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「……閣下、あちらの木陰に潜んでいる不審な影は、我が公爵邸の警備に捕らえた方がよろしいかしら? それとも、あのように必死な目で見つめられると、何かの新種の食材かと勘違いしてしまいますわ」
公爵邸の広大なテラスで、イザバラは午後のティータイムを楽しんでいた。
目の前には、サクサクのパイ生地に濃厚なカスタードと季節の果実を乗せた、特製の『ミルフィーユ・ド・イザバラ』。
リュカは、手元の書類から目を上げ、彼女が指差す先を一瞥した。
「……放っておけと言いたいところだが、あれは我が家の警備を潜り抜けたのではなく、最初から私に『話がある』と泣きついてきた男だ」
「あら、閣下に? それは珍しいことですわね」
「いや、正確には君にだ。……おい、出てきたらどうだ。このままでは彼女が君を煮込み料理の具材に指定しかねんぞ」
リュカの呼びかけに応じるように、茂みから一人の男が這い出してきた。
使い古されたボロボロの外套に身を包んでいるが、その下から覗く白い衣と、立派なコック帽――を隠そうとして無理やり押し込んだ形跡のある帽子。
「……王宮料理長、ベルナール様ではありませんか」
イザバラは、ティーカップを置いて優雅に微笑んだ。
かつて王宮で彼女の厳しい(しかし的確な)批評に何度も涙を流した、王宮厨房の最高責任者である。
「イザバラ様……っ! ああ、イザバラ様! どうか、どうか我ら王宮の料理人たちをお救いください!」
ベルナールは、公爵邸の芝生に膝をつき、まるで女神に祈るかのように手を合わせた。
「まあ、大袈裟な。私を追い出したのは殿下ですわよ? 私は今、こちらの閣下の元で、人生で最も充実した『胃袋の休日』を過ごしておりますの。王宮の不味いスープのことなど、もう一滴も覚えておりませんわ」
「そこをなんとか! 殿下が……ジュリアン殿下が、もう限界なのです! あの方が、昨夜ついに夜食を求めて厨房に忍び込み、生のリネンのナプキンを噛み締めていらっしゃったのを見て、私は……私は職人としての理性が崩壊いたしました!」
「……ナプキンを? それはまた、殿下にしては前衛的な食事ですわね」
イザバラは、扇で口元を隠しながらオホホと笑った。
「すべては、あのカトリーヌ様です! あの方が提案される『真実の美しさを引き出す聖なる食事』のせいで、厨房からはバターが没収され、塩は『悪魔の石』として禁じられ、今や使えるのは得体の知れない野草と、冷たい水だけなのです!」
「……塩まで禁止? それはもう、料理ではなく修行の域ですわね」
リュカが呆れたように口を挟んだ。
彼にとっても、塩のない食卓など地獄と同義である。
「我々シェフ一同、誇りを持って殿下にお仕えしてまいりました。ですが、殿下が日に日に痩せ細り、瞳から光が消え、昨日はカトリーヌ様が持ってきた『栄養たっぷりの泥茶』を前にして、『私は、私はただの人間として、あの黄金色に焼けたパンが食べたいんだ……』と咽び泣いていらっしゃいました!」
ベルナールの訴えは、もはや悲鳴だった。
「イザバラ様、貴方様なら……貴方様なら、あのカトリーヌ様の目を盗んで、殿下の胃袋に『正気』を取り戻させる料理を届けることができるはずです。どうか、極秘に『炊き出し』をお願いできませんでしょうか!」
イザバラは、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の背後に、夕日が差してドラマチックな影を作る。
「ベルナール様。私は、自分を捨てた男のために料理を作るほど、お人好しではありませんわ」
「そ、そんな……っ!」
「ですが。……料理人が、その才能を『健康という名の暴力』によって封じられ、美味しいものを食べたいという純粋な願いが踏みにじられるのは、美食の女神が許しませんわ」
イザバラは、リュカの方を振り返った。
「閣下。私、少しばかり『王宮の庭』へピクニックに行きたくなりましたわ。もちろん、特製の、最高に身体に悪くて最高に美味しい、背徳のバスケットを持って」
「……ふ。君がそう言うと思ったよ。許可しよう。……ただし、私の分も忘れるなよ?」
「もちろんですわ! ベルナール様、準備なさい。今夜、王宮の裏門で会いましょう。……カトリーヌ様が推奨する『聖なる食事』とやらを、脂ギトギトの快楽で上書きして差し上げますわ!」
イザバラの瞳に、悪役令嬢らしい(?)不敵な光が宿った。
その頃、王宮の自室では――。
「……はは……。あの雲、なんだか巨大なクロワッサンに見えるな……。あっちの雲は、温かいポタージュだ……」
ジュリアン王太子が、バルコニーの手すりに掴まりながら、虚空を指差して笑っていた。
「殿下、何を仰っているのですか? ほら、今夜も特製の『蒸した木の根』が届きましたわよ。これをよく噛んで、宇宙のエネルギーを感じてくださいませ」
カトリーヌが、皿に乗った茶色の物体を差し出す。
「…………ああ……。イザバラ……。君の……君のあの、口喧しい『ソースへの小言』が……世界で一番美しい愛の言葉だったんだ……」
王太子の頬を、一筋の涙が伝い落ちた。
彼の心と胃袋は、今まさに、救済を求めて限界の悲鳴を上げていた。
公爵邸の広大なテラスで、イザバラは午後のティータイムを楽しんでいた。
目の前には、サクサクのパイ生地に濃厚なカスタードと季節の果実を乗せた、特製の『ミルフィーユ・ド・イザバラ』。
リュカは、手元の書類から目を上げ、彼女が指差す先を一瞥した。
「……放っておけと言いたいところだが、あれは我が家の警備を潜り抜けたのではなく、最初から私に『話がある』と泣きついてきた男だ」
「あら、閣下に? それは珍しいことですわね」
「いや、正確には君にだ。……おい、出てきたらどうだ。このままでは彼女が君を煮込み料理の具材に指定しかねんぞ」
リュカの呼びかけに応じるように、茂みから一人の男が這い出してきた。
使い古されたボロボロの外套に身を包んでいるが、その下から覗く白い衣と、立派なコック帽――を隠そうとして無理やり押し込んだ形跡のある帽子。
「……王宮料理長、ベルナール様ではありませんか」
イザバラは、ティーカップを置いて優雅に微笑んだ。
かつて王宮で彼女の厳しい(しかし的確な)批評に何度も涙を流した、王宮厨房の最高責任者である。
「イザバラ様……っ! ああ、イザバラ様! どうか、どうか我ら王宮の料理人たちをお救いください!」
ベルナールは、公爵邸の芝生に膝をつき、まるで女神に祈るかのように手を合わせた。
「まあ、大袈裟な。私を追い出したのは殿下ですわよ? 私は今、こちらの閣下の元で、人生で最も充実した『胃袋の休日』を過ごしておりますの。王宮の不味いスープのことなど、もう一滴も覚えておりませんわ」
「そこをなんとか! 殿下が……ジュリアン殿下が、もう限界なのです! あの方が、昨夜ついに夜食を求めて厨房に忍び込み、生のリネンのナプキンを噛み締めていらっしゃったのを見て、私は……私は職人としての理性が崩壊いたしました!」
「……ナプキンを? それはまた、殿下にしては前衛的な食事ですわね」
イザバラは、扇で口元を隠しながらオホホと笑った。
「すべては、あのカトリーヌ様です! あの方が提案される『真実の美しさを引き出す聖なる食事』のせいで、厨房からはバターが没収され、塩は『悪魔の石』として禁じられ、今や使えるのは得体の知れない野草と、冷たい水だけなのです!」
「……塩まで禁止? それはもう、料理ではなく修行の域ですわね」
リュカが呆れたように口を挟んだ。
彼にとっても、塩のない食卓など地獄と同義である。
「我々シェフ一同、誇りを持って殿下にお仕えしてまいりました。ですが、殿下が日に日に痩せ細り、瞳から光が消え、昨日はカトリーヌ様が持ってきた『栄養たっぷりの泥茶』を前にして、『私は、私はただの人間として、あの黄金色に焼けたパンが食べたいんだ……』と咽び泣いていらっしゃいました!」
ベルナールの訴えは、もはや悲鳴だった。
「イザバラ様、貴方様なら……貴方様なら、あのカトリーヌ様の目を盗んで、殿下の胃袋に『正気』を取り戻させる料理を届けることができるはずです。どうか、極秘に『炊き出し』をお願いできませんでしょうか!」
イザバラは、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の背後に、夕日が差してドラマチックな影を作る。
「ベルナール様。私は、自分を捨てた男のために料理を作るほど、お人好しではありませんわ」
「そ、そんな……っ!」
「ですが。……料理人が、その才能を『健康という名の暴力』によって封じられ、美味しいものを食べたいという純粋な願いが踏みにじられるのは、美食の女神が許しませんわ」
イザバラは、リュカの方を振り返った。
「閣下。私、少しばかり『王宮の庭』へピクニックに行きたくなりましたわ。もちろん、特製の、最高に身体に悪くて最高に美味しい、背徳のバスケットを持って」
「……ふ。君がそう言うと思ったよ。許可しよう。……ただし、私の分も忘れるなよ?」
「もちろんですわ! ベルナール様、準備なさい。今夜、王宮の裏門で会いましょう。……カトリーヌ様が推奨する『聖なる食事』とやらを、脂ギトギトの快楽で上書きして差し上げますわ!」
イザバラの瞳に、悪役令嬢らしい(?)不敵な光が宿った。
その頃、王宮の自室では――。
「……はは……。あの雲、なんだか巨大なクロワッサンに見えるな……。あっちの雲は、温かいポタージュだ……」
ジュリアン王太子が、バルコニーの手すりに掴まりながら、虚空を指差して笑っていた。
「殿下、何を仰っているのですか? ほら、今夜も特製の『蒸した木の根』が届きましたわよ。これをよく噛んで、宇宙のエネルギーを感じてくださいませ」
カトリーヌが、皿に乗った茶色の物体を差し出す。
「…………ああ……。イザバラ……。君の……君のあの、口喧しい『ソースへの小言』が……世界で一番美しい愛の言葉だったんだ……」
王太子の頬を、一筋の涙が伝い落ちた。
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