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「イザバラ! 待ってくれ、イザバラ! 私の……私の女神よ!」
美食博覧会の興奮冷めやらぬ広場。
そこには、紅蓮の薬膳スープで驚異的な回復を遂げたジュリアン王太子が、全速力で馬車へ向かうイザバラを追いかけていた。
その足取りは、数時間前までの「幽霊のような歩行」が嘘のように力強く、むしろ力が有り余って地面を蹴り上げている。
「……閣下。あの背後から迫る暑苦しい気配、どうにかなりませんこと? せっかくの祝勝会の予定が、雑味で汚されてしまいますわ」
イザバラは、馬車のステップに足をかけたまま、不機嫌そうに肩越しに振り返った。
「私に言うな。君が劇薬のような薬膳を飲ませるから、あんなに元気になってしまったんだろう。……自業自得だ」
隣でリュカが、他人事のように銀の杖を弄びながら答える。
「イザバラ! ああ、君はやはり最高だ! カトリーヌに惑わされていた私を許してくれ。君のあの、脂ぎった……いや、情熱溢れる角煮のおかげで、私の魂は真実の愛に目覚めたんだ!」
ジュリアンが息を切らして馬車に縋り付く。
その瞳はキラキラと輝いているが、イザバラの瞳には「迷惑な大型犬」程度にしか映っていない。
「殿下。愛だの魂だの、そんな抽象的な言葉で私の貴重なディナーの時間を奪わないでいただけます? 今から私は、閣下と王都随一の老舗、『真紅の牛亭』で十キロのローストビーフを予約しておりますの」
「じ、十キロ!? それを二人で食べるのか!?」
「いいえ、私が八キロ、閣下が二キロですわ。さあ、邪魔ですわよ。ソースの仕上がりに影響が出たら、殿下と言えどフォークで突き刺しますわよ?」
「ひっ……! そ、そんな冷たいところも素敵だ……。だが、私も行く! 王太子として、君の勝利を祝う義務がある!」
「お断りいたしますわ。殿下のような『味覚の浮気者』に、神聖なローストビーフの端肉(はしにく)すら与えるつもりはございません。……セバス、出しなさい!」
イザバラの冷酷な宣言と共に、馬車が急発進した。
「イザバラぁぁぁ!」という王太子の叫び声が遠ざかっていくが、彼女はすでに手元のメニュー表に夢中だった。
三十分後。
王都の喧騒から少し離れた場所にある、蔦の絡まるレンガ造りの名店。
『真紅の牛亭』の特別個室で、イザバラはついに「それ」と対面した。
「……おお……。これですわ。これこそが、勝利の象徴……」
運ばれてきたのは、巨大な木製のトレイに乗った、文字通り「肉の塊」だった。
表面は数種類のハーブと黒胡椒で黒々と覆われ、オーブンで長時間じっくりと焼き上げられたことで、芳醇な肉の脂が表面でパチパチと踊っている。
「お待ちしておりました、イザバラ様。本日、貴女様のために、領地で最も健康に育った牛の、最も希少な部位を用意いたしました」
料理長が、震える手でナイフを握る。
博覧会での彼女の活躍を聞きつけ、彼もまた「美食の守護者」としての誇りに燃えていた。
「さあ、切ってくださいな。私の空腹が、限界を超えて暴動を起こしそうですわ!」
料理長がナイフを入れる。
サクッ、という皮目の心地よい音の直後、中から溢れ出したのは、ルビーのように輝く肉の色と、滝のような肉汁だった。
「……っ!!」
イザバラは、最初の一切れを口に運んだ。
咀嚼すること三回。
彼女の表情から、全ての険が消え、至福の光が溢れ出す。
「……ああ……。外側のカリッとした香ばしさと、中の蕩けるような柔らかさ。そしてこの、肉汁にグレイビーソースが混ざり合った瞬間の、舌への背徳感……。閣下、私、今なら世界を許せる気がしますわ」
「……その割には、肉を飲み込む速度が殺し屋のようだがな」
リュカも自分の分を味わいながら、少しだけ微笑んだ。
「イザバラ。王太子がああなった以上、君への復縁要請は止まらないだろう。……カトリーヌは博覧会の後、姿を消したようだが、彼女を支持していた美食ギルドの残党もまだいる」
「そんなもの、このローストビーフの脂で全て流して差し上げますわ。……美食の正しさは、権力ではなく『皿の上』にあるのです。閣下、次はホースラディッシュをたっぷり乗せてくださいませ。鼻に抜ける刺激が、肉の甘みをさらに引き立ててくれますわ!」
二人が究極の肉を堪能しているその頃、店の外では――。
「……くそ。中からいい匂いがする……。イザバラ、一口でいい、私にも……」
護衛を振り切ってやってきたジュリアン王太子が、店の壁に顔を押し付けて、排気口から漏れ出す「肉の匂い」を必死に吸い込んでいた。
「殿下! いけません、そんなみっともない真似は! さあ、王宮に戻って公務を……!」
「嫌だ! 私は……私はイザバラの隣で、あのローストビーフを、あの血の滴るような肉を、一緒に食べたいんだぁぁぁ!」
王太子の絶叫が夜の街に響いたが、店内のイザバラには一ミリも届かなかった。
彼女にとっての唯一のメロディは、自らが肉を噛み切る音と、リュカが注いでくれる極上の赤ワインが注がれる音だけだったのである。
「……おかわり、十枚追加で!」
「イザバラ、少しは遠慮しろ。牛が一頭絶滅するぞ」
「あら、美食家の前で遠慮するなど、食材への失礼に当たりますわ。オホホホ!」
こうして、美食令嬢の勝利の夜は、肉の脂の輝きと共に更けていくのであった。
美食博覧会の興奮冷めやらぬ広場。
そこには、紅蓮の薬膳スープで驚異的な回復を遂げたジュリアン王太子が、全速力で馬車へ向かうイザバラを追いかけていた。
その足取りは、数時間前までの「幽霊のような歩行」が嘘のように力強く、むしろ力が有り余って地面を蹴り上げている。
「……閣下。あの背後から迫る暑苦しい気配、どうにかなりませんこと? せっかくの祝勝会の予定が、雑味で汚されてしまいますわ」
イザバラは、馬車のステップに足をかけたまま、不機嫌そうに肩越しに振り返った。
「私に言うな。君が劇薬のような薬膳を飲ませるから、あんなに元気になってしまったんだろう。……自業自得だ」
隣でリュカが、他人事のように銀の杖を弄びながら答える。
「イザバラ! ああ、君はやはり最高だ! カトリーヌに惑わされていた私を許してくれ。君のあの、脂ぎった……いや、情熱溢れる角煮のおかげで、私の魂は真実の愛に目覚めたんだ!」
ジュリアンが息を切らして馬車に縋り付く。
その瞳はキラキラと輝いているが、イザバラの瞳には「迷惑な大型犬」程度にしか映っていない。
「殿下。愛だの魂だの、そんな抽象的な言葉で私の貴重なディナーの時間を奪わないでいただけます? 今から私は、閣下と王都随一の老舗、『真紅の牛亭』で十キロのローストビーフを予約しておりますの」
「じ、十キロ!? それを二人で食べるのか!?」
「いいえ、私が八キロ、閣下が二キロですわ。さあ、邪魔ですわよ。ソースの仕上がりに影響が出たら、殿下と言えどフォークで突き刺しますわよ?」
「ひっ……! そ、そんな冷たいところも素敵だ……。だが、私も行く! 王太子として、君の勝利を祝う義務がある!」
「お断りいたしますわ。殿下のような『味覚の浮気者』に、神聖なローストビーフの端肉(はしにく)すら与えるつもりはございません。……セバス、出しなさい!」
イザバラの冷酷な宣言と共に、馬車が急発進した。
「イザバラぁぁぁ!」という王太子の叫び声が遠ざかっていくが、彼女はすでに手元のメニュー表に夢中だった。
三十分後。
王都の喧騒から少し離れた場所にある、蔦の絡まるレンガ造りの名店。
『真紅の牛亭』の特別個室で、イザバラはついに「それ」と対面した。
「……おお……。これですわ。これこそが、勝利の象徴……」
運ばれてきたのは、巨大な木製のトレイに乗った、文字通り「肉の塊」だった。
表面は数種類のハーブと黒胡椒で黒々と覆われ、オーブンで長時間じっくりと焼き上げられたことで、芳醇な肉の脂が表面でパチパチと踊っている。
「お待ちしておりました、イザバラ様。本日、貴女様のために、領地で最も健康に育った牛の、最も希少な部位を用意いたしました」
料理長が、震える手でナイフを握る。
博覧会での彼女の活躍を聞きつけ、彼もまた「美食の守護者」としての誇りに燃えていた。
「さあ、切ってくださいな。私の空腹が、限界を超えて暴動を起こしそうですわ!」
料理長がナイフを入れる。
サクッ、という皮目の心地よい音の直後、中から溢れ出したのは、ルビーのように輝く肉の色と、滝のような肉汁だった。
「……っ!!」
イザバラは、最初の一切れを口に運んだ。
咀嚼すること三回。
彼女の表情から、全ての険が消え、至福の光が溢れ出す。
「……ああ……。外側のカリッとした香ばしさと、中の蕩けるような柔らかさ。そしてこの、肉汁にグレイビーソースが混ざり合った瞬間の、舌への背徳感……。閣下、私、今なら世界を許せる気がしますわ」
「……その割には、肉を飲み込む速度が殺し屋のようだがな」
リュカも自分の分を味わいながら、少しだけ微笑んだ。
「イザバラ。王太子がああなった以上、君への復縁要請は止まらないだろう。……カトリーヌは博覧会の後、姿を消したようだが、彼女を支持していた美食ギルドの残党もまだいる」
「そんなもの、このローストビーフの脂で全て流して差し上げますわ。……美食の正しさは、権力ではなく『皿の上』にあるのです。閣下、次はホースラディッシュをたっぷり乗せてくださいませ。鼻に抜ける刺激が、肉の甘みをさらに引き立ててくれますわ!」
二人が究極の肉を堪能しているその頃、店の外では――。
「……くそ。中からいい匂いがする……。イザバラ、一口でいい、私にも……」
護衛を振り切ってやってきたジュリアン王太子が、店の壁に顔を押し付けて、排気口から漏れ出す「肉の匂い」を必死に吸い込んでいた。
「殿下! いけません、そんなみっともない真似は! さあ、王宮に戻って公務を……!」
「嫌だ! 私は……私はイザバラの隣で、あのローストビーフを、あの血の滴るような肉を、一緒に食べたいんだぁぁぁ!」
王太子の絶叫が夜の街に響いたが、店内のイザバラには一ミリも届かなかった。
彼女にとっての唯一のメロディは、自らが肉を噛み切る音と、リュカが注いでくれる極上の赤ワインが注がれる音だけだったのである。
「……おかわり、十枚追加で!」
「イザバラ、少しは遠慮しろ。牛が一頭絶滅するぞ」
「あら、美食家の前で遠慮するなど、食材への失礼に当たりますわ。オホホホ!」
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