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「……信じられん。私は、地獄の門を開けてしまったのか?」
翌朝。偵察兵のハンスは、木陰から広場を覗き見ながら、ガタガタと膝を震わせていました。
昨夜の猪肉も衝撃的でしたが、今、目の前で繰り広げられている光景は、もはや王都の常識では測定不能な領域に達していたからです。
広場の中央には、巨大な……それはもう、小山のような「鋼鉄熊(アイアンベア)」が、太い鉄柱に貫かれて鎮座していました。
その下では、煌々と炎が燃え盛り、滴り落ちる脂が爆ぜるたびに、周囲に強烈な獣の香りと、脂の甘い香りが立ち込めます。
「さあ! もっと回して! 火力が足りませんわよ! この熊の右手を見てくださいな、まだコラーゲンが『私を溶かして』と泣いていますわ!」
「……ラテ。言っておくが、これは魔物だぞ。討伐したばかりの素材を、即座に丸焼きにするなど、前代未聞だ」
カシアン様が、煤にまみれながらも必死に巨大なハンドルを回していました。
騎士団長ともあろうお方が、魔物を倒した直後に「調理助手」へとジョブチェンジさせられている。
その事実に、ハンスは涙を禁じ得ませんでした。
「前代未聞こそ、私の真骨頂ですわ! いいですか、カシアン様。熊の肉、特にこの右手は、最高級の珍味。これをじっくり時間をかけて炙ることで、中の筋繊維がトロトロに解け、口に入れた瞬間に『美食の濁流』となって脳を揺さぶるのですわ!」
ラテ様は、手にした巨大な刷毛で、自作の「ハーブオイル」を熊の表面に塗りたくっていました。
その表情は、王都で聞いた「冷酷な悪女」などではなく、獲物を前にした「至高の捕食者」のそれでした。
「……ハンスとか言いましたわね? そこの木陰で震えているあなた!」
「ひっ……! な、なんでしょうか、ラテ様!」
名前を呼ばれ、ハンスは飛び上がりました。
隠密としての潜伏技術など、彼女の「美味しいものへの執着(センサー)」の前では無力に等しいのです。
「あなた、王都への報告書に何て書くつもりかしら? 『ラテは熊と戦い、その右手を貪り食おうとしています』かしら?」
「そ、そんな、滅相もございません……!」
「いいですわ、正直に書きなさいな。ただし、書き添えるのを忘れないで。……『その味は、王宮のどの晩餐会よりも、命の輝きに満ちていた』とね!」
ラテ様は、こんがりと焼き上がった熊の肉の一部をナイフで豪快に切り取りました。
そして、それを銀の皿に乗せると、信じられないことにハンスの元へと歩いてきたのです。
「ほら、昨日の残りの『お米』で作ったおにぎりも添えてあげましたわ。これを食べて、しっかりとその舌に刻みなさい。辺境の冬は厳しいですが、私たちはその厳しさを『旨味』に変えて生きているのですわ!」
ハンスは、差し出された皿を受け取りました。
熊の肉からは、野性味溢れる香りと、スパイスの爽やかな香りが混ざり合って立ち上っています。
恐る恐る一口食べると……。
「…………っ!!」
衝撃が走りました。
噛み締めた瞬間、口の中に広がる濃厚な脂の甘み。
それは、王都の繊細な料理とは正反対の、まさに「暴力的なまでの生命力」。
そして、それを中和し、さらに引き立てるお米の優しさ。
「……うまい。うますぎる。……王子、すみません。私はもう、この味を知らなかった頃の自分には戻れません……」
ハンスは、ポロポロと涙を流しながら熊の肉を頬張りました。
偵察兵としてのプライドは、熊のコラーゲンによって完全に溶かされてしまったのです。
「ふふん! いい食べっぷりですわね! カシアン様、見てくださいな。王都の人間も、こうして私の味覚の奴隷になっていくのですわ!」
「……奴隷、という言い方はやめろ。だが、確かに……お前の料理には、人を狂わせる何かがあるな」
カシアン様も、自分の分の肉を口にし、満足げに目を細めました。
二人の間には、王都の貴族のような虚飾に満ちた会話はありません。
ただ、「美味しい」という一点で結ばれた、強固な信頼関係がありました。
ハンスは、懐から筆と紙を取り出しました。
そして、震える手で報告書を書き始めました。
『ジュリアン王子へ。
ラテ・ベルモンドは、もはや我々の知る令嬢ではありません。
彼女は、巨大な熊を火にかけ、騎士たちと共に高笑いしながらそれを食らっています。
その姿は、惨めな追放者などではなく……この地に降臨した、食と肉の支配者です。
追伸:熊の右手、最高でした』
「……これで、私の偵察兵としての寿命は終わったな」
ハンスは自嘲気味に笑い、最後の一切れを口に放り込みました。
辺境の空は高く、どこまでも澄み渡っています。
ラテ様の高笑いが、焼き上がる肉の音と共に、ヴォルフ領の山々に響き渡りました。
王都からの刺客さえも胃袋で丸め込む。
悪役令嬢ラテの「おいしい地獄」は、もはや誰にも止めることはできないのでした。
翌朝。偵察兵のハンスは、木陰から広場を覗き見ながら、ガタガタと膝を震わせていました。
昨夜の猪肉も衝撃的でしたが、今、目の前で繰り広げられている光景は、もはや王都の常識では測定不能な領域に達していたからです。
広場の中央には、巨大な……それはもう、小山のような「鋼鉄熊(アイアンベア)」が、太い鉄柱に貫かれて鎮座していました。
その下では、煌々と炎が燃え盛り、滴り落ちる脂が爆ぜるたびに、周囲に強烈な獣の香りと、脂の甘い香りが立ち込めます。
「さあ! もっと回して! 火力が足りませんわよ! この熊の右手を見てくださいな、まだコラーゲンが『私を溶かして』と泣いていますわ!」
「……ラテ。言っておくが、これは魔物だぞ。討伐したばかりの素材を、即座に丸焼きにするなど、前代未聞だ」
カシアン様が、煤にまみれながらも必死に巨大なハンドルを回していました。
騎士団長ともあろうお方が、魔物を倒した直後に「調理助手」へとジョブチェンジさせられている。
その事実に、ハンスは涙を禁じ得ませんでした。
「前代未聞こそ、私の真骨頂ですわ! いいですか、カシアン様。熊の肉、特にこの右手は、最高級の珍味。これをじっくり時間をかけて炙ることで、中の筋繊維がトロトロに解け、口に入れた瞬間に『美食の濁流』となって脳を揺さぶるのですわ!」
ラテ様は、手にした巨大な刷毛で、自作の「ハーブオイル」を熊の表面に塗りたくっていました。
その表情は、王都で聞いた「冷酷な悪女」などではなく、獲物を前にした「至高の捕食者」のそれでした。
「……ハンスとか言いましたわね? そこの木陰で震えているあなた!」
「ひっ……! な、なんでしょうか、ラテ様!」
名前を呼ばれ、ハンスは飛び上がりました。
隠密としての潜伏技術など、彼女の「美味しいものへの執着(センサー)」の前では無力に等しいのです。
「あなた、王都への報告書に何て書くつもりかしら? 『ラテは熊と戦い、その右手を貪り食おうとしています』かしら?」
「そ、そんな、滅相もございません……!」
「いいですわ、正直に書きなさいな。ただし、書き添えるのを忘れないで。……『その味は、王宮のどの晩餐会よりも、命の輝きに満ちていた』とね!」
ラテ様は、こんがりと焼き上がった熊の肉の一部をナイフで豪快に切り取りました。
そして、それを銀の皿に乗せると、信じられないことにハンスの元へと歩いてきたのです。
「ほら、昨日の残りの『お米』で作ったおにぎりも添えてあげましたわ。これを食べて、しっかりとその舌に刻みなさい。辺境の冬は厳しいですが、私たちはその厳しさを『旨味』に変えて生きているのですわ!」
ハンスは、差し出された皿を受け取りました。
熊の肉からは、野性味溢れる香りと、スパイスの爽やかな香りが混ざり合って立ち上っています。
恐る恐る一口食べると……。
「…………っ!!」
衝撃が走りました。
噛み締めた瞬間、口の中に広がる濃厚な脂の甘み。
それは、王都の繊細な料理とは正反対の、まさに「暴力的なまでの生命力」。
そして、それを中和し、さらに引き立てるお米の優しさ。
「……うまい。うますぎる。……王子、すみません。私はもう、この味を知らなかった頃の自分には戻れません……」
ハンスは、ポロポロと涙を流しながら熊の肉を頬張りました。
偵察兵としてのプライドは、熊のコラーゲンによって完全に溶かされてしまったのです。
「ふふん! いい食べっぷりですわね! カシアン様、見てくださいな。王都の人間も、こうして私の味覚の奴隷になっていくのですわ!」
「……奴隷、という言い方はやめろ。だが、確かに……お前の料理には、人を狂わせる何かがあるな」
カシアン様も、自分の分の肉を口にし、満足げに目を細めました。
二人の間には、王都の貴族のような虚飾に満ちた会話はありません。
ただ、「美味しい」という一点で結ばれた、強固な信頼関係がありました。
ハンスは、懐から筆と紙を取り出しました。
そして、震える手で報告書を書き始めました。
『ジュリアン王子へ。
ラテ・ベルモンドは、もはや我々の知る令嬢ではありません。
彼女は、巨大な熊を火にかけ、騎士たちと共に高笑いしながらそれを食らっています。
その姿は、惨めな追放者などではなく……この地に降臨した、食と肉の支配者です。
追伸:熊の右手、最高でした』
「……これで、私の偵察兵としての寿命は終わったな」
ハンスは自嘲気味に笑い、最後の一切れを口に放り込みました。
辺境の空は高く、どこまでも澄み渡っています。
ラテ様の高笑いが、焼き上がる肉の音と共に、ヴォルフ領の山々に響き渡りました。
王都からの刺客さえも胃袋で丸め込む。
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