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「……閣下。大変ですわ。今すぐ、我が家の地下倉庫にある全ての『塩』を、近衛兵以上の重装備で固めて守らせなさい!」
グランシエル公爵邸の朝食会。
イザバラは、目の前に並んだ「最高の半熟卵」に手を付けることなく、悲痛な叫びを上げた。
「朝からどうした、イザバラ。バター貯蔵庫の次は、塩を枕にして眠るつもりか?」
リュカは、手元の新聞を広げたまま、冷静にコーヒーを啜る。
だが、イザバラの表情は、いつもの食いしん坊なそれとは違い、真実の危機に直面した預言者のように険しかった。
「笑い事ではありませんわ! 先ほど、市場の偵察に行かせた侍女からの報告によりますと……王都中の主要な塩の問屋が、昨夜一斉に『謎の苦い水』を浴びせられ、在庫が全て使い物にならなくなったそうですの!」
「……何だと?」
リュカの手が止まった。
彼は素早く新聞を畳み、イザバラの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「カトリーヌは捕らえたはずだ。彼女の配下の者たちの仕業か?」
「ええ、間違いありませんわ。あの方、捕まる直前に言っていましたもの。『世界から塩を消して差し上げる』と。……美食における塩は、全ての味の骨格です。塩がなければ、どんな最高級の肉も、どんな芳醇なバターも、ただの『ボヤけた脂の塊』に成り下がりますわ!」
イザバラは、震える手で空のソルトミルを握りしめた。
「想像なさって、閣下。塩のないカルボナーラ。塩のないステーキ。塩のないポテト……。それはもはや食事ではなく、ただの修行、いえ、舌への虐待ですわ!」
「……確かに。それはもはや、カトリーヌが推奨していた『不味い健康食』以下の何かだな」
二人が食卓で緊迫した空気を漂わせていると、窓の外から「ヒィ、ヒィ……」という情けない呼吸音が聞こえてきた。
「イ、イザバラ……。助けてくれ……。王宮の食卓が……王宮の食卓が、崩壊しているんだ……」
バルコニーの手すりを乗り越えて現れたのは、これまたやつれ果てたジュリアン王太子だった。
彼は昨夜、海老の殻をしゃぶって元気を取り戻したはずだったが、今朝の朝食で「塩のない茹で野菜」を出され、再び精神の崩壊を招いたらしい。
「殿下。公爵邸の庭の木を登って侵入するのは、王族としていかがなものかしら」
「そんなこと言っていられるか! 聞いてくれ、イザバラ。カトリーヌの残党が王宮の調理場にある塩の壺に、例の『沈黙草の汁』を流し込んだんだ! 今の王宮にあるのは、苦くて食えたもんじゃない毒物だけだ!」
ジュリアンは、イザバラの足元に縋り付いた。
「頼む、君の持っている『塩』を……私に、私に一舐めだけでいいから分けてくれ! 塩気の感じられない世界は、色が消えた世界と同じだ!」
「……見苦しいですわね。ですが、お気持ちは分かりますわ」
イザバラは、懐から小さな小瓶を取り出した。
そこには、彼女が常に持ち歩いている、最高級の岩塩が入っている。
「一舐めだけですよ。……それ以上は、この王国の安定のために差し上げられませんわ」
ジュリアンは、震える手で受け取った塩の粒を、神聖な儀式のように舌に乗せた。
「……っ! ああ……!! これだ! この、舌を刺激する鋭い塩気! そしてその後に広がる、大地のミネラルの甘み……! 生き返る……私は今、再び世界と繋がった……!」
「……満足しましたら、すぐにお帰りになって。カトリーヌを尋問し、残党の居場所を吐かせるのが貴方の仕事でしょう?」
イザバラが冷たく言い放つと、ジュリアンは「分かった! 塩のためなら、私は何だってするぞ!」と、再び庭の木を猛スピードで下りていった。
「……さて、閣下」
イザバラは、窓の外を見つめながら、不敵に笑った。
「敵の狙いは、王国民の味覚を麻痺させ、絶望させたところで、再びあの『不味い健康泥茶』を普及させることですわ。……ですが、私には秘策がありますの」
「秘策? また何か、特殊な兵器を作るのか?」
「いいえ。……塩がなければ、塩を使わずに『塩気』を感じさせる魔法を使えばよろしいのですわ。閣下、お屋敷にある『熟成が進みすぎてカチカチになったチーズ』と、『大量の昆布』、そして『煮詰めた醤油の滓』を用意させてくださいませ!」
イザバラの瞳には、逆境を楽しむかのような、悪役令嬢特有の美しくも恐ろしい光が宿っていた。
「旨みによる味覚の錯覚……。塩を凌駕する『コクの暴力』で、王都の食卓を守って差し上げますわ! ……あ、それから閣下。今夜の献立ですが、塩を一切使わずに、脳を痺れさせるような『旨みの極致リゾット』を試作いたします。……毒見の準備は、よろしくて?」
「……フ。望むところだ。塩のない絶望を、君がどう塗り替えるか見せてもらおう」
美食令嬢の戦いは、ついに調味料の根源へと迫っていく。
塩なき世界の地獄を、彼女の飽くなき食欲が、黄金色の天国へと変えようとしていた。
グランシエル公爵邸の朝食会。
イザバラは、目の前に並んだ「最高の半熟卵」に手を付けることなく、悲痛な叫びを上げた。
「朝からどうした、イザバラ。バター貯蔵庫の次は、塩を枕にして眠るつもりか?」
リュカは、手元の新聞を広げたまま、冷静にコーヒーを啜る。
だが、イザバラの表情は、いつもの食いしん坊なそれとは違い、真実の危機に直面した預言者のように険しかった。
「笑い事ではありませんわ! 先ほど、市場の偵察に行かせた侍女からの報告によりますと……王都中の主要な塩の問屋が、昨夜一斉に『謎の苦い水』を浴びせられ、在庫が全て使い物にならなくなったそうですの!」
「……何だと?」
リュカの手が止まった。
彼は素早く新聞を畳み、イザバラの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「カトリーヌは捕らえたはずだ。彼女の配下の者たちの仕業か?」
「ええ、間違いありませんわ。あの方、捕まる直前に言っていましたもの。『世界から塩を消して差し上げる』と。……美食における塩は、全ての味の骨格です。塩がなければ、どんな最高級の肉も、どんな芳醇なバターも、ただの『ボヤけた脂の塊』に成り下がりますわ!」
イザバラは、震える手で空のソルトミルを握りしめた。
「想像なさって、閣下。塩のないカルボナーラ。塩のないステーキ。塩のないポテト……。それはもはや食事ではなく、ただの修行、いえ、舌への虐待ですわ!」
「……確かに。それはもはや、カトリーヌが推奨していた『不味い健康食』以下の何かだな」
二人が食卓で緊迫した空気を漂わせていると、窓の外から「ヒィ、ヒィ……」という情けない呼吸音が聞こえてきた。
「イ、イザバラ……。助けてくれ……。王宮の食卓が……王宮の食卓が、崩壊しているんだ……」
バルコニーの手すりを乗り越えて現れたのは、これまたやつれ果てたジュリアン王太子だった。
彼は昨夜、海老の殻をしゃぶって元気を取り戻したはずだったが、今朝の朝食で「塩のない茹で野菜」を出され、再び精神の崩壊を招いたらしい。
「殿下。公爵邸の庭の木を登って侵入するのは、王族としていかがなものかしら」
「そんなこと言っていられるか! 聞いてくれ、イザバラ。カトリーヌの残党が王宮の調理場にある塩の壺に、例の『沈黙草の汁』を流し込んだんだ! 今の王宮にあるのは、苦くて食えたもんじゃない毒物だけだ!」
ジュリアンは、イザバラの足元に縋り付いた。
「頼む、君の持っている『塩』を……私に、私に一舐めだけでいいから分けてくれ! 塩気の感じられない世界は、色が消えた世界と同じだ!」
「……見苦しいですわね。ですが、お気持ちは分かりますわ」
イザバラは、懐から小さな小瓶を取り出した。
そこには、彼女が常に持ち歩いている、最高級の岩塩が入っている。
「一舐めだけですよ。……それ以上は、この王国の安定のために差し上げられませんわ」
ジュリアンは、震える手で受け取った塩の粒を、神聖な儀式のように舌に乗せた。
「……っ! ああ……!! これだ! この、舌を刺激する鋭い塩気! そしてその後に広がる、大地のミネラルの甘み……! 生き返る……私は今、再び世界と繋がった……!」
「……満足しましたら、すぐにお帰りになって。カトリーヌを尋問し、残党の居場所を吐かせるのが貴方の仕事でしょう?」
イザバラが冷たく言い放つと、ジュリアンは「分かった! 塩のためなら、私は何だってするぞ!」と、再び庭の木を猛スピードで下りていった。
「……さて、閣下」
イザバラは、窓の外を見つめながら、不敵に笑った。
「敵の狙いは、王国民の味覚を麻痺させ、絶望させたところで、再びあの『不味い健康泥茶』を普及させることですわ。……ですが、私には秘策がありますの」
「秘策? また何か、特殊な兵器を作るのか?」
「いいえ。……塩がなければ、塩を使わずに『塩気』を感じさせる魔法を使えばよろしいのですわ。閣下、お屋敷にある『熟成が進みすぎてカチカチになったチーズ』と、『大量の昆布』、そして『煮詰めた醤油の滓』を用意させてくださいませ!」
イザバラの瞳には、逆境を楽しむかのような、悪役令嬢特有の美しくも恐ろしい光が宿っていた。
「旨みによる味覚の錯覚……。塩を凌駕する『コクの暴力』で、王都の食卓を守って差し上げますわ! ……あ、それから閣下。今夜の献立ですが、塩を一切使わずに、脳を痺れさせるような『旨みの極致リゾット』を試作いたします。……毒見の準備は、よろしくて?」
「……フ。望むところだ。塩のない絶望を、君がどう塗り替えるか見せてもらおう」
美食令嬢の戦いは、ついに調味料の根源へと迫っていく。
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