婚約破棄されましたが、それよりシェフを呼んでください。

鏡おもち

文字の大きさ
16 / 28

16

しおりを挟む
「イザバラ! 待ってくれ、イザバラ! 私の……私の女神よ!」

美食博覧会の興奮冷めやらぬ広場。
そこには、紅蓮の薬膳スープで驚異的な回復を遂げたジュリアン王太子が、全速力で馬車へ向かうイザバラを追いかけていた。

その足取りは、数時間前までの「幽霊のような歩行」が嘘のように力強く、むしろ力が有り余って地面を蹴り上げている。

「……閣下。あの背後から迫る暑苦しい気配、どうにかなりませんこと? せっかくの祝勝会の予定が、雑味で汚されてしまいますわ」

イザバラは、馬車のステップに足をかけたまま、不機嫌そうに肩越しに振り返った。

「私に言うな。君が劇薬のような薬膳を飲ませるから、あんなに元気になってしまったんだろう。……自業自得だ」

隣でリュカが、他人事のように銀の杖を弄びながら答える。

「イザバラ! ああ、君はやはり最高だ! カトリーヌに惑わされていた私を許してくれ。君のあの、脂ぎった……いや、情熱溢れる角煮のおかげで、私の魂は真実の愛に目覚めたんだ!」

ジュリアンが息を切らして馬車に縋り付く。
その瞳はキラキラと輝いているが、イザバラの瞳には「迷惑な大型犬」程度にしか映っていない。

「殿下。愛だの魂だの、そんな抽象的な言葉で私の貴重なディナーの時間を奪わないでいただけます? 今から私は、閣下と王都随一の老舗、『真紅の牛亭』で十キロのローストビーフを予約しておりますの」

「じ、十キロ!? それを二人で食べるのか!?」

「いいえ、私が八キロ、閣下が二キロですわ。さあ、邪魔ですわよ。ソースの仕上がりに影響が出たら、殿下と言えどフォークで突き刺しますわよ?」

「ひっ……! そ、そんな冷たいところも素敵だ……。だが、私も行く! 王太子として、君の勝利を祝う義務がある!」

「お断りいたしますわ。殿下のような『味覚の浮気者』に、神聖なローストビーフの端肉(はしにく)すら与えるつもりはございません。……セバス、出しなさい!」

イザバラの冷酷な宣言と共に、馬車が急発進した。
「イザバラぁぁぁ!」という王太子の叫び声が遠ざかっていくが、彼女はすでに手元のメニュー表に夢中だった。

三十分後。
王都の喧騒から少し離れた場所にある、蔦の絡まるレンガ造りの名店。
『真紅の牛亭』の特別個室で、イザバラはついに「それ」と対面した。

「……おお……。これですわ。これこそが、勝利の象徴……」

運ばれてきたのは、巨大な木製のトレイに乗った、文字通り「肉の塊」だった。
表面は数種類のハーブと黒胡椒で黒々と覆われ、オーブンで長時間じっくりと焼き上げられたことで、芳醇な肉の脂が表面でパチパチと踊っている。

「お待ちしておりました、イザバラ様。本日、貴女様のために、領地で最も健康に育った牛の、最も希少な部位を用意いたしました」

料理長が、震える手でナイフを握る。
博覧会での彼女の活躍を聞きつけ、彼もまた「美食の守護者」としての誇りに燃えていた。

「さあ、切ってくださいな。私の空腹が、限界を超えて暴動を起こしそうですわ!」

料理長がナイフを入れる。
サクッ、という皮目の心地よい音の直後、中から溢れ出したのは、ルビーのように輝く肉の色と、滝のような肉汁だった。

「……っ!!」

イザバラは、最初の一切れを口に運んだ。
咀嚼すること三回。
彼女の表情から、全ての険が消え、至福の光が溢れ出す。

「……ああ……。外側のカリッとした香ばしさと、中の蕩けるような柔らかさ。そしてこの、肉汁にグレイビーソースが混ざり合った瞬間の、舌への背徳感……。閣下、私、今なら世界を許せる気がしますわ」

「……その割には、肉を飲み込む速度が殺し屋のようだがな」

リュカも自分の分を味わいながら、少しだけ微笑んだ。

「イザバラ。王太子がああなった以上、君への復縁要請は止まらないだろう。……カトリーヌは博覧会の後、姿を消したようだが、彼女を支持していた美食ギルドの残党もまだいる」

「そんなもの、このローストビーフの脂で全て流して差し上げますわ。……美食の正しさは、権力ではなく『皿の上』にあるのです。閣下、次はホースラディッシュをたっぷり乗せてくださいませ。鼻に抜ける刺激が、肉の甘みをさらに引き立ててくれますわ!」

二人が究極の肉を堪能しているその頃、店の外では――。

「……くそ。中からいい匂いがする……。イザバラ、一口でいい、私にも……」

護衛を振り切ってやってきたジュリアン王太子が、店の壁に顔を押し付けて、排気口から漏れ出す「肉の匂い」を必死に吸い込んでいた。

「殿下! いけません、そんなみっともない真似は! さあ、王宮に戻って公務を……!」

「嫌だ! 私は……私はイザバラの隣で、あのローストビーフを、あの血の滴るような肉を、一緒に食べたいんだぁぁぁ!」

王太子の絶叫が夜の街に響いたが、店内のイザバラには一ミリも届かなかった。
彼女にとっての唯一のメロディは、自らが肉を噛み切る音と、リュカが注いでくれる極上の赤ワインが注がれる音だけだったのである。

「……おかわり、十枚追加で!」

「イザバラ、少しは遠慮しろ。牛が一頭絶滅するぞ」

「あら、美食家の前で遠慮するなど、食材への失礼に当たりますわ。オホホホ!」

こうして、美食令嬢の勝利の夜は、肉の脂の輝きと共に更けていくのであった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私を選ばなかったくせに~推しの悪役令嬢になってしまったので、本物以上に悪役らしい振る舞いをして婚約破棄してやりますわ、ザマア~

あさぎかな@コミカライズ決定
恋愛
乙女ゲーム《時の思い出(クロノス・メモリー)》の世界、しかも推しである悪役令嬢ルーシャに転生してしまったクレハ。 「貴方は一度だって私の話に耳を傾けたことがなかった。誤魔化して、逃げて、時より甘い言葉や、贈り物を贈れば満足だと思っていたのでしょう。――どんな時だって、私を選ばなかったくせに」と言って化物になる悪役令嬢ルーシャの未来を変えるため、いちルーシャファンとして、婚約者であり全ての元凶とである第五王子ベルンハルト(放蕩者)に婚約破棄を求めるのだが――?

彼女が高級娼婦と呼ばれる理由~元悪役令嬢の戦慄の日々~

プラネットプラント
恋愛
婚約者である王子の恋人をいじめたと婚約破棄され、実家から縁を切られたライラは娼館で暮らすことになる。だが、訪れる人々のせいでライラは怯えていた。 ※完結済。

王子、おひとり様で残りの人生をお楽しみください!

ちゃっぴー
恋愛
「ラーニャ、貴様との婚約を破棄する!」 卒業パーティーの真っ最中、ナルシストな第一王子ウィルフレッドに身に覚えのない罪で断罪された公爵令嬢ラーニャ。しかし、彼女はショックを受けるどころか、優雅に微笑んで拍手を送った。 なぜなら、ラーニャはとっくに王子の無能さに愛想を尽かし、この日のために完璧な「撤退準備」を進めていたからだ。

『お前の顔は見飽きた!』内心ガッツポーズで辺境へ

夏乃みのり
恋愛
「リーナ・フォン・アトラス! 貴様との婚約を破棄する!」 華やかな王宮の夜会で、第一王子ジュリアンに突きつけられた非情な宣告。冤罪を被せられ、冷酷な悪役令嬢として追放を言い渡されたリーナだったが、彼女の内心は……「やったーーー! これでやっとトレーニングに専念できるわ!」と歓喜に震えていた!

婚約破棄された王太子妃候補は第一王子に気に入られたようです。

永野水貴
恋愛
侯爵令嬢エヴェリーナは未来の王太子妃として育てられたが、突然に婚約破棄された。 王太子は真に愛する女性と結婚したいというのだった。 その女性はエヴェリーナとは正反対で、エヴェリーナは影で貶められるようになる。 そんなある日、王太子の兄といわれる第一王子ジルベルトが現れる。 ジルベルトは王太子を上回る素質を持つと噂される人物で、なぜかエヴェリーナに興味を示し…? ※「小説家になろう」にも載せています

『処刑されるたびに12歳に戻る悪役令嬢、7回目の人生は「何もせず寝て過ごす」ことに決めたら、なぜか周囲が勝手に勘違いして聖女扱いされています

六角
恋愛
公爵令嬢リリアーナは、18歳の誕生日に必ず断罪・処刑されては12歳に戻るという地獄のループを6回も繰り返していた。 真面目に努力しても、剣を極めても、裏社会を支配しても、結局は殺される運命。 心折れた彼女は、7回目の人生でついに決意する。 「もう頑張らない。どうせ死ぬなら、今回はひたすら寝て過ごそう」と。 しかし、安眠を求めて「うるさい」と敵を黙らせれば『王者の覇気』と恐れられ、寝ぼけて放った魔法は『神の奇跡』と崇められ、枕への異常なこだわりは『深遠なる儀式』と誤解されてしまう。 気がつけば、ストーカー気味のヤンデレ王子、パン屋の元ヒロイン、狂犬の如きライバル令嬢、元部下の暗殺者、そして不眠症の魔王までもが彼女の信者となり、リリアーナは意図せずして国を、そして世界を救う「最強の聖女」へと祭り上げられていく。 「お願いだから、私を寝かせて!」 睡眠欲だけで運命(システム)さえもねじ伏せる、無気力悪役令嬢の痛快勘違いサクセス(?)ストーリー!

【完結】悪役令嬢は断罪後、物語の外で微笑む

あめとおと
恋愛
断罪され、国外追放となった悪役令嬢エレノア。 けれど彼女は、泣かなかった。 すべてを失ったはずのその瞬間、彼女を迎えに来たのは、 隣国最大商会の会頭であり、“共犯者”の青年だった。 これは、物語の舞台を降りた悪役令嬢が、 自由と恋、そして本当の幸せを手に入れるまでの、 ざまぁと甘さを少しだけ含んだショートショート。

王子好きすぎ拗らせ転生悪役令嬢は、王子の溺愛に気づかない

エヌ
恋愛
私の前世の記憶によると、どうやら私は悪役令嬢ポジションにいるらしい 最後はもしかしたら全財産を失ってどこかに飛ばされるかもしれない。 でも大好きな王子には、幸せになってほしいと思う。

処理中です...