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「……閣下。よく見ていなさい。これが、塩という絶対君主に依存しきった愚かな世界を救う、新たなる真理ですわ!」
グランシエル公爵邸の厨房は、今や異界の儀式場のような熱気に包まれていた。
イザバラの目の前には、石のように硬く熟成したパルミジャーノ・レッジャーノの皮、黒光りする最高級の昆布、そして発酵の極致とも言える煮詰めた醤油の滓(かす)が並んでいる。
「イザバラ、落ち着け。君の鼻息で、せっかくの昆布の粉末が舞い上がっているぞ」
リュカは、防護服代わりにエプロンを何重にも重ね、少し離れた位置から彼女を見守っていた。
「落ち着いてなどいられませんわ! 塩がないのなら、脳に『塩気がある』と錯覚させればよろしいのです。旨みを極限まで凝縮し、舌の細胞を強引に納得させる……これぞ、美食の暴力による調伏ですわ!」
イザバラは、巨大な鍋に昆布と干し椎茸の戻し汁を注ぎ、そこへ「チーズの皮」を投入した。
「……チーズの皮を煮るのか? あんな硬いもの、普通は捨てるだろう」
「閣下、甘いですわ! あの皮にこそ、数年間の熟成で生み出された旨みの結晶(アミノ酸)が凝縮されているのです。これをじっくり煮出すことで、塩気とは異なる『舌に刺さるようなコク』が抽出されますの」
厨房に、濃厚な、それでいてどこか猛々しい香りが立ち込め始める。
それは、爽やかなスパイスの香りとは正反対の、重厚で逃げ場のない「発酵の圧力」だった。
「仕上げに、この醤油の滓を乾燥させて粉末にしたものをパラリと……。見てください、閣下! この琥珀色の輝きを!」
イザバラは、塩を一切使わずに作り上げた特製のリゾットを、銀の皿に盛り付けた。
具材は、旨みの塊であるベーコンと、さらに追い打ちをかけるような熟成チーズの削り節。
「……毒見だ。覚悟はできている」
リュカが、震える手でスプーンを取った。
彼は一口、その「塩なしリゾット」を口に運んだ。
「…………っ!!」
リュカの身体が、電流を流されたように跳ねた。
目を見開き、彼は皿を凝視したまま動かない。
「ど、どうかしら、閣下!? 塩の不在を、私の『旨みの軍勢』が埋めておりますでしょう!?」
「……信じられん。……塩が入っていないはずなのに、舌がビリビリするほど『濃い』。……いや、これは塩気ではないな。脳が、あまりの旨みの強さにパニックを起こして、『これは塩だ!』と誤認しているのか?」
リュカは、狂ったように二口目、三口目を頬張った。
彼の冷徹な表情は崩れ、額からは快楽に近い汗が噴き出している。
「凄いな、イザバラ。……君は、調味料の根源さえも、自らの食欲で捻じ曲げたのか」
「オホホホ! 当然ですわ! 美食家に不可能はございません!」
その時、厨房の換気口から「グゥゥゥゥ……」という、地獄の底から響くような地響きが聞こえてきた。
「……その匂い……。その、脳を直接殴りつけるような、強烈な発酵の匂い……。イザバラ……そこにいるんだろう、イザバラ……」
換気口の隙間から、ドロリとした執念と共に、ジュリアン王太子の目が覗いていた。
彼はもはや、王族としての尊厳を完全に喪失し、匂いの発信源を求めて壁を登ってきたらしい。
「殿下、また貴方ですの? 今日は換気口から潜入とは、いよいよネズミに退化なさいましたわね」
「ネズミでも何でもいい! 頼む、その『塩気を感じる何か』を私に……! 王宮の食事は、今や味のしない砂を噛んでいるようだ。私は、私は……味が欲しいんだぁぁぁ!」
ジュリアンの悲痛な叫びが厨房に響く。
「閣下、どういたします? この『旨みの雷光』、殿下の胃袋に落として差し上げますこと?」
「……フ。いいだろう。あまりに哀れだ。……ただし殿下、これを食べたら、即座に衛兵を動かしてカトリーヌの残党を殲滅すると誓え」
「誓う! 誓うとも! なんなら、塩の鉱山を全て君たちの領地にする書類にサインしてもいい!」
ジュリアンは、換気口から無理やり首を突っ込み、差し出されたスプーンにかじりついた。
「…………ッッッ!!! あああああ! これだぁぁぁ! 旨みが、旨みが私の魂を洗っていくぅぅぅ!」
王太子の歓喜の絶叫が、夜の王都に響き渡る。
塩なき世界の絶望は、イザバラの「チーズと昆布の魔術」によって、一時的に塗り替えられた。
だがその頃、地下牢のカトリーヌは、さらに不気味な微笑を浮かべていた。
「……ふふ。旨みで凌ぐつもりね、イザバラ。……ですが、次が最後よ。世界から『火』を消して差し上げましょう……。加熱という魔法を奪われた時、貴女の美食がどこまで通用するか、見ものですわね……!」
カトリーヌの手には、あらゆる熱を吸収し、凍てつかせる「零度の苔」が握られていた。
美食令嬢イザバラ、最大の危機。
火を奪われた料理人の前に、次なる試練が待ち構えていた。
グランシエル公爵邸の厨房は、今や異界の儀式場のような熱気に包まれていた。
イザバラの目の前には、石のように硬く熟成したパルミジャーノ・レッジャーノの皮、黒光りする最高級の昆布、そして発酵の極致とも言える煮詰めた醤油の滓(かす)が並んでいる。
「イザバラ、落ち着け。君の鼻息で、せっかくの昆布の粉末が舞い上がっているぞ」
リュカは、防護服代わりにエプロンを何重にも重ね、少し離れた位置から彼女を見守っていた。
「落ち着いてなどいられませんわ! 塩がないのなら、脳に『塩気がある』と錯覚させればよろしいのです。旨みを極限まで凝縮し、舌の細胞を強引に納得させる……これぞ、美食の暴力による調伏ですわ!」
イザバラは、巨大な鍋に昆布と干し椎茸の戻し汁を注ぎ、そこへ「チーズの皮」を投入した。
「……チーズの皮を煮るのか? あんな硬いもの、普通は捨てるだろう」
「閣下、甘いですわ! あの皮にこそ、数年間の熟成で生み出された旨みの結晶(アミノ酸)が凝縮されているのです。これをじっくり煮出すことで、塩気とは異なる『舌に刺さるようなコク』が抽出されますの」
厨房に、濃厚な、それでいてどこか猛々しい香りが立ち込め始める。
それは、爽やかなスパイスの香りとは正反対の、重厚で逃げ場のない「発酵の圧力」だった。
「仕上げに、この醤油の滓を乾燥させて粉末にしたものをパラリと……。見てください、閣下! この琥珀色の輝きを!」
イザバラは、塩を一切使わずに作り上げた特製のリゾットを、銀の皿に盛り付けた。
具材は、旨みの塊であるベーコンと、さらに追い打ちをかけるような熟成チーズの削り節。
「……毒見だ。覚悟はできている」
リュカが、震える手でスプーンを取った。
彼は一口、その「塩なしリゾット」を口に運んだ。
「…………っ!!」
リュカの身体が、電流を流されたように跳ねた。
目を見開き、彼は皿を凝視したまま動かない。
「ど、どうかしら、閣下!? 塩の不在を、私の『旨みの軍勢』が埋めておりますでしょう!?」
「……信じられん。……塩が入っていないはずなのに、舌がビリビリするほど『濃い』。……いや、これは塩気ではないな。脳が、あまりの旨みの強さにパニックを起こして、『これは塩だ!』と誤認しているのか?」
リュカは、狂ったように二口目、三口目を頬張った。
彼の冷徹な表情は崩れ、額からは快楽に近い汗が噴き出している。
「凄いな、イザバラ。……君は、調味料の根源さえも、自らの食欲で捻じ曲げたのか」
「オホホホ! 当然ですわ! 美食家に不可能はございません!」
その時、厨房の換気口から「グゥゥゥゥ……」という、地獄の底から響くような地響きが聞こえてきた。
「……その匂い……。その、脳を直接殴りつけるような、強烈な発酵の匂い……。イザバラ……そこにいるんだろう、イザバラ……」
換気口の隙間から、ドロリとした執念と共に、ジュリアン王太子の目が覗いていた。
彼はもはや、王族としての尊厳を完全に喪失し、匂いの発信源を求めて壁を登ってきたらしい。
「殿下、また貴方ですの? 今日は換気口から潜入とは、いよいよネズミに退化なさいましたわね」
「ネズミでも何でもいい! 頼む、その『塩気を感じる何か』を私に……! 王宮の食事は、今や味のしない砂を噛んでいるようだ。私は、私は……味が欲しいんだぁぁぁ!」
ジュリアンの悲痛な叫びが厨房に響く。
「閣下、どういたします? この『旨みの雷光』、殿下の胃袋に落として差し上げますこと?」
「……フ。いいだろう。あまりに哀れだ。……ただし殿下、これを食べたら、即座に衛兵を動かしてカトリーヌの残党を殲滅すると誓え」
「誓う! 誓うとも! なんなら、塩の鉱山を全て君たちの領地にする書類にサインしてもいい!」
ジュリアンは、換気口から無理やり首を突っ込み、差し出されたスプーンにかじりついた。
「…………ッッッ!!! あああああ! これだぁぁぁ! 旨みが、旨みが私の魂を洗っていくぅぅぅ!」
王太子の歓喜の絶叫が、夜の王都に響き渡る。
塩なき世界の絶望は、イザバラの「チーズと昆布の魔術」によって、一時的に塗り替えられた。
だがその頃、地下牢のカトリーヌは、さらに不気味な微笑を浮かべていた。
「……ふふ。旨みで凌ぐつもりね、イザバラ。……ですが、次が最後よ。世界から『火』を消して差し上げましょう……。加熱という魔法を奪われた時、貴女の美食がどこまで通用するか、見ものですわね……!」
カトリーヌの手には、あらゆる熱を吸収し、凍てつかせる「零度の苔」が握られていた。
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