしくてよ、カシアン様。
「……お前という女は。こんな辺境の片隅で、たった数粒の種から、ここまでのものを作り出すのか」
カシアン様が、どこか呆れたような、それでいて深い感銘を受けたような眼差しで私を見ていました。
「当然ですわ。私はラテ・ベルモンド。美味しいもののためなら、神様とも取引してみせますわ。……でも、今回は神様ではなく、あなたのおかげですわね。ありがとうございます、カシアン様」
私が真っ直ぐに彼の目を見て微笑むと、カシアン様は今度こそ、顔全体を真っ赤にして黙り込んでしまいました。
「……。……勝手にしろ。私は、仕事に戻る」
彼は逃げるように厨房を去って行きましたが、その足取りはどこか軽やかでした。
私は、手の中に残った芥子の袋をぎゅっと握りしめました。
不毛の地? いいえ、ここは、私のわがままを(渋々ながらも)叶えてくれる、最高に贅沢な場所になりつつありますわ。
「ふふふ。明日は何をリクエストしましょうかしら。……楽しみですわね、お腹の虫さん?」
私の高笑いが、朝の厨房に響き渡りました。
ヴォルフ領での私の地位は、もはや「追放者」ではなく、実質的な「食の支配者」へと昇格したのでした。
翌朝、私は城のバルコニーで、遠くの山々を眺めながら黄昏れていました。
王都では当たり前のように使っていた調味料。
それがこれほどまでに恋しくなるとは、失って初めて気づく恋心のようなものですわね。
いえ、恋心よりももっと重く、切実なものですわ。
「……何を朝から、この世の終わりのような顔をしている」
背後から、聞き慣れた低い声が響きました。
カシアン様です。
彼は朝の巡回を終えたのか、少しだけ汗を滲ませた精悍な姿で立っていました。
「カシアン様。終わりの始まりですわ。タレのない食生活は、色彩を失った絵画、あるいはオチのないジョークのようなものですのよ」
「相変わらず大袈裟な女だ。……ほら、これを受け取れ」
カシアン様が、無造作に何かを私に放り投げてきました。
それは、革でできた小さな、使い込まれた巾着袋でした。
「……何ですの、これ。私への慰謝料? それとも、昨日の『無能』発言に対する果たし状かしら?」
「いいから開けてみろ。……たまたま、交易商から買い叩いたものがあったのを思い出しただけだ」
私は疑わしげに鼻を鳴らしながら、その袋の紐を解きました。
その瞬間。
鼻腔を突き抜けたのは、ツンとした刺激、そして後から追いかけてくる独特の芳香!
「……っ! これは……芥子(マスタード)の種ではありませんか! しかも、ただの種じゃない。一度乾燥させてから、微かに燻製されていますわね!?」
「……隣村の猟師たちが、肉の保存に使っている秘密のスパイスだそうだ。王都の洗練されたものとは違うだろうが、お前なら何かに使うかと思ってな」
私は袋の中身を手のひらに出し、その一粒一粒を、愛おしい宝石でも見るかのように見つめました。
カシアン様、あなた。
昨夜あんなに「塩だけでいい」と突き放しておきながら、裏でこんなものを用意していたなんて!
「カシアン様……。あなた、意外と……いえ、とんでもなく『マメ』な方なんですのね?」
「……勘違いするな。お前に朝から晩まで『タレ、タレ』と騒がれるのが、私の精神衛生上よろしくないと思っただけだ」
カシアン様はそっぽを向きましたが、耳の端が少しだけ赤くなっているのを私は見逃しません。
ああ、可愛いところがありますわね、この死神様。
でも、今の私にはカシアン様の照れ顔よりも、この芥子の方が百倍魅力的なのです!
「よし! これがあれば、昨夜の残りのお肉も、冷めても美味しい『極上のローストポーク風』に生まれ変わりますわ! カシアン様、すぐに厨房へ戻りますわよ!」
「……待て、私はこれから報告書を……おい、引っ張るなと言っているだろう!」
私はカシアン様の腕を力いっぱい掴み、厨房へと猛ダッシュしました。
城の廊下を、公爵令嬢と騎士団長が全力疾走する姿。
すれ違う騎士たちが「何事だ!?」「敵襲か!?」と騒ぎ出していますが、知ったことではありませんわ!
厨房へ飛び込むなり、私は手近なすり鉢を奪い取りました。
そこへ、カシアン様がくれた芥子の種を投入します。
「ゴリゴリ、ゴリゴリ……。ふふふ、いい音ですわ。カシアン様、そこの山羊乳のクリームを少し、それから昨日の蜂蜜を少し分けてくださいな!」
「……。使い走りにされている気がするが……まあいい。これか?」
カシアン様が、不器用ながらも私の指示に従って材料を揃えてくれます。
すり潰した芥子に、濃厚な山羊乳、そして野生の蜂蜜。
そこへ、昨日あれほど馬鹿にした「塩」をひとつまみ……。
「……完成ですわ! ラテ特製、『死神様からの贈り物ソース』!」
私は、薄くスライスした猪の肉に、その黄金色のソースをたっぷりとかけました。
そして、フォークで掬ってカシアン様の口元へ運びます。
「さあ、毒味のお時間ですわよ。あーん、しなさいな」
「……っ。……。……あー……」
カシアン様は少しだけ躊躇しましたが、観念したように口を開けました。
肉を噛み締めた瞬間、彼の眉がピクリと動きます。
「……どうかしら?」
「…………。……悔しいが、旨いな。芥子の刺激が、蜂蜜の甘みで丸くなり、それが猪の脂と混ざり合って……。塩だけの時よりも、肉の味が『深く』感じる」
「当然ですわ! これが調和(ハーモニー)というものですもの!」
私は自分でも一口食べ、その出来栄えに満足の溜息をつきました。
辛味、甘味、酸味、そして肉の旨味。
これらが口の中で舞踏会を開いているようですわ。
昨日の「無能」発言、取り消して差し上げてもよろしくてよ、カシアン様。
「……お前という女は。こんな辺境の片隅で、たった数粒の種から、ここまでのものを作り出すのか」
カシアン様が、どこか呆れたような、それでいて深い感銘を受けたような眼差しで私を見ていました。
「当然ですわ。私はラテ・ベルモンド。美味しいもののためなら、神様とも取引してみせますわ。……でも、今回は神様ではなく、あなたのおかげですわね。ありがとうございます、カシアン様」
私が真っ直ぐに彼の目を見て微笑むと、カシアン様は今度こそ、顔全体を真っ赤にして黙り込んでしまいました。
「……。……勝手にしろ。私は、仕事に戻る」
彼は逃げるように厨房を去って行きましたが、その足取りはどこか軽やかでした。
私は、手の中に残った芥子の袋をぎゅっと握りしめました。
不毛の地? いいえ、ここは、私のわがままを(渋々ながらも)叶えてくれる、最高に贅沢な場所になりつつありますわ。
「ふふふ。明日は何をリクエストしましょうかしら。……楽しみですわね、お腹の虫さん?」
私の高笑いが、朝の厨房に響き渡りました。
ヴォルフ領での私の地位は、もはや「追放者」ではなく、実質的な「食の支配者」へと昇格したのでした。
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