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王宮の正門を、一人の男が魂の抜けた足取りで潜っていった。
かつては「王国の若き太陽」と称えられた王太子ジュリアン。しかし現在の彼は、太陽というよりは、一週間ほど放置されて萎びたレタスのような哀愁を漂わせている。
「……桃。あの、氷の刃のように冷たく、しかし聖母の抱擁のように甘い桃……」
ジュリアンの口からは、うわ言のように同じ言葉が繰り返されていた。
氷室で味わったイザバラの「絶望のデザート」。
その味の記憶は、彼の味覚中枢に深々と刻み込まれ、もはや他のいかなる食物も受け付けない体へと作り変えてしまっていた。
「殿下! ああ、殿下! どこへ行かれていたのですか!」
廊下の向こうから、カトリーヌがフリルの付いたエプロン姿で駆け寄ってきた。
彼女の手には、今日も今日とて「健康に良さそうな色」をしていない何かが入った木椀が握られている。
「カトリーヌ……。私は、私はもうダメだ。あの桃を食べてからというもの、私の胃袋が、この世の全ての食材に対して『偽物だ』と叫んでいるんだ」
「何を仰っているのですか、殿下! それはきっと、あの邪悪な令嬢が食べ物に呪いをかけたに違いありませんわ。さあ、こちらを召し上がって。特製の『魂を浄化する根菜のどぶ煮』です。今日は特別に、森で見つけた苦い苔もトッピングしておきましたわ!」
ジュリアンは、その「どぶ煮」を虚ろな目で見つめた。
以前なら、カトリーヌの笑顔のために無理をして飲み込んでいたかもしれない。
しかし、今の彼には、その茶色の液体が「単なる泥水」にしか見えなかった。
「……いらん」
「え?」
「いらんと言っているんだ! 誰が好んで苔など食うか! 私は、私は人間だ! 土を食らうミミズではないんだぁぁぁ!」
ジュリアンの咆哮が廊下に響き渡り、カトリーヌの手から木椀が滑り落ちた。
床に広がった茶色の液体から、何とも言えない「湿った土」の匂いが立ち上る。
「で、殿下……? 私に向かって、そんな……」
「ベルナール! ベルナールはどこだ! あいつに伝えろ、今すぐ肉を焼けと! バターの川に溺れたような、ギトギトの肉を持ってこい! さもなければ私は今すぐこの王宮の柱をかじり始めるぞ!」
狂乱する王太子を前に、カトリーヌは震えながらも、その瞳の奥にどす黒い炎を宿した。
「……イザバラ様。貴女、そこまでして殿下を……。よろしいですわ。そこまで料理で勝負したいというのなら、私にだって考えがありますわよ!」
一方その頃、グランシエル公爵邸の最上階。
イザバラは、リュカと共に「祝杯」を上げていた。
「……閣下、このシャンパン、少し温度が高いわね。あと二度下げて。気泡の立ち上がりが、私の気まぐれな心についてこれていないわ」
「君の気まぐれに付き合わされる泡の身にもなってみろ」
リュカは呆れながらも、氷水を入れたクーラーを微調整した。
イザバラは、冷えたグラスを揺らしながら、窓の外に広がる王都の夜景を見下ろす。
「殿下のあの顔、見ましたこと? 最高に滑稽でしたわ。絶品を一口だけ与えられ、残りを永遠に奪われる屈辱。これこそが、食への愛を忘れた男に相応しい断罪ですわね」
「全くだ。……だがイザバラ、殿下が立ち直れないほど絶望したことで、王宮内では妙な動きがあるようだ。カトリーヌ嬢が、王立美食ギルドの重鎮たちを味方につけようとしている」
「美食ギルド? あの方たち、伝統という名のアスファルトで固められたような、保守的な老人たちの集まりではありませんこと?」
イザバラは、興味なさそうにフォアグラのムースをクラッカーに乗せた。
「ああ。だが、彼女はそこに『健康長寿』という甘い餌を撒いた。老い先短い重鎮たちにとって、美味いものよりも『死なない食事』は魅力的なのだろう。……近々、王宮で『真実の食を問う大博覧会』が開催されるらしい」
「博覧会? オホホホ! それは面白いですわ。不味い健康食を並べて、老いぼれたちを慰める会ですのね」
「いや。……その博覧会の最後には、王宮専属料理人の座を賭けた『御前試合(コンテスト)』が行われる。カトリーヌは、君をそこへ引きずり出すつもりらしいぞ。君がリュカ公爵家の名前を汚していると触れ回ってな」
イザバラの手が、ピタリと止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、冷徹な微笑をリュカに向けた。
「……私の名前を汚す? いいえ、それは許せますわ。ですが、私の『美食』を不味い泥茶の踏み台にしようというのなら、それは万死に値しますわね」
イザバラは立ち上がり、ドレスの裾を翻した。
「閣下。私、その博覧会に参加いたしますわ。カトリーヌ様が推奨する『健康食』とやらが、いかに人間の食欲を冒涜しているか……その舌に直接叩き込んで差し上げますわ!」
「……そう来ると思ったよ。準備は、私の権力と財力で全て整えておこう」
「助かりますわ。……さあ、まずはコンテストのメニューを練らなくては。健康と美味しさの両立? そんな生温いことはいたしません。私は『食べれば食べるほど命が燃え上がるような、禁断の薬膳』をお見せしますわよ!」
イザバラの瞳は、獲物を狙う大鷲のように鋭く輝いた。
彼女の戦いは、単なる復讐を超え、今や「世界の味覚の正義」を守るための聖戦へと変貌しようとしていた。
その頃、カトリーヌは怪しげな薬師の元を訪れていた。
「……いいわ。どんなに苦くても、どんなに不味くても構わない。それを食べた瞬間に、脳が麻痺して『美味しい』と錯覚するような、究極の野草を寄越しなさい!」
悪役令嬢と偽聖女。
二人の女の「食」を巡る意地とプライドが、王都全土を巻き込む大騒動へと発展していく。
かつては「王国の若き太陽」と称えられた王太子ジュリアン。しかし現在の彼は、太陽というよりは、一週間ほど放置されて萎びたレタスのような哀愁を漂わせている。
「……桃。あの、氷の刃のように冷たく、しかし聖母の抱擁のように甘い桃……」
ジュリアンの口からは、うわ言のように同じ言葉が繰り返されていた。
氷室で味わったイザバラの「絶望のデザート」。
その味の記憶は、彼の味覚中枢に深々と刻み込まれ、もはや他のいかなる食物も受け付けない体へと作り変えてしまっていた。
「殿下! ああ、殿下! どこへ行かれていたのですか!」
廊下の向こうから、カトリーヌがフリルの付いたエプロン姿で駆け寄ってきた。
彼女の手には、今日も今日とて「健康に良さそうな色」をしていない何かが入った木椀が握られている。
「カトリーヌ……。私は、私はもうダメだ。あの桃を食べてからというもの、私の胃袋が、この世の全ての食材に対して『偽物だ』と叫んでいるんだ」
「何を仰っているのですか、殿下! それはきっと、あの邪悪な令嬢が食べ物に呪いをかけたに違いありませんわ。さあ、こちらを召し上がって。特製の『魂を浄化する根菜のどぶ煮』です。今日は特別に、森で見つけた苦い苔もトッピングしておきましたわ!」
ジュリアンは、その「どぶ煮」を虚ろな目で見つめた。
以前なら、カトリーヌの笑顔のために無理をして飲み込んでいたかもしれない。
しかし、今の彼には、その茶色の液体が「単なる泥水」にしか見えなかった。
「……いらん」
「え?」
「いらんと言っているんだ! 誰が好んで苔など食うか! 私は、私は人間だ! 土を食らうミミズではないんだぁぁぁ!」
ジュリアンの咆哮が廊下に響き渡り、カトリーヌの手から木椀が滑り落ちた。
床に広がった茶色の液体から、何とも言えない「湿った土」の匂いが立ち上る。
「で、殿下……? 私に向かって、そんな……」
「ベルナール! ベルナールはどこだ! あいつに伝えろ、今すぐ肉を焼けと! バターの川に溺れたような、ギトギトの肉を持ってこい! さもなければ私は今すぐこの王宮の柱をかじり始めるぞ!」
狂乱する王太子を前に、カトリーヌは震えながらも、その瞳の奥にどす黒い炎を宿した。
「……イザバラ様。貴女、そこまでして殿下を……。よろしいですわ。そこまで料理で勝負したいというのなら、私にだって考えがありますわよ!」
一方その頃、グランシエル公爵邸の最上階。
イザバラは、リュカと共に「祝杯」を上げていた。
「……閣下、このシャンパン、少し温度が高いわね。あと二度下げて。気泡の立ち上がりが、私の気まぐれな心についてこれていないわ」
「君の気まぐれに付き合わされる泡の身にもなってみろ」
リュカは呆れながらも、氷水を入れたクーラーを微調整した。
イザバラは、冷えたグラスを揺らしながら、窓の外に広がる王都の夜景を見下ろす。
「殿下のあの顔、見ましたこと? 最高に滑稽でしたわ。絶品を一口だけ与えられ、残りを永遠に奪われる屈辱。これこそが、食への愛を忘れた男に相応しい断罪ですわね」
「全くだ。……だがイザバラ、殿下が立ち直れないほど絶望したことで、王宮内では妙な動きがあるようだ。カトリーヌ嬢が、王立美食ギルドの重鎮たちを味方につけようとしている」
「美食ギルド? あの方たち、伝統という名のアスファルトで固められたような、保守的な老人たちの集まりではありませんこと?」
イザバラは、興味なさそうにフォアグラのムースをクラッカーに乗せた。
「ああ。だが、彼女はそこに『健康長寿』という甘い餌を撒いた。老い先短い重鎮たちにとって、美味いものよりも『死なない食事』は魅力的なのだろう。……近々、王宮で『真実の食を問う大博覧会』が開催されるらしい」
「博覧会? オホホホ! それは面白いですわ。不味い健康食を並べて、老いぼれたちを慰める会ですのね」
「いや。……その博覧会の最後には、王宮専属料理人の座を賭けた『御前試合(コンテスト)』が行われる。カトリーヌは、君をそこへ引きずり出すつもりらしいぞ。君がリュカ公爵家の名前を汚していると触れ回ってな」
イザバラの手が、ピタリと止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、冷徹な微笑をリュカに向けた。
「……私の名前を汚す? いいえ、それは許せますわ。ですが、私の『美食』を不味い泥茶の踏み台にしようというのなら、それは万死に値しますわね」
イザバラは立ち上がり、ドレスの裾を翻した。
「閣下。私、その博覧会に参加いたしますわ。カトリーヌ様が推奨する『健康食』とやらが、いかに人間の食欲を冒涜しているか……その舌に直接叩き込んで差し上げますわ!」
「……そう来ると思ったよ。準備は、私の権力と財力で全て整えておこう」
「助かりますわ。……さあ、まずはコンテストのメニューを練らなくては。健康と美味しさの両立? そんな生温いことはいたしません。私は『食べれば食べるほど命が燃え上がるような、禁断の薬膳』をお見せしますわよ!」
イザバラの瞳は、獲物を狙う大鷲のように鋭く輝いた。
彼女の戦いは、単なる復讐を超え、今や「世界の味覚の正義」を守るための聖戦へと変貌しようとしていた。
その頃、カトリーヌは怪しげな薬師の元を訪れていた。
「……いいわ。どんなに苦くても、どんなに不味くても構わない。それを食べた瞬間に、脳が麻痺して『美味しい』と錯覚するような、究極の野草を寄越しなさい!」
悪役令嬢と偽聖女。
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