婚約破棄されましたが、それよりシェフを呼んでください。

鏡おもち

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「……閣下。覚悟はよろしくて? これから貴方の血管の中を、沸騰した溶岩が駆け巡ることになりますわ」

グランシエル公爵邸の秘密の実験室、もとい特別厨房。
イザバラは、怪しげに赤黒い蒸気を立ち上げる小鍋を前に、魔女のような微笑を浮かべていた。

彼女の傍らには、見たこともないほど巨大で、表面が龍の鱗のようにゴツゴツとした赤い根菜が置かれている。
それこそが、今回の博覧会のためにイザバラが秘密裏に手配した伝説の食材、「紅蓮生姜(ぐれんしょうが)」であった。

「血管を溶岩が、か。……君の料理は、もはや食事というよりは攻撃魔法に近いな」

リュカは、すでに上着を脱ぎ捨て、ワイシャツの袖を捲り上げていた。
室内の温度は、イザバラが煮込んでいるスープの熱気によって、サウナのように上昇している。

「失礼な。これは『救済』ですわよ。カトリーヌ様が提供する、魂を枯らすような泥茶への対抗策……食べ終えた瞬間に、全身の細胞が『生きたい!』と叫び出し、明日の活力のために胃袋が猛り狂う……。これぞ真の健康食、命の薬膳ですわ!」

イザバラは、小鍋の中に黄金色の鶏出汁を注ぎ込んだ。
瞬間、紅蓮生姜のエキスと混ざり合い、真っ赤な液体が鮮やかな琥珀色へと変色していく。
そこへ、干した高麗人参、ナツメ、クコの実、そして秘蔵の「火龍のスパイス」を惜しみなく投入した。

「さあ、閣下。毒見……いえ、試食のお時間ですわ。これを飲んで、貴方の冷徹な心臓を叩き起こして差し上げます!」

差し出されたスープ皿には、食欲をそそる芳醇な香りと、目に見えるほどの熱量が閉じ込められていた。
リュカは覚悟を決め、スプーンで一口、その琥珀色の液体を掬った。

「……っ!!」

口に入れた瞬間、リュカの瞳がカッと見開かれた。
最初にやってきたのは、鶏の旨みとハーブの爽やかな香り。だがその直後、文字通り「爆発」が起きた。

喉を通り過ぎた瞬間、内臓の奥底から猛烈な熱が沸き上がり、指先や足の先まで電撃のような刺激が駆け抜ける。
あまりの衝撃に、リュカはテーブルに手をつき、荒い息を吐いた。

「どうかしら、閣下? 内側から焼き尽くされるような、この心地よい快楽は!」

「……はぁ、はぁ……。凄いな。……辛いのではない。これは、文字通り『熱』だ。……だが、不思議と嫌な感じはしない。むしろ、溜まっていた疲れが、この熱と共に体外へ押し出されていくような……」

リュカの額からは、滝のような汗が流れ落ちていた。
しかし、その表情は驚くほどに明るく、瞳には野生的な活力が漲っている。

「これが私の答えですわ。不味いものを我慢して食べるのが健康ではありません。美味しいものを、その極限まで高めて摂取し、生命の燃焼を加速させる。……これこそが、カトリーヌ様の『静止する不健康』を打ち破る、私の『躍動する美食』ですわ!」

イザバラは高らかに笑い、自分の分を豪快に飲み干した。
彼女の頬も瞬時に赤らみ、全身から湯気が立ち上る。

「オホホホ! 素晴らしいわ! これなら、あのやつれ果てた殿下も、一口で『おかわり!』と叫んで立ち上がるはずですわよ!」

その頃、王宮の隠し部屋では――。

「……見てなさい、イザバラ様。貴女がいくら『美味しいもの』を作ろうと、私のこの『聖なる沈黙草』の前では無力ですわ」

カトリーヌは、すり鉢で青白い草をすり潰していた。
それは、微量ならば心を落ち着かせる効果があるが、大量に摂取すれば味覚を麻痺させ、意識を朦朧とさせる禁断の野草。

「これを食べれば、誰もが『私の泥茶こそが最高だ』と盲信することになりますわ。……美食ギルドの老人たちも、殿下も、みんな私の人形にして差し上げますの。オホホホ……!」

カトリーヌの背後には、かつて美食を極めたはずのギルドの老人たちが、虚ろな目で彼女の差し出す「青い水」を啜っていた。
彼らはもはや、何が美味しいのかさえ思い出せないほど、カトリーヌの「健康支配」に浸食されていたのである。

「博覧会当日が楽しみですわね……。イザバラ様、貴女の『脂ぎった暴力』が、私の『清らかな無』に敗れ去る瞬間を!」

対照的な二人。
「命を燃やす紅蓮の薬膳」と「心を殺す蒼白の泥茶」。
王都の未来を決める美食博覧会は、もはや単なる料理コンテストではなく、魂の存亡を懸けた戦いへと突き進もうとしていた。

「閣下、もう一杯いかが? 次は、この紅蓮生姜を効かせた『黒豚の角煮』を合わせますわよ。脂の甘みが熱を包み込み、もはや神の領域に辿り着けますわ!」

「……ああ、付き合おう。……この熱さが、これほどまでに癖になるとは思わなかったな」

汗だくのリュカが、満足げに微笑む。
イザバラの「背徳の健康食」は、まずは目の前の公爵を完全に虜にしたのであった。
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