婚約破棄されましたが、それよりシェフを呼んでください。

鏡おもち

文字の大きさ
21 / 28

21

しおりを挟む
「……閣下。大変ですわ。今すぐ、我が家のクローゼットから一番厚手の毛皮を持ってきてちょうだい。それと、私の情熱を冷却しないための、最高級のブランデーも!」


グランシエル公爵邸の厨房は、一夜にして北極の氷穴へと変貌していた。


イザバラが朝一番に「目覚めのコンソメ」を作ろうと火種を近づけた瞬間、薪も、石炭も、魔石でさえも、まるで見えない冷気の怪物に飲み込まれたかのように、静かに凍りついたのである。


「……なるほど。カトリーヌの言っていたことは、単なる脅しではなかったわけか。王都中の『熱』が、何者かに奪われている」


リュカは、白い吐息を吐きながら、カチカチに凍りついたオーブンを点検していた。
彼の指先が触れた瞬間、鉄の扉がパキリと音を立てて霜に覆われる。


「美食の三要素は『素材・味付け・火入れ』ですわ。その一つを奪うなど、料理人に対する宣戦布告……いいえ、全人類の胃袋に対する大量虐殺ですわよ!」


イザバラは、震える手で自身の頬を叩いた。
寒さで感覚が麻痺しそうになるが、彼女の「食への執念」だけは、零下の気温の中でも赤々と燃え盛っている。


「火が使えないのなら、煮込みも、焼きも、蒸しもできませんわ。……ですが、閣下。火がなければ料理ができないと考えるのは、想像力の欠如した凡人の発想ですわよ」


「……ほう。この状況で、まだ何か作る気か?」


「もちろんですわ! 火が使えないのなら、素材の『生の生命力』をそのまま胃袋に叩き込めばよろしいのです。……閣下、氷室から最高級の白身魚と、地下で熟成させていた極薄の生ハム、そして……昨日届いたばかりの完熟シトラスを持ってこさせて!」


イザバラは、凍える指先を自身の胸元で温めながら、素早く包丁を握った。
火による加熱が禁じられた世界で、彼女が選んだのは「冷徹なる調和(マリアージュ)」だった。


彼女は、半凍結状態で身が締まった鯛を、透けるほど薄くスライスしていく。
そこへ、火を通さずとも刺激を与えてくれる、大量の山山葵(やまわさび)と、キリリと冷えたオリーブオイルを回しかけた。


「名付けて『絶対零度のカルパッチョ・生命の脈動を添えて』ですわ!」


「……見た目は、ただの凍りかけた刺身だが」


「召し上がれば分かりますわ。火による甘みがない分、素材が持つ野生的な酸味と脂の重厚さが、ダイレクトに脳を揺さぶりますのよ」


リュカが、半信半疑でその一切れを口にした。
瞬間、彼の身体が別の意味で凍りついた。


「…………っ!!」


冷たい。だが、噛みしめるたびに、魚の脂が舌の熱でゆっくりと溶け出し、シトラスの鮮烈な酸味と山山葵の刺激が、麻痺しかけていた五感を無理やり叩き起こす。


「……熱い。冷たいはずなのに、胃の奥からエネルギーが湧き上がってくるようだ。……火を使わないことで、かえって素材の鮮度が、鋭利な刃物のように味覚を研ぎ澄ませているな」


「当然ですわ! 加熱とは、素材を優しく手懐ける行為。しかし生食とは、素材と一対一で殴り合う真剣勝負ですのよ!」


イザバラは、自身も一切れを頬張り、その冷たい快楽に身を震わせた。


その時、厨房の裏口が、ガタガタと激しく揺れた。


「……寒い……。腹が減った……。火が……火を……火を一口……。いや、火は食べられないけれど……何か、熱いものを……」


現れたのは、全身に霜をまとい、つららを鼻から下げたジュリアン王太子だった。
彼はもはや、青白い顔をした歩く氷像と化していた。


「殿下。火はございませんわよ。今この屋敷にあるのは、私の冷徹な愛と、この氷のようなカルパッチョだけですわ」


「……それだ……。その、冷たくて美味そうな匂い……。私に、私にその『命の欠片』を……。王宮は……王宮は今、カトリーヌが放った『零度の苔』のせいで、スープも凍り、ワインもシャーベットになっているんだ……!」


ジュリアンは、震える手で皿に手を伸ばした。
一切れを飲み込んだ瞬間、彼の瞳にボッと青白い炎が灯る。


「……生き返る……。冷たいのに、心が燃えるようだ……。イザバラ、君は……君は太陽か何かか……?」


「いいえ、私はただの、お腹が空いた令嬢ですわ。……さて、閣下。殿下が少し温まった(?)ところで、次の作戦に移りましょう。火を奪ったカトリーヌに、この『冷たい怒り』の味を教えて差し上げねばなりませんわね」


イザバラの瞳は、氷室の氷よりも鋭く、そして美しく輝いていた。


一方その頃、地下牢の深部では――。


「……ふふ。火を失い、人々が震え、生肉を啜る。……これぞ、私が求めていた『究極の静寂』……。さあ、イザバラ。貴女が最後に、何を口にするのか……楽しみにしていますわよ……」


カトリーヌは、自身の体温さえも失いながら、青白く光る闇の中で微笑んでいた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私を選ばなかったくせに~推しの悪役令嬢になってしまったので、本物以上に悪役らしい振る舞いをして婚約破棄してやりますわ、ザマア~

あさぎかな@コミカライズ決定
恋愛
乙女ゲーム《時の思い出(クロノス・メモリー)》の世界、しかも推しである悪役令嬢ルーシャに転生してしまったクレハ。 「貴方は一度だって私の話に耳を傾けたことがなかった。誤魔化して、逃げて、時より甘い言葉や、贈り物を贈れば満足だと思っていたのでしょう。――どんな時だって、私を選ばなかったくせに」と言って化物になる悪役令嬢ルーシャの未来を変えるため、いちルーシャファンとして、婚約者であり全ての元凶とである第五王子ベルンハルト(放蕩者)に婚約破棄を求めるのだが――?

彼女が高級娼婦と呼ばれる理由~元悪役令嬢の戦慄の日々~

プラネットプラント
恋愛
婚約者である王子の恋人をいじめたと婚約破棄され、実家から縁を切られたライラは娼館で暮らすことになる。だが、訪れる人々のせいでライラは怯えていた。 ※完結済。

王子、おひとり様で残りの人生をお楽しみください!

ちゃっぴー
恋愛
「ラーニャ、貴様との婚約を破棄する!」 卒業パーティーの真っ最中、ナルシストな第一王子ウィルフレッドに身に覚えのない罪で断罪された公爵令嬢ラーニャ。しかし、彼女はショックを受けるどころか、優雅に微笑んで拍手を送った。 なぜなら、ラーニャはとっくに王子の無能さに愛想を尽かし、この日のために完璧な「撤退準備」を進めていたからだ。

『お前の顔は見飽きた!』内心ガッツポーズで辺境へ

夏乃みのり
恋愛
「リーナ・フォン・アトラス! 貴様との婚約を破棄する!」 華やかな王宮の夜会で、第一王子ジュリアンに突きつけられた非情な宣告。冤罪を被せられ、冷酷な悪役令嬢として追放を言い渡されたリーナだったが、彼女の内心は……「やったーーー! これでやっとトレーニングに専念できるわ!」と歓喜に震えていた!

婚約破棄された王太子妃候補は第一王子に気に入られたようです。

永野水貴
恋愛
侯爵令嬢エヴェリーナは未来の王太子妃として育てられたが、突然に婚約破棄された。 王太子は真に愛する女性と結婚したいというのだった。 その女性はエヴェリーナとは正反対で、エヴェリーナは影で貶められるようになる。 そんなある日、王太子の兄といわれる第一王子ジルベルトが現れる。 ジルベルトは王太子を上回る素質を持つと噂される人物で、なぜかエヴェリーナに興味を示し…? ※「小説家になろう」にも載せています

『処刑されるたびに12歳に戻る悪役令嬢、7回目の人生は「何もせず寝て過ごす」ことに決めたら、なぜか周囲が勝手に勘違いして聖女扱いされています

六角
恋愛
公爵令嬢リリアーナは、18歳の誕生日に必ず断罪・処刑されては12歳に戻るという地獄のループを6回も繰り返していた。 真面目に努力しても、剣を極めても、裏社会を支配しても、結局は殺される運命。 心折れた彼女は、7回目の人生でついに決意する。 「もう頑張らない。どうせ死ぬなら、今回はひたすら寝て過ごそう」と。 しかし、安眠を求めて「うるさい」と敵を黙らせれば『王者の覇気』と恐れられ、寝ぼけて放った魔法は『神の奇跡』と崇められ、枕への異常なこだわりは『深遠なる儀式』と誤解されてしまう。 気がつけば、ストーカー気味のヤンデレ王子、パン屋の元ヒロイン、狂犬の如きライバル令嬢、元部下の暗殺者、そして不眠症の魔王までもが彼女の信者となり、リリアーナは意図せずして国を、そして世界を救う「最強の聖女」へと祭り上げられていく。 「お願いだから、私を寝かせて!」 睡眠欲だけで運命(システム)さえもねじ伏せる、無気力悪役令嬢の痛快勘違いサクセス(?)ストーリー!

【完結】悪役令嬢は断罪後、物語の外で微笑む

あめとおと
恋愛
断罪され、国外追放となった悪役令嬢エレノア。 けれど彼女は、泣かなかった。 すべてを失ったはずのその瞬間、彼女を迎えに来たのは、 隣国最大商会の会頭であり、“共犯者”の青年だった。 これは、物語の舞台を降りた悪役令嬢が、 自由と恋、そして本当の幸せを手に入れるまでの、 ざまぁと甘さを少しだけ含んだショートショート。

王子好きすぎ拗らせ転生悪役令嬢は、王子の溺愛に気づかない

エヌ
恋愛
私の前世の記憶によると、どうやら私は悪役令嬢ポジションにいるらしい 最後はもしかしたら全財産を失ってどこかに飛ばされるかもしれない。 でも大好きな王子には、幸せになってほしいと思う。

処理中です...