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「……閣下。大変ですわ。今すぐ、我が家のクローゼットから一番厚手の毛皮を持ってきてちょうだい。それと、私の情熱を冷却しないための、最高級のブランデーも!」
グランシエル公爵邸の厨房は、一夜にして北極の氷穴へと変貌していた。
イザバラが朝一番に「目覚めのコンソメ」を作ろうと火種を近づけた瞬間、薪も、石炭も、魔石でさえも、まるで見えない冷気の怪物に飲み込まれたかのように、静かに凍りついたのである。
「……なるほど。カトリーヌの言っていたことは、単なる脅しではなかったわけか。王都中の『熱』が、何者かに奪われている」
リュカは、白い吐息を吐きながら、カチカチに凍りついたオーブンを点検していた。
彼の指先が触れた瞬間、鉄の扉がパキリと音を立てて霜に覆われる。
「美食の三要素は『素材・味付け・火入れ』ですわ。その一つを奪うなど、料理人に対する宣戦布告……いいえ、全人類の胃袋に対する大量虐殺ですわよ!」
イザバラは、震える手で自身の頬を叩いた。
寒さで感覚が麻痺しそうになるが、彼女の「食への執念」だけは、零下の気温の中でも赤々と燃え盛っている。
「火が使えないのなら、煮込みも、焼きも、蒸しもできませんわ。……ですが、閣下。火がなければ料理ができないと考えるのは、想像力の欠如した凡人の発想ですわよ」
「……ほう。この状況で、まだ何か作る気か?」
「もちろんですわ! 火が使えないのなら、素材の『生の生命力』をそのまま胃袋に叩き込めばよろしいのです。……閣下、氷室から最高級の白身魚と、地下で熟成させていた極薄の生ハム、そして……昨日届いたばかりの完熟シトラスを持ってこさせて!」
イザバラは、凍える指先を自身の胸元で温めながら、素早く包丁を握った。
火による加熱が禁じられた世界で、彼女が選んだのは「冷徹なる調和(マリアージュ)」だった。
彼女は、半凍結状態で身が締まった鯛を、透けるほど薄くスライスしていく。
そこへ、火を通さずとも刺激を与えてくれる、大量の山山葵(やまわさび)と、キリリと冷えたオリーブオイルを回しかけた。
「名付けて『絶対零度のカルパッチョ・生命の脈動を添えて』ですわ!」
「……見た目は、ただの凍りかけた刺身だが」
「召し上がれば分かりますわ。火による甘みがない分、素材が持つ野生的な酸味と脂の重厚さが、ダイレクトに脳を揺さぶりますのよ」
リュカが、半信半疑でその一切れを口にした。
瞬間、彼の身体が別の意味で凍りついた。
「…………っ!!」
冷たい。だが、噛みしめるたびに、魚の脂が舌の熱でゆっくりと溶け出し、シトラスの鮮烈な酸味と山山葵の刺激が、麻痺しかけていた五感を無理やり叩き起こす。
「……熱い。冷たいはずなのに、胃の奥からエネルギーが湧き上がってくるようだ。……火を使わないことで、かえって素材の鮮度が、鋭利な刃物のように味覚を研ぎ澄ませているな」
「当然ですわ! 加熱とは、素材を優しく手懐ける行為。しかし生食とは、素材と一対一で殴り合う真剣勝負ですのよ!」
イザバラは、自身も一切れを頬張り、その冷たい快楽に身を震わせた。
その時、厨房の裏口が、ガタガタと激しく揺れた。
「……寒い……。腹が減った……。火が……火を……火を一口……。いや、火は食べられないけれど……何か、熱いものを……」
現れたのは、全身に霜をまとい、つららを鼻から下げたジュリアン王太子だった。
彼はもはや、青白い顔をした歩く氷像と化していた。
「殿下。火はございませんわよ。今この屋敷にあるのは、私の冷徹な愛と、この氷のようなカルパッチョだけですわ」
「……それだ……。その、冷たくて美味そうな匂い……。私に、私にその『命の欠片』を……。王宮は……王宮は今、カトリーヌが放った『零度の苔』のせいで、スープも凍り、ワインもシャーベットになっているんだ……!」
ジュリアンは、震える手で皿に手を伸ばした。
一切れを飲み込んだ瞬間、彼の瞳にボッと青白い炎が灯る。
「……生き返る……。冷たいのに、心が燃えるようだ……。イザバラ、君は……君は太陽か何かか……?」
「いいえ、私はただの、お腹が空いた令嬢ですわ。……さて、閣下。殿下が少し温まった(?)ところで、次の作戦に移りましょう。火を奪ったカトリーヌに、この『冷たい怒り』の味を教えて差し上げねばなりませんわね」
イザバラの瞳は、氷室の氷よりも鋭く、そして美しく輝いていた。
一方その頃、地下牢の深部では――。
「……ふふ。火を失い、人々が震え、生肉を啜る。……これぞ、私が求めていた『究極の静寂』……。さあ、イザバラ。貴女が最後に、何を口にするのか……楽しみにしていますわよ……」
カトリーヌは、自身の体温さえも失いながら、青白く光る闇の中で微笑んでいた。
グランシエル公爵邸の厨房は、一夜にして北極の氷穴へと変貌していた。
イザバラが朝一番に「目覚めのコンソメ」を作ろうと火種を近づけた瞬間、薪も、石炭も、魔石でさえも、まるで見えない冷気の怪物に飲み込まれたかのように、静かに凍りついたのである。
「……なるほど。カトリーヌの言っていたことは、単なる脅しではなかったわけか。王都中の『熱』が、何者かに奪われている」
リュカは、白い吐息を吐きながら、カチカチに凍りついたオーブンを点検していた。
彼の指先が触れた瞬間、鉄の扉がパキリと音を立てて霜に覆われる。
「美食の三要素は『素材・味付け・火入れ』ですわ。その一つを奪うなど、料理人に対する宣戦布告……いいえ、全人類の胃袋に対する大量虐殺ですわよ!」
イザバラは、震える手で自身の頬を叩いた。
寒さで感覚が麻痺しそうになるが、彼女の「食への執念」だけは、零下の気温の中でも赤々と燃え盛っている。
「火が使えないのなら、煮込みも、焼きも、蒸しもできませんわ。……ですが、閣下。火がなければ料理ができないと考えるのは、想像力の欠如した凡人の発想ですわよ」
「……ほう。この状況で、まだ何か作る気か?」
「もちろんですわ! 火が使えないのなら、素材の『生の生命力』をそのまま胃袋に叩き込めばよろしいのです。……閣下、氷室から最高級の白身魚と、地下で熟成させていた極薄の生ハム、そして……昨日届いたばかりの完熟シトラスを持ってこさせて!」
イザバラは、凍える指先を自身の胸元で温めながら、素早く包丁を握った。
火による加熱が禁じられた世界で、彼女が選んだのは「冷徹なる調和(マリアージュ)」だった。
彼女は、半凍結状態で身が締まった鯛を、透けるほど薄くスライスしていく。
そこへ、火を通さずとも刺激を与えてくれる、大量の山山葵(やまわさび)と、キリリと冷えたオリーブオイルを回しかけた。
「名付けて『絶対零度のカルパッチョ・生命の脈動を添えて』ですわ!」
「……見た目は、ただの凍りかけた刺身だが」
「召し上がれば分かりますわ。火による甘みがない分、素材が持つ野生的な酸味と脂の重厚さが、ダイレクトに脳を揺さぶりますのよ」
リュカが、半信半疑でその一切れを口にした。
瞬間、彼の身体が別の意味で凍りついた。
「…………っ!!」
冷たい。だが、噛みしめるたびに、魚の脂が舌の熱でゆっくりと溶け出し、シトラスの鮮烈な酸味と山山葵の刺激が、麻痺しかけていた五感を無理やり叩き起こす。
「……熱い。冷たいはずなのに、胃の奥からエネルギーが湧き上がってくるようだ。……火を使わないことで、かえって素材の鮮度が、鋭利な刃物のように味覚を研ぎ澄ませているな」
「当然ですわ! 加熱とは、素材を優しく手懐ける行為。しかし生食とは、素材と一対一で殴り合う真剣勝負ですのよ!」
イザバラは、自身も一切れを頬張り、その冷たい快楽に身を震わせた。
その時、厨房の裏口が、ガタガタと激しく揺れた。
「……寒い……。腹が減った……。火が……火を……火を一口……。いや、火は食べられないけれど……何か、熱いものを……」
現れたのは、全身に霜をまとい、つららを鼻から下げたジュリアン王太子だった。
彼はもはや、青白い顔をした歩く氷像と化していた。
「殿下。火はございませんわよ。今この屋敷にあるのは、私の冷徹な愛と、この氷のようなカルパッチョだけですわ」
「……それだ……。その、冷たくて美味そうな匂い……。私に、私にその『命の欠片』を……。王宮は……王宮は今、カトリーヌが放った『零度の苔』のせいで、スープも凍り、ワインもシャーベットになっているんだ……!」
ジュリアンは、震える手で皿に手を伸ばした。
一切れを飲み込んだ瞬間、彼の瞳にボッと青白い炎が灯る。
「……生き返る……。冷たいのに、心が燃えるようだ……。イザバラ、君は……君は太陽か何かか……?」
「いいえ、私はただの、お腹が空いた令嬢ですわ。……さて、閣下。殿下が少し温まった(?)ところで、次の作戦に移りましょう。火を奪ったカトリーヌに、この『冷たい怒り』の味を教えて差し上げねばなりませんわね」
イザバラの瞳は、氷室の氷よりも鋭く、そして美しく輝いていた。
一方その頃、地下牢の深部では――。
「……ふふ。火を失い、人々が震え、生肉を啜る。……これぞ、私が求めていた『究極の静寂』……。さあ、イザバラ。貴女が最後に、何を口にするのか……楽しみにしていますわよ……」
カトリーヌは、自身の体温さえも失いながら、青白く光る闇の中で微笑んでいた。
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