7 / 28
7
しおりを挟む
「……閣下、一つお伺いしてもよろしいかしら?」
霧が立ち込める夕暮れの山道。
イザバラは、黄金茸を詰め込んだリュックを背負ったまま、冷静な声で尋ねた。
「なんだ、イザバラ」
「私たちが先ほどから、あの『雷に打たれたような形の巨木』の前を通るのは、これで三度目ですわよね? これは何かしら。森の精霊による熱烈な歓迎かしら、それとも単なる嫌がらせかしら?」
先頭を歩いていたリュカが、ピタリと足を止めた。
彼は手元の地図と周囲の景色を交互に見比べ、それから深いため息をついた。
「……認めよう。遭難だ。霧で方向感覚が狂ったらしい」
「あら、遭難。素敵な響きですわね」
イザバラは動じるどころか、むしろ瞳をキラキラと輝かせた。
「遭難といえば、サバイバル。サバイバルといえば、野生の食材! 閣下、先ほどあちらの藪で、立派な野兎が跳ねるのを見かけましたわ。今夜の献立は決まりましたわね!」
「……君は、恐怖という感情を母親の腹の中に忘れてきたのか? 山での夜越しは危険だ。まずは雨風を凌げる場所を探さなくては」
リュカが呆れながらも周囲を探索すると、幸いにも近くに手頃な岩穴が見つかった。
二人が中に逃げ込むと同時に、空からは激しい雨が降り始めた。
「ふぅ。危機一髪でしたわね、閣下」
「全くだ。火を熾そう。……幸い、非常食の乾パンと干し肉はある。夜明けまでこれで凌ぐしか――」
「お待ちになって、閣下!」
イザバラが、鋭い制止の声を上げた。
彼女はリュックをひっくり返し、中から魔法の杖……ではなく、頑丈な串と、丁寧に包まれた「何か」を取り出した。
「せっかくの遭難という非日常に、そんな味気ない食事で妥協するなど、美食家としての名が廃りますわ。見てください、市場で仕入れておいた『鴨の胸肉の塩漬け』です。そして、道すがら採取しておいたワイルドベリーと香草!」
「……君は、登山リュックに鴨肉を忍ばせていたのか?」
「当然ですわ。いつ何時、最高の調理環境(焚き火)に出会うか分かりませんもの。さあ、閣下、火を! 最高にワイルドなやつをお願いしますわ!」
リュカは半ば諦めたように笑い、魔石を使って手際よく火を起こした。
赤々と燃える炎を前に、イザバラの「即席バーベキュー」が開始される。
串に刺された厚切りの鴨肉が、炎の熱でジリジリと音を立て始めた。
脂が火に落ちるたび、パチパチという音と共に、香ばしい煙が岩穴いっぱいに広がる。
「見てくださいませ、この脂の爆ぜる様子。まさに自然の咆哮ですわ。閣下、お肉の表面にこのワイルドベリーを潰して塗り込むのです。酸味が肉の脂を中和し、野生味溢れるソースに変わりますのよ」
「……君の調理風景を見ていると、ここが湿った洞窟であることを忘れてしまいそうだ。まるで高級狩猟亭(ハンティング・ロッジ)の特等席だな」
リュカも手伝い、二人は交互に串を回しながら、肉が焼き上がるのを待った。
「さあ、閣下。召し上がれ。遭難記念、鴨のベリー香草焼きですわ!」
差し出された串を受け取り、リュカは熱々の肉にかじりついた。
その瞬間、彼の端正な顔立ちが驚きに染まる。
「……っ! これは……。ただ焼いただけのはずなのに、焚き火の煙の香りが最高の燻製(スモーク)となって、肉の旨みを引き立てている。ベリーの酸味も、外で食べるからこそ、より鮮烈に感じられるな」
「でしょう? 屋根の下で食べる食事も良いですが、荒れ狂う嵐の音を聞きながら、火の粉と共に味わう食事こそ、生命の根源に触れる美食と言えますわ!」
イザバラも自分の分にかじりつき、幸せそうに頬を膨らませた。
「はぁ……美味しい。婚約破棄されて、山で遭難して、泥だらけになって肉を食らう。公爵令嬢としてこれ以上の『堕落』があるでしょうか。最高ですわ!」
「……君といると、世間の常識がどんどん溶けていくな」
リュカは、火に照らされて笑うイザバラをじっと見つめた。
ただの「食いしん坊な令嬢」だと思っていたが、彼女のこの逞しさと、どんな状況でも楽しもうとする精神。
それは、冷徹な理性の世界で生きてきた彼にとって、何よりも眩しいものだった。
「……イザバラ。君が、その……。もし本当に実家からも放逐されるようなことがあれば、その時は――」
「あ! 閣下、見てください! 火の粉の中に、黄金茸を一切れ放り込んでみましたの。炙り茸……ああ、これも絶景ですわ!」
「…………いや、なんでもない。今はその茸に集中しよう」
リュカの小さな決意(あるいは告白に近い何か)は、芳醇なキノコの香りに巻かれて、夜の闇へと消えていった。
その頃、王宮の寝室では――。
「……鴨……。鴨のローストが食べたい……。ベリーのソースがかかった、あの脂の乗ったやつを……」
ジュリアン王太子が、ベッドの中でうなされていた。
空腹のあまり、夢の中にまで巨大な鴨が現れて、彼を追い回しているのだ。
「殿下、どうなさいました? 怖い夢でも? さあ、落ち着かせるために、特製の『干し草と苦いハーブの煎じ薬』を飲んでくださいな。心が穏やかになりますわよ」
カトリーヌが、暗闇の中で緑色に光る液体を差し出す。
「ひっ!? ……あ、ああ……。イザバラ……助けてくれ、イザバラ……」
王太子の涙混じりの呟きに、カトリーヌが微かに目を細めたが、空腹で朦朧としているジュリアンはそれに気づく由もなかった。
霧が立ち込める夕暮れの山道。
イザバラは、黄金茸を詰め込んだリュックを背負ったまま、冷静な声で尋ねた。
「なんだ、イザバラ」
「私たちが先ほどから、あの『雷に打たれたような形の巨木』の前を通るのは、これで三度目ですわよね? これは何かしら。森の精霊による熱烈な歓迎かしら、それとも単なる嫌がらせかしら?」
先頭を歩いていたリュカが、ピタリと足を止めた。
彼は手元の地図と周囲の景色を交互に見比べ、それから深いため息をついた。
「……認めよう。遭難だ。霧で方向感覚が狂ったらしい」
「あら、遭難。素敵な響きですわね」
イザバラは動じるどころか、むしろ瞳をキラキラと輝かせた。
「遭難といえば、サバイバル。サバイバルといえば、野生の食材! 閣下、先ほどあちらの藪で、立派な野兎が跳ねるのを見かけましたわ。今夜の献立は決まりましたわね!」
「……君は、恐怖という感情を母親の腹の中に忘れてきたのか? 山での夜越しは危険だ。まずは雨風を凌げる場所を探さなくては」
リュカが呆れながらも周囲を探索すると、幸いにも近くに手頃な岩穴が見つかった。
二人が中に逃げ込むと同時に、空からは激しい雨が降り始めた。
「ふぅ。危機一髪でしたわね、閣下」
「全くだ。火を熾そう。……幸い、非常食の乾パンと干し肉はある。夜明けまでこれで凌ぐしか――」
「お待ちになって、閣下!」
イザバラが、鋭い制止の声を上げた。
彼女はリュックをひっくり返し、中から魔法の杖……ではなく、頑丈な串と、丁寧に包まれた「何か」を取り出した。
「せっかくの遭難という非日常に、そんな味気ない食事で妥協するなど、美食家としての名が廃りますわ。見てください、市場で仕入れておいた『鴨の胸肉の塩漬け』です。そして、道すがら採取しておいたワイルドベリーと香草!」
「……君は、登山リュックに鴨肉を忍ばせていたのか?」
「当然ですわ。いつ何時、最高の調理環境(焚き火)に出会うか分かりませんもの。さあ、閣下、火を! 最高にワイルドなやつをお願いしますわ!」
リュカは半ば諦めたように笑い、魔石を使って手際よく火を起こした。
赤々と燃える炎を前に、イザバラの「即席バーベキュー」が開始される。
串に刺された厚切りの鴨肉が、炎の熱でジリジリと音を立て始めた。
脂が火に落ちるたび、パチパチという音と共に、香ばしい煙が岩穴いっぱいに広がる。
「見てくださいませ、この脂の爆ぜる様子。まさに自然の咆哮ですわ。閣下、お肉の表面にこのワイルドベリーを潰して塗り込むのです。酸味が肉の脂を中和し、野生味溢れるソースに変わりますのよ」
「……君の調理風景を見ていると、ここが湿った洞窟であることを忘れてしまいそうだ。まるで高級狩猟亭(ハンティング・ロッジ)の特等席だな」
リュカも手伝い、二人は交互に串を回しながら、肉が焼き上がるのを待った。
「さあ、閣下。召し上がれ。遭難記念、鴨のベリー香草焼きですわ!」
差し出された串を受け取り、リュカは熱々の肉にかじりついた。
その瞬間、彼の端正な顔立ちが驚きに染まる。
「……っ! これは……。ただ焼いただけのはずなのに、焚き火の煙の香りが最高の燻製(スモーク)となって、肉の旨みを引き立てている。ベリーの酸味も、外で食べるからこそ、より鮮烈に感じられるな」
「でしょう? 屋根の下で食べる食事も良いですが、荒れ狂う嵐の音を聞きながら、火の粉と共に味わう食事こそ、生命の根源に触れる美食と言えますわ!」
イザバラも自分の分にかじりつき、幸せそうに頬を膨らませた。
「はぁ……美味しい。婚約破棄されて、山で遭難して、泥だらけになって肉を食らう。公爵令嬢としてこれ以上の『堕落』があるでしょうか。最高ですわ!」
「……君といると、世間の常識がどんどん溶けていくな」
リュカは、火に照らされて笑うイザバラをじっと見つめた。
ただの「食いしん坊な令嬢」だと思っていたが、彼女のこの逞しさと、どんな状況でも楽しもうとする精神。
それは、冷徹な理性の世界で生きてきた彼にとって、何よりも眩しいものだった。
「……イザバラ。君が、その……。もし本当に実家からも放逐されるようなことがあれば、その時は――」
「あ! 閣下、見てください! 火の粉の中に、黄金茸を一切れ放り込んでみましたの。炙り茸……ああ、これも絶景ですわ!」
「…………いや、なんでもない。今はその茸に集中しよう」
リュカの小さな決意(あるいは告白に近い何か)は、芳醇なキノコの香りに巻かれて、夜の闇へと消えていった。
その頃、王宮の寝室では――。
「……鴨……。鴨のローストが食べたい……。ベリーのソースがかかった、あの脂の乗ったやつを……」
ジュリアン王太子が、ベッドの中でうなされていた。
空腹のあまり、夢の中にまで巨大な鴨が現れて、彼を追い回しているのだ。
「殿下、どうなさいました? 怖い夢でも? さあ、落ち着かせるために、特製の『干し草と苦いハーブの煎じ薬』を飲んでくださいな。心が穏やかになりますわよ」
カトリーヌが、暗闇の中で緑色に光る液体を差し出す。
「ひっ!? ……あ、ああ……。イザバラ……助けてくれ、イザバラ……」
王太子の涙混じりの呟きに、カトリーヌが微かに目を細めたが、空腹で朦朧としているジュリアンはそれに気づく由もなかった。
0
あなたにおすすめの小説
私を選ばなかったくせに~推しの悪役令嬢になってしまったので、本物以上に悪役らしい振る舞いをして婚約破棄してやりますわ、ザマア~
あさぎかな@コミカライズ決定
恋愛
乙女ゲーム《時の思い出(クロノス・メモリー)》の世界、しかも推しである悪役令嬢ルーシャに転生してしまったクレハ。
「貴方は一度だって私の話に耳を傾けたことがなかった。誤魔化して、逃げて、時より甘い言葉や、贈り物を贈れば満足だと思っていたのでしょう。――どんな時だって、私を選ばなかったくせに」と言って化物になる悪役令嬢ルーシャの未来を変えるため、いちルーシャファンとして、婚約者であり全ての元凶とである第五王子ベルンハルト(放蕩者)に婚約破棄を求めるのだが――?
彼女が高級娼婦と呼ばれる理由~元悪役令嬢の戦慄の日々~
プラネットプラント
恋愛
婚約者である王子の恋人をいじめたと婚約破棄され、実家から縁を切られたライラは娼館で暮らすことになる。だが、訪れる人々のせいでライラは怯えていた。
※完結済。
王子、おひとり様で残りの人生をお楽しみください!
ちゃっぴー
恋愛
「ラーニャ、貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーの真っ最中、ナルシストな第一王子ウィルフレッドに身に覚えのない罪で断罪された公爵令嬢ラーニャ。しかし、彼女はショックを受けるどころか、優雅に微笑んで拍手を送った。
なぜなら、ラーニャはとっくに王子の無能さに愛想を尽かし、この日のために完璧な「撤退準備」を進めていたからだ。
『お前の顔は見飽きた!』内心ガッツポーズで辺境へ
夏乃みのり
恋愛
「リーナ・フォン・アトラス! 貴様との婚約を破棄する!」
華やかな王宮の夜会で、第一王子ジュリアンに突きつけられた非情な宣告。冤罪を被せられ、冷酷な悪役令嬢として追放を言い渡されたリーナだったが、彼女の内心は……「やったーーー! これでやっとトレーニングに専念できるわ!」と歓喜に震えていた!
婚約破棄された王太子妃候補は第一王子に気に入られたようです。
永野水貴
恋愛
侯爵令嬢エヴェリーナは未来の王太子妃として育てられたが、突然に婚約破棄された。
王太子は真に愛する女性と結婚したいというのだった。
その女性はエヴェリーナとは正反対で、エヴェリーナは影で貶められるようになる。
そんなある日、王太子の兄といわれる第一王子ジルベルトが現れる。
ジルベルトは王太子を上回る素質を持つと噂される人物で、なぜかエヴェリーナに興味を示し…?
※「小説家になろう」にも載せています
『処刑されるたびに12歳に戻る悪役令嬢、7回目の人生は「何もせず寝て過ごす」ことに決めたら、なぜか周囲が勝手に勘違いして聖女扱いされています
六角
恋愛
公爵令嬢リリアーナは、18歳の誕生日に必ず断罪・処刑されては12歳に戻るという地獄のループを6回も繰り返していた。 真面目に努力しても、剣を極めても、裏社会を支配しても、結局は殺される運命。 心折れた彼女は、7回目の人生でついに決意する。 「もう頑張らない。どうせ死ぬなら、今回はひたすら寝て過ごそう」と。
しかし、安眠を求めて「うるさい」と敵を黙らせれば『王者の覇気』と恐れられ、寝ぼけて放った魔法は『神の奇跡』と崇められ、枕への異常なこだわりは『深遠なる儀式』と誤解されてしまう。 気がつけば、ストーカー気味のヤンデレ王子、パン屋の元ヒロイン、狂犬の如きライバル令嬢、元部下の暗殺者、そして不眠症の魔王までもが彼女の信者となり、リリアーナは意図せずして国を、そして世界を救う「最強の聖女」へと祭り上げられていく。
「お願いだから、私を寝かせて!」 睡眠欲だけで運命(システム)さえもねじ伏せる、無気力悪役令嬢の痛快勘違いサクセス(?)ストーリー!
【完結】悪役令嬢は断罪後、物語の外で微笑む
あめとおと
恋愛
断罪され、国外追放となった悪役令嬢エレノア。
けれど彼女は、泣かなかった。
すべてを失ったはずのその瞬間、彼女を迎えに来たのは、
隣国最大商会の会頭であり、“共犯者”の青年だった。
これは、物語の舞台を降りた悪役令嬢が、
自由と恋、そして本当の幸せを手に入れるまでの、
ざまぁと甘さを少しだけ含んだショートショート。
王子好きすぎ拗らせ転生悪役令嬢は、王子の溺愛に気づかない
エヌ
恋愛
私の前世の記憶によると、どうやら私は悪役令嬢ポジションにいるらしい
最後はもしかしたら全財産を失ってどこかに飛ばされるかもしれない。
でも大好きな王子には、幸せになってほしいと思う。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる