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「……邪魔ですわ! そこの貴方、火力が弱すぎます! これでは肉の表面が焼ける前に旨みが逃げてしまうではありませんか!」
グランシエル公爵邸の厨房は、今や一つの「戦場」と化していた。
その中心に立つのは、動きやすいように袖を捲り上げ、エプロンをこれ以上なく優雅に着こなしたイザバラである。
彼女の右手には大きな鉄鍋、左手には長めの菜箸が握られており、その姿は騎士が剣を振るうよりも遥かに殺気立っていた。
「ひっ、申し訳ございません! ですが、これ以上の火力は……」
「言い訳は不要ですわ! 石炭を追加なさい! 炭の香りが肉に移るのを恐れてどうしますの。今から焼くのは、市場で勝ち取った最強の熟成肉ですわよ!」
イザバラの怒号に、屈強な料理人たちが震え上がる。
先日、彼女に「卵の鮮度」を指摘された料理長は、もはや反論する気力もなく、大人しく彼女の指示に従って塩を振るタイミングを計っていた。
厨房の入り口では、リュカ公爵が腕を組み、興味深そうにその光景を眺めている。
「……私の厨房が、まさか一人の令嬢に占拠されるとはな。しかも、あんなに嬉々として肉を叩く令嬢を私は他に知らない」
「閣下、見ていてくださいませ。これからこの厨房に、奇跡を降臨させて差し上げますわ」
イザバラは、熱せられた鉄鍋にたっぷりの無塩バターを投入した。
激しい音と共にバターが溶け、そこに潰したニンニクとローズマリーを投げ込む。
瞬間に立ち上る、暴力的なまでに芳醇な香り。
「さあ、お行きなさい!」
ドスン、という重量感のある音と共に、厚さ五センチはあろうかというサーロインが投入された。
ジューッ! という鼓膜を震わせるような快音が響き、脂の焼ける匂いが、一瞬にして厨房の空気を「欲望」の色に染め上げる。
イザバラはスプーンを使い、溶けた熱い脂を肉の表面に何度も、何度も回しかける。
アロゼという技法だ。
彼女の目は、獲物を狙う鷹のように鋭く、肉の表面が完璧なキャラメル色に変わる瞬間を片時も逃さない。
「……よし。ここで、一旦休ませますわ。肉だって、いきなり焼かれたら緊張して硬くなってしまいますもの」
「肉の緊張、か。面白い表現だな」
リュカが歩み寄り、皿の上で休まされている肉を見下ろした。
焦げ茶色の焼き色がついた肉からは、肉汁を閉じ込めた証である力強い熱気が放たれている。
「閣下、美味しい料理には『待機』が必要ですの。恋の駆け引きと同じですわ。……もっとも、私は殿下との駆け引きに失敗して、こうして肉を焼いているわけですけれど。オホホホ!」
「失敗というより、君が殿下を『不味いものリスト』に叩き込んで捨てたように見えたがな」
数分後、再び強火で仕上げられた肉が、大きな銀皿に盛り付けられた。
ソースは、肉を焼いた後の鍋に残った旨みを、赤ワインとバルサミコ酢で煮詰めた特製のものだ。
食堂に運ばれた「悪魔のステーキ」を前に、イザバラとリュカはナイフを手にする。
「いただきますわ」
イザバラがナイフを入れる。
外側はカリッとしているが、中は見事なまでにルビー色のレアだ。
一口、口に運んだ瞬間――イザバラの頬が、蕩けるように緩んだ。
「……ああ、幸せ。熟成された肉の野生的な旨みが、バターのコクと混ざり合って、脳を直接殴ってくるようですわ。閣下、見てください、この脂の甘み! 生きていて良かったですわ!」
「……確かに。これは、王宮のどの晩餐会で出される肉よりも、雄弁に『美味』を語っている」
リュカもまた、その一切れを噛みしめるごとに、普段の冷徹な仮面が剥がれ落ちていくのを感じていた。
美食の前では、地位も名誉も、冷たい理性さえも二の次になる。
「閣下、明日もまた市場へ行きましょう。今度は、あの素晴らしい肉に負けないほどの、力強い赤ワインを探しに!」
「……ああ。君の胃袋が許す限り、どこへでも付き合おう」
二人が至高の肉に酔いしれているその頃。
王宮の食堂では――。
「…………これ、何?」
ジュリアン王太子が、目の前に置かれた皿を虚ろな目で見つめていた。
そこにあるのは、申し訳程度に茹でられた味のないブロッコリー三房と、パサパサに乾いた蒸し鶏の胸肉である。
「殿下、本日のお夕食ですわ! 最新の栄養学に基づいた、『内面から美しくなるためのデトックス・メニュー』です。さあ、ハーブティーと一緒に召し上がって?」
カトリーヌが、天使のような微笑みで青汁のような色の飲み物を差し出す。
「……カトリーヌ。私は、もう少し……こう、焼いた肉の匂いとか、バターの香りとかを嗅ぎたいんだが」
「いけませんわ殿下! あのような不浄な脂は、貴方の高貴な精神を濁らせます。さあ、この『野草のしずく』を飲んで、心を清らかになさってくださいな!」
「…………あ。あ、ああ……」
ジュリアンの脳裏に、市場で見たあの、イザバラが指差していた「悪魔の肉」がフラッシュバックする。
あの時、一口でもいいから奪って食べておけば良かった。
いや、そもそもなぜ自分は、あんなに美味しそうに肉を語るイザバラを捨ててしまったのか。
王太子の胃袋が、悲痛な叫び声を上げる。
だが、目の前には微笑むカトリーヌと、緑色の液体しかない。
「イザバラ……。お前、今、何を食べているんだ……?」
その問いへの答えは、グランシエル公爵邸に響く「おかわり!」という元気な声の中にあった。
グランシエル公爵邸の厨房は、今や一つの「戦場」と化していた。
その中心に立つのは、動きやすいように袖を捲り上げ、エプロンをこれ以上なく優雅に着こなしたイザバラである。
彼女の右手には大きな鉄鍋、左手には長めの菜箸が握られており、その姿は騎士が剣を振るうよりも遥かに殺気立っていた。
「ひっ、申し訳ございません! ですが、これ以上の火力は……」
「言い訳は不要ですわ! 石炭を追加なさい! 炭の香りが肉に移るのを恐れてどうしますの。今から焼くのは、市場で勝ち取った最強の熟成肉ですわよ!」
イザバラの怒号に、屈強な料理人たちが震え上がる。
先日、彼女に「卵の鮮度」を指摘された料理長は、もはや反論する気力もなく、大人しく彼女の指示に従って塩を振るタイミングを計っていた。
厨房の入り口では、リュカ公爵が腕を組み、興味深そうにその光景を眺めている。
「……私の厨房が、まさか一人の令嬢に占拠されるとはな。しかも、あんなに嬉々として肉を叩く令嬢を私は他に知らない」
「閣下、見ていてくださいませ。これからこの厨房に、奇跡を降臨させて差し上げますわ」
イザバラは、熱せられた鉄鍋にたっぷりの無塩バターを投入した。
激しい音と共にバターが溶け、そこに潰したニンニクとローズマリーを投げ込む。
瞬間に立ち上る、暴力的なまでに芳醇な香り。
「さあ、お行きなさい!」
ドスン、という重量感のある音と共に、厚さ五センチはあろうかというサーロインが投入された。
ジューッ! という鼓膜を震わせるような快音が響き、脂の焼ける匂いが、一瞬にして厨房の空気を「欲望」の色に染め上げる。
イザバラはスプーンを使い、溶けた熱い脂を肉の表面に何度も、何度も回しかける。
アロゼという技法だ。
彼女の目は、獲物を狙う鷹のように鋭く、肉の表面が完璧なキャラメル色に変わる瞬間を片時も逃さない。
「……よし。ここで、一旦休ませますわ。肉だって、いきなり焼かれたら緊張して硬くなってしまいますもの」
「肉の緊張、か。面白い表現だな」
リュカが歩み寄り、皿の上で休まされている肉を見下ろした。
焦げ茶色の焼き色がついた肉からは、肉汁を閉じ込めた証である力強い熱気が放たれている。
「閣下、美味しい料理には『待機』が必要ですの。恋の駆け引きと同じですわ。……もっとも、私は殿下との駆け引きに失敗して、こうして肉を焼いているわけですけれど。オホホホ!」
「失敗というより、君が殿下を『不味いものリスト』に叩き込んで捨てたように見えたがな」
数分後、再び強火で仕上げられた肉が、大きな銀皿に盛り付けられた。
ソースは、肉を焼いた後の鍋に残った旨みを、赤ワインとバルサミコ酢で煮詰めた特製のものだ。
食堂に運ばれた「悪魔のステーキ」を前に、イザバラとリュカはナイフを手にする。
「いただきますわ」
イザバラがナイフを入れる。
外側はカリッとしているが、中は見事なまでにルビー色のレアだ。
一口、口に運んだ瞬間――イザバラの頬が、蕩けるように緩んだ。
「……ああ、幸せ。熟成された肉の野生的な旨みが、バターのコクと混ざり合って、脳を直接殴ってくるようですわ。閣下、見てください、この脂の甘み! 生きていて良かったですわ!」
「……確かに。これは、王宮のどの晩餐会で出される肉よりも、雄弁に『美味』を語っている」
リュカもまた、その一切れを噛みしめるごとに、普段の冷徹な仮面が剥がれ落ちていくのを感じていた。
美食の前では、地位も名誉も、冷たい理性さえも二の次になる。
「閣下、明日もまた市場へ行きましょう。今度は、あの素晴らしい肉に負けないほどの、力強い赤ワインを探しに!」
「……ああ。君の胃袋が許す限り、どこへでも付き合おう」
二人が至高の肉に酔いしれているその頃。
王宮の食堂では――。
「…………これ、何?」
ジュリアン王太子が、目の前に置かれた皿を虚ろな目で見つめていた。
そこにあるのは、申し訳程度に茹でられた味のないブロッコリー三房と、パサパサに乾いた蒸し鶏の胸肉である。
「殿下、本日のお夕食ですわ! 最新の栄養学に基づいた、『内面から美しくなるためのデトックス・メニュー』です。さあ、ハーブティーと一緒に召し上がって?」
カトリーヌが、天使のような微笑みで青汁のような色の飲み物を差し出す。
「……カトリーヌ。私は、もう少し……こう、焼いた肉の匂いとか、バターの香りとかを嗅ぎたいんだが」
「いけませんわ殿下! あのような不浄な脂は、貴方の高貴な精神を濁らせます。さあ、この『野草のしずく』を飲んで、心を清らかになさってくださいな!」
「…………あ。あ、ああ……」
ジュリアンの脳裏に、市場で見たあの、イザバラが指差していた「悪魔の肉」がフラッシュバックする。
あの時、一口でもいいから奪って食べておけば良かった。
いや、そもそもなぜ自分は、あんなに美味しそうに肉を語るイザバラを捨ててしまったのか。
王太子の胃袋が、悲痛な叫び声を上げる。
だが、目の前には微笑むカトリーヌと、緑色の液体しかない。
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