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「……閣下。いつまで、そのように氷像の真似事をなさっているつもりですの? 公爵家ともあろう者が、たかが『火が消えた』程度で震えていては、食材たちに笑われますわよ!」
グランシエル公爵邸の厨房。
イザバラは、毛皮のコートを三枚重ねにし、手には最高級のブランデーの瓶を握りしめて仁王立ちしていた。
彼女の目の前では、リュカ公爵が青白い顔で、カチカチに凍りついた銀の火かき棒を虚ろな目で見つめている。
「……イザバラ。たかが、ではない。薪も魔石も、近づけた瞬間に『零度の苔』の冷気に飲み込まれるのだ。加熱という概念そのものが、この街から消去された。……これは、文明の終焉だぞ」
「文明? そんな高尚なものは歴史家に任せておけばよろしいのですわ。美食家が絶望すべきは、文明の終焉ではなく、『温かいシチュー』が食べられないという現実ですわ!」
イザバラは、ドサリと足元に巨大な麻袋を投げ出した。
中から溢れ出したのは、大量の「米麹」と、湿った「藁(わら)」、そして公爵家の地下で見つけた「熟成途中の味噌」である。
「……イザバラ、何を始めるつもりだ? その腐りかけの草とカビの塊で、暖を取るつもりか?」
「あら、失礼ですわね。これはカビではなく、目に見えない『極小のシェフたち』ですわ! 閣下、火という急進的な酸化現象が使えないのなら、生命が静かに放つ『代謝の熱』を利用すればよろしいのですわ!」
イザバラは、厨房の中央に巨大な木桶を据え置くと、そこへ藁と米麹、そして適度な水分を混ぜたものをこれでもかというほど詰め込み始めた。
「発酵ですわ、閣下! 微生物たちが宴(うたげ)を開くとき、そこには確実に『熱』が宿ります。かつての賢者たちは、この熱で雛鳥を孵し、冬の寒さを凌いだと言います。……ならば、この『発酵の寝床(バイオ・リアクター)』の中に鍋を沈めれば、火を使わずに調理ができるはずですわ!」
「……狂っている。だが、君がそう言うと、それが唯一の希望に聞こえるから不思議だ」
リュカも半ば自棄(やけ)になり、イザバラを手伝って大量の藁を積み上げた。
数時間後。
巨大な堆肥のような、しかしどこか甘酸っぱい香りを放つ山が厨房に出現した。
イザバラはその中心に、たっぷりの豚肉と根菜、そして濃厚な味噌をぶち込んだ鉄鍋を深く、深く埋め込んだ。
「さあ、お休みなさい、私の愛しき食材たち。明日には、微生物たちの情熱によって、貴方たちは最高に蕩ける姿に変わっているはずですわ!」
翌朝。
厨房の温度はさらに下がっていたが、イザバラが作った「発酵の山」からは、驚くべきことに、うっすらと白い湯気が立ち上っていた。
「……信じられん。本当に、温かくなっているのか?」
リュカが震える手で山に触れると、そこには確かに、凍てつく世界で唯一の『確かな熱』が存在していた。
イザバラが、宝探しをする子供のような目つきで、山の中から鉄鍋を掘り出す。
蓋を開けた瞬間――。
「…………ああ!!」
そこには、火を使って煮込んだのとは違う、独特の芳醇な香りを纏った「豚肉の味噌煮込み」が完成していた。
低温でじっくりと、時間をかけて微生物の熱が通された肉は、箸を当てるまでもなく崩れそうなほどに柔らかくなっている。
「名付けて『発酵の抱擁・火を忘れた人類への贈り物』ですわ!」
イザバラが皿に盛り付けようとしたその時、窓ガラスを突き破るような勢いで、巨大な氷の塊……のような人間が転がり込んできた。
「……あ、あ、あ……。それだ……。その、懐かしい、お母様のお腹の中のような、優しい熱の匂いは……!」
現れたのは、もはや全身がつららで覆われ、歩くたびに「パキパキ」と音を立てるジュリアン王太子だった。
彼はもはや、言葉を発するたびに口から氷の粒を吐き出している。
「殿下。また不法侵入ですの? 今回は、お鼻のつららがスープに入らないように気をつけてくださる?」
「……かまわない……。鼻がもげても、私はその温かい汁を……私の芯まで凍りついた魂を、溶かしたいんだ……!」
ジュリアンは、ひったくるようにして皿を奪うと、熱々の味噌煮込みを口に放り込んだ。
「…………ッッッ!!! は、はふっ、はふっ……!! あ、熱い! 温かい! なんだこれは、火の熱とは違う、じわじわと身体の奥底から命が再起動するような、母なる熱だぁぁぁ!」
ジュリアンの身体を覆っていた氷が、みるみるうちに溶け出し、床に大きな水溜りを作る。
彼の顔には、久しぶりに人間らしい赤みが差していた。
「……ふん。カトリーヌ様も、まさか私が『微生物』を味方につけるとは思わなかったでしょうね。……閣下、次はもっと巨大な発酵ベッドを作りましょう。王都中の冷え切った胃袋を、この『発酵の炎』で焼き尽くして差し上げるのですわ!」
イザバラは、味噌の付いたスプーンを高く掲げ、高らかに笑った。
「オホホホ! カトリーヌ様! 貴女がどんなに火を奪おうとも、生きる意欲(食欲)がある限り、命の熱は消えませんわよ!」
凍てつく王都に、再び「食の灯火」が灯った。
それは、火よりも力強く、土の底から湧き上がるような、生命の逆襲であった。
一方その頃、地下牢のカトリーヌは、自身の「零度の苔」が、なぜか一部だけドロドロに溶け始めていることに気づき、戦慄していた。
「……馬鹿な。火はないはずよ。……まさか、あの方は……『腐敗』さえも美食に変えたというの……!?」
グランシエル公爵邸の厨房。
イザバラは、毛皮のコートを三枚重ねにし、手には最高級のブランデーの瓶を握りしめて仁王立ちしていた。
彼女の目の前では、リュカ公爵が青白い顔で、カチカチに凍りついた銀の火かき棒を虚ろな目で見つめている。
「……イザバラ。たかが、ではない。薪も魔石も、近づけた瞬間に『零度の苔』の冷気に飲み込まれるのだ。加熱という概念そのものが、この街から消去された。……これは、文明の終焉だぞ」
「文明? そんな高尚なものは歴史家に任せておけばよろしいのですわ。美食家が絶望すべきは、文明の終焉ではなく、『温かいシチュー』が食べられないという現実ですわ!」
イザバラは、ドサリと足元に巨大な麻袋を投げ出した。
中から溢れ出したのは、大量の「米麹」と、湿った「藁(わら)」、そして公爵家の地下で見つけた「熟成途中の味噌」である。
「……イザバラ、何を始めるつもりだ? その腐りかけの草とカビの塊で、暖を取るつもりか?」
「あら、失礼ですわね。これはカビではなく、目に見えない『極小のシェフたち』ですわ! 閣下、火という急進的な酸化現象が使えないのなら、生命が静かに放つ『代謝の熱』を利用すればよろしいのですわ!」
イザバラは、厨房の中央に巨大な木桶を据え置くと、そこへ藁と米麹、そして適度な水分を混ぜたものをこれでもかというほど詰め込み始めた。
「発酵ですわ、閣下! 微生物たちが宴(うたげ)を開くとき、そこには確実に『熱』が宿ります。かつての賢者たちは、この熱で雛鳥を孵し、冬の寒さを凌いだと言います。……ならば、この『発酵の寝床(バイオ・リアクター)』の中に鍋を沈めれば、火を使わずに調理ができるはずですわ!」
「……狂っている。だが、君がそう言うと、それが唯一の希望に聞こえるから不思議だ」
リュカも半ば自棄(やけ)になり、イザバラを手伝って大量の藁を積み上げた。
数時間後。
巨大な堆肥のような、しかしどこか甘酸っぱい香りを放つ山が厨房に出現した。
イザバラはその中心に、たっぷりの豚肉と根菜、そして濃厚な味噌をぶち込んだ鉄鍋を深く、深く埋め込んだ。
「さあ、お休みなさい、私の愛しき食材たち。明日には、微生物たちの情熱によって、貴方たちは最高に蕩ける姿に変わっているはずですわ!」
翌朝。
厨房の温度はさらに下がっていたが、イザバラが作った「発酵の山」からは、驚くべきことに、うっすらと白い湯気が立ち上っていた。
「……信じられん。本当に、温かくなっているのか?」
リュカが震える手で山に触れると、そこには確かに、凍てつく世界で唯一の『確かな熱』が存在していた。
イザバラが、宝探しをする子供のような目つきで、山の中から鉄鍋を掘り出す。
蓋を開けた瞬間――。
「…………ああ!!」
そこには、火を使って煮込んだのとは違う、独特の芳醇な香りを纏った「豚肉の味噌煮込み」が完成していた。
低温でじっくりと、時間をかけて微生物の熱が通された肉は、箸を当てるまでもなく崩れそうなほどに柔らかくなっている。
「名付けて『発酵の抱擁・火を忘れた人類への贈り物』ですわ!」
イザバラが皿に盛り付けようとしたその時、窓ガラスを突き破るような勢いで、巨大な氷の塊……のような人間が転がり込んできた。
「……あ、あ、あ……。それだ……。その、懐かしい、お母様のお腹の中のような、優しい熱の匂いは……!」
現れたのは、もはや全身がつららで覆われ、歩くたびに「パキパキ」と音を立てるジュリアン王太子だった。
彼はもはや、言葉を発するたびに口から氷の粒を吐き出している。
「殿下。また不法侵入ですの? 今回は、お鼻のつららがスープに入らないように気をつけてくださる?」
「……かまわない……。鼻がもげても、私はその温かい汁を……私の芯まで凍りついた魂を、溶かしたいんだ……!」
ジュリアンは、ひったくるようにして皿を奪うと、熱々の味噌煮込みを口に放り込んだ。
「…………ッッッ!!! は、はふっ、はふっ……!! あ、熱い! 温かい! なんだこれは、火の熱とは違う、じわじわと身体の奥底から命が再起動するような、母なる熱だぁぁぁ!」
ジュリアンの身体を覆っていた氷が、みるみるうちに溶け出し、床に大きな水溜りを作る。
彼の顔には、久しぶりに人間らしい赤みが差していた。
「……ふん。カトリーヌ様も、まさか私が『微生物』を味方につけるとは思わなかったでしょうね。……閣下、次はもっと巨大な発酵ベッドを作りましょう。王都中の冷え切った胃袋を、この『発酵の炎』で焼き尽くして差し上げるのですわ!」
イザバラは、味噌の付いたスプーンを高く掲げ、高らかに笑った。
「オホホホ! カトリーヌ様! 貴女がどんなに火を奪おうとも、生きる意欲(食欲)がある限り、命の熱は消えませんわよ!」
凍てつく王都に、再び「食の灯火」が灯った。
それは、火よりも力強く、土の底から湧き上がるような、生命の逆襲であった。
一方その頃、地下牢のカトリーヌは、自身の「零度の苔」が、なぜか一部だけドロドロに溶け始めていることに気づき、戦慄していた。
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