婚約破棄されましたが、それよりシェフを呼んでください。

鏡おもち

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「……閣下、この格好は少々やりすぎではありませんこと?」

月明かりが照らす王宮の裏森。
イザバラは、全身を漆黒の密偵服――に似せた、しかし特注のシルク製で動きやすさを追求した夜間作業着に包んでいた。

背負っているのは、グランシエル公爵邸の厨房が持てる技術の粋を集めて作り上げた、保冷・保温機能完備の「特製ピクニックバスケット」である。

「隠密行動の基本だろう。もっとも、君から漂うガーリックとバターの香りが、この森のどの花よりも主張が激しいのが計算違いだったがな」

隣に立つリュカもまた、目立たない黒の外套を纏っている。
彼はただの見届け人のつもりだったが、イザバラが「一人でこの重いバスケットを抱えて、もし転んでソースが漏れたらどうしますの!」と詰め寄ったため、同行を余儀なくされていた。

「仕方がありませんわ。香りの立たない料理など、魂の抜けた人形と同じ。……さあ、ベルナール様、手はず通りにお願いしますわね」

裏門の陰から、怯えた様子の王宮料理長ベルナールが顔を出した。
彼は震える手で鍵を開け、二人を王宮の厨房へと招き入れた。

「イザバラ様……! お待ちしておりました。今、殿下は礼拝堂でカトリーヌ様と共に『深夜の浄化瞑想』を行っております。あと十分もすれば、空腹でふらつきながら自室へ戻られるはずです」

「十分あれば十分ですわ。さあ、閣下、バスケットを開封なさい!」

イザバラが命じると、リュカが重厚な蓋を開いた。
その瞬間、厨房という名の静寂に、圧倒的な「悪の香り」が解き放たれた。

「これは……まさか、ベーコンですかな!? それも、この厚み!」

ベルナールが、禁断の果実を見るような目でバスケットを覗き込んだ。

「ええ、ただのベーコンではありませんわ。最高級の豚バラ肉を、三日三晩蜂蜜とハーブで漬け込み、桜のチップで燻製にしたものです。それをさらに、バターでじっくりと揚げ焼きにいたしました」

イザバラは手際よく、バスケットから「それ」を取り出した。
厚切りにした自家製パンに、たっぷりの背徳的なソースを塗り、その上にカリカリのベーコンと、とろける三種のチーズを惜しみなく乗せた『トリプルチーズ・ベーコン・メルト・サンド』である。

「さらに、これを見てくださいませ。カトリーヌ様が忌み嫌う『禁断の油』……牛脂(ヘッド)で二度揚げしたフライドポテトですわ! これに特製のトリュフ塩を振りかければ、殿下の理性など一瞬で塵に帰ります」

「おお……おおお……! これぞ、我ら料理人が夢にまで見た『欲望の権化』……!」

ベルナールが感極まって涙を流していると、廊下から力ない足音が聞こえてきた。

「……はぁ……。お腹が……お腹と背中が、もうくっついて離れないんだ……。カトリーヌ、せめて……せめてお湯に少しだけ、塩を入れさせてはくれないか……」

ジュリアン王太子の、幽霊のような声だ。
彼はカトリーヌに支えられ(というより、逃げられないように捕らえられ)、厨房の前を通りかかろうとしていた。

その時である。
ジュリアンの鼻腔を、鋭い一撃が襲った。

「……っ!? な、なんだ……この、暴力的なまでに芳醇な、脂の香りは……!」

「あら殿下、どうなさいました? これはきっと、貴方の心が汚れ、幻臭を感じているのですわ。さあ、自室に戻って『冷たい泥水』を飲んで寝ましょうね」

「違う! これは幻ではない! 私の胃袋が……私の胃袋が、この香りの方へ行けと、全速力で叫んでいるんだ!」

ジュリアンは、カトリーヌの手を振り払い、猛然と厨房へ飛び込んできた。

「殿下、お待ちください! 不浄な場所に近づいてはいけませんわ!」

カトリーヌが追ってくる。
イザバラは不敵に微笑み、完成したサンドイッチを高く掲げた。

「お久しぶりですわ、殿下。夜食の炊き出しに参りました」

「イ、イザバラ!? なぜ君がここに……。いや、それよりもその手に持っている『黄金に輝く物体』はなんだ!? なぜそんなに、暴力的なまでに美しく光っているんだ!」

「これかしら? これは、殿下が『下品だ』と仰って切り捨てた、脂と塩と情熱の結晶ですわ。さあ、カトリーヌ様が来る前に、一気にお召し上がりになって!」

ジュリアンは、もはや躊躇わなかった。
彼はイザバラの手からサンドイッチを奪い取ると、大きな口を開けてかぶりついた。

サクッ……。ジュワァ……。

「……っ!!」

ジュリアンの目から、大粒の涙が溢れ出した。

「う……うまい……! なんだこれは、噛むたびに脂が溢れ、チーズが舌を抱擁し、パンの甘みが全てを包み込んでいく……! ああ、私は……私は、生きていたんだ! 生きていて良かったんだぁぁぁ!」

「殿下!? 何を食べていらっしゃるのですか! そんな汚らわしいもの、今すぐ吐き出してくださいませ!」

駆け込んできたカトリーヌが、ジュリアンの手元を見て悲鳴を上げた。
だが、今のジュリアンには、彼女の声などハエの羽音も同然だった。

「黙れ、カトリーヌ! 私は……私はもう、泥水とハーブティーだけの『美しき王太子』には戻らん! 私は……私は脂を愛する、一人の男に戻るんだ!」

「なんですって……!?」

カトリーヌの顔が、怒りで真っ赤に染まる。
それを見たイザバラは、優雅に扇を広げた。

「オホホホ! カトリーヌ様、貴方の『健康という名の支配』も、本物の美食の前では無力ですわ。殿下、ポテトもございますわよ。こちらは牛の脂で揚げてありますの」

「牛の脂! なんて素晴らしい響きだ! もっとくれ、イザバラ! 私に、もっと背徳を流し込んでくれ!」

深夜の厨房で、王太子がサンドイッチを貪り食うという前代未聞の光景。
それを、リュカ公爵は呆れたように、しかしどこか満足げに眺めていた。

「……さて、カトリーヌ様。殿下の目が、ようやく『正気』に戻られたようですわね。貴方の次の献立は、何にいたしますの? まさか、石ころでも煮込んで出すおつもりかしら?」

イザバラの勝利宣言が、王宮の闇を明るく照らした。
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