婚約破棄されましたが、それよりシェフを呼んでください。

鏡おもち

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「……閣下、今なんと仰いましたの? もう一度、私の鼓膜にその至高の単語を刻んでくださいませ」

グランシエル公爵邸の図書室。
イザバラは、分厚い「世界食材図鑑」を抱えたまま、リュカに詰め寄っていた。

「だから、黄金茸(おうごんだけ)だ。一年のうち、この三日間だけ、北の霧深い渓谷にのみ姿を現すという、伝説の茸だよ」

リュカは、古びた地図を広げながら淡々と告げる。

「その味は、最高級のバターを凝縮したようなコクがあり、香りは焼きたての栗とヘーゼルナッツを混ぜたようだと伝えられている。……だが、生息地は険しく、魔獣こそいないが、熟練の猟師でも辿り着くのは至難の業だ」

「……行きましょう。今すぐに。馬を出しなさい、閣下! いえ、私が馬を担いででも走りますわ!」

イザバラの瞳には、かつてないほどの激しい炎が宿っていた。
婚約破棄を告げられた時ですら見せなかった、人生最大の決意がそこにある。

「落ち着け、イザバラ。令嬢が山に登るなど、正気の沙汰ではない。……と言っても、無駄だろうが」

「当然ですわ! この世に存在する最高の美味を前にして、素通りするなど美食家への冒涜です。それに閣下、貴方だってあの独特の食感を、その舌で確かめたいのでしょう?」

リュカは、否定するように肩をすくめたが、その口元は僅かに弧を描いていた。

「……否定はしないな。私も、その『幻』のために、特注の小型コンロと最高級の岩塩を用意させたところだ」

「流石ですわ、閣下! 話が早くて助かります!」

こうして、公爵令嬢と公爵による「命がけのピクニック」が幕を開けた。

翌朝、イザバラは動きやすさを重視した(といってもレースたっぷりの)乗馬服に身を包み、背中のリュックにはドレスではなく、各種スパイスとオリーブオイル、そして愛用のフライパンを詰め込んでいた。

「イザバラ、足元に気をつけろ。そこは滑りやすい」

「……ハァ、ハァ……。大丈夫、ですわ……。この先に、黄金色の……バターの塊が、待っていると思えば……膝の笑いなど、子守唄、ですわ……!」

険しい山道を登ること数時間。
普通の令嬢なら三回は気絶して、五回は泣き言を漏らしているであろう過酷な行程だ。
だがイザバラは、額に光る汗を拭うことすら惜しみ、野生の獣のような嗅覚で「その時」を待っていた。

「……閣下、止まってくださいませ」

不意に、イザバラが足を止めた。
彼女は鼻をヒクヒクさせ、空気を深く吸い込む。

「この香り……。湿った土の匂いの向こう側に、微かに、しかし確実な『ナッツの芳香』を感じますわ。あちら……あの大岩の裏です!」

イザバラはドレスの裾が泥に汚れるのも構わず、茂みを掻き分けた。
リュカが慌てて後を追うと、そこには。

木漏れ日を浴びて、文字通り黄金色に輝く、ぽってりとしたフォルムの茸が群生していた。

「……これだ。本物だな」

「ああ……なんて美しい。まるで、森の妖精が落とした宝飾品のようですわ……」

イザバラは、震える手で茸を収穫した。
手に持っただけで、ずっしりとした重量感と、生命力に満ちた弾力が伝わってくる。

「閣下、もう我慢できませんわ。ここで、今すぐに、調理を始めましょう!」

「同感だ。火を熾そう」

二人は手際よく準備を整えた。
リュカが火を管理し、イザバラが茸をスライスする。
包丁を入れた瞬間、中から溢れ出す乳白色の汁。それが空気に触れると、さらに香りが強まった。

熱したフライパンに、持ち込んだ有塩バターを落とす。
そこへ、黄金茸を投入。

ジューッ……。

静かな森の中に、世界で最も甘美な音が響き渡った。
茸がバターを吸い込み、表面が香ばしく色づいていく。
仕上げに、リュカが持参した岩塩をパラリと振りかける。

「……さあ、召し上がれ。黄金茸のバターソテー、森の祝福添えですわ」

イザバラは、熱々の茸をフォークで突き、リュカと向き合った。

「いただきます」

口に入れた瞬間――。
二人の時が止まった。

「……っ!!」

イザバラは、あまりの衝撃に言葉を失い、その場に膝をついた。
舌の上で弾けるのは、キノコという概念を超越した、濃厚な「肉」のような旨み。
噛みしめるたびに、森のエッセンスがバターと共に脳を突き抜けていく。

「……信じられん。これほどの味が、この世に存在していたとは」

リュカもまた、目を見開き、恍惚とした表情を浮かべていた。
いつもは冷徹な彼が、今は一人の少年のように、純粋な驚きに支配されている。

「閣下……私、今なら王太子に『婚約破棄してくれてありがとう』と心から言えますわ。あの方と一緒にいたら、一生この茸には出会えませんでしたもの……!」

「……ふ。君の幸せの基準は、本当に分かりやすいな」

二人は、静かな山の中で、黄金色の奇跡を心ゆくまで堪能した。

その頃、王宮の裏庭では――。

「……あ。あそこに生えているキノコ、食べられないかな……」

ジュリアン王太子が、植え込みの陰に生えた地味な茶色のキノコを、虚ろな目で見つめていた。

「いけませんわ殿下! そのような野蛮な菌類、お腹を壊してしまいます。さあ、こちらに特製の『根菜の泥水……いえ、デトックススープ』がございますわよ!」

「…………う。……うう、肉……。バターを……。誰か、バターを私に……」

王太子の切実な願いは、カトリーヌの「健康への情熱」という名の壁に跳ね返され、空しく消えていった。
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