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「……何だこれは! この『緊急案件』と書かれた赤いファイルの中身は、なぜ白紙なんだ!」
王宮の会議室。レナード殿下の怒鳴り声が、空っぽの胃袋に響くような虚しさで反響しました。
円卓を囲む大臣たちは、一様に死んだ魚のような目で手元の資料を眺めています。
「殿下……それはルビー様が残された『思考停止防止用トラップ』にございます」
「トラップだと? 仕事中に遊んでいたのか、あの女は!」
「いいえ。そのファイルの表紙には、小さな注釈でこう書かれております。『この案件の矛盾に気づけない者は、即刻ペンを置いて帰宅し、算数ドリルからやり直すこと』……と」
大臣の一人が震える指で、ファイルの下に隠されていた本物の書類を取り出しました。
そこには、レナードが以前適当に承認した「噴水への金粉散布予算」が、いかに国家財政を圧迫するかという地獄のような試算が記されていました。
「な、なんだこの数字は! 桁が多すぎて目が滑るぞ!」
「ルビー様がいらっしゃった頃は、これら全てを彼女が裏で調整し、殿下には『はい』か『いいえ』だけで済む選択肢を用意してくれていたのです。しかし今は……」
「今はなんだ! 申してみろ!」
「はい。現在、王宮内の事務処理速度は、以前の零点二パーセントまで低下。さらに、ルビー様が管理していた『文房具の発注管理表』がロックされたため、羽ペン一本買うのにも財務大臣の判子が必要な状態です」
会議室の隅で、シルヴィアが所在なさげにハンカチを噛んでいました。
彼女は「私が殿下をお支えします」と豪語して会議に潜り込んだものの、並んでいる単語が一つも理解できず、開始五分で置物と化していたのです。
「レナード様……そんなに難しいお話ばかりしないで、もっと楽しいことを考えましょうよ。例えば、今度の園遊会のドレスの色とか……」
「シルヴィア、今は園遊会どころではないんだ! 国境守備隊から『給料が振り込まれないなら、隣国の傭兵に転職する』という脅迫状が届いているんだぞ!」
「まあ! 転職なんて不誠実ですわ。愛国心はないのかしら?」
「愛国心で腹は膨らまない、と昨日ルビーに言われたばかりだ……っ!」
レナードは頭を抱えました。
彼がどれだけ叫ぼうとも、ルビーが構築した「超効率化システム」は、彼女という認証キーを失ったことで、鉄壁の拒絶を続けています。
「殿下、もう一つご報告が。ルビー様が個人的に契約していた『王宮専属の掃除ギルド』が、契約解除を申し出てきました」
「掃除? そんなもの、下働きの者にやらせればいいだろう!」
「それが……。あのギルドはルビー様が自腹で雇っていた精鋭でして。彼らが去った途端、王宮の東棟が埃とゴミで埋め尽くされ、足の踏み場もございません」
「自腹だと!? あいつ、そこまでやっていたのか……」
レナードの脳裏に、いつも涼しい顔で「環境の乱れは思考の乱れですわ」と言いながら、完璧に整えられた空間を提供してくれていたルビーの姿が浮かびました。
当時は「口うるさい小姑」としか思っていませんでしたが、失ってみて初めて、その「口うるささ」が国家の潤滑油だったことに気づかされたのです。
「……あ、そうだ。ルビーの家、公爵邸に直接命令を下せばいい! 『国家反逆罪』をチラつかせれば、あの女も震え上がって戻ってくるはずだ!」
「殿下、それはおやめください! ベルシュタイン公爵は、すでに昨晩、主要な門閥貴族たちと会合を持ち、『娘の不当な扱いに対する法的・経済的対抗措置』の準備を終えております」
「対抗措置……?」
「はい。もし殿下がルビー様に不当な圧力をかければ、公爵家が支援している穀物メジャーが、王都への食料供給を一時停止する……との噂です」
レナードは椅子から転げ落ちそうになりました。
婚約破棄をしただけのはずが、気づけば国家存亡の危機に直結していたのです。
「な、なんなんだ……あの女は魔女か!? たかが一人の令嬢がいなくなっただけで、なぜ国が止まる!」
「殿下。ルビー様は令嬢ではありませんでした。彼女こそが、この国の『OS(基本ソフト)』だったのです……」
書記官の哲学的な呟きは、誰にも届きませんでした。
その頃、ルビーは公爵邸の図書室で、隣国の求人票を眺めながら鼻歌を歌っていました。
「あら、王宮の方で黒煙が上がっているようですわね。……あ、あれはただの掃除不足によるカビの胞子かしら? おーほっほっほ!」
彼女の算盤は、今日も軽やかに、そして冷酷に、崩壊へのカウントダウンを刻んでいました。
王宮の会議室。レナード殿下の怒鳴り声が、空っぽの胃袋に響くような虚しさで反響しました。
円卓を囲む大臣たちは、一様に死んだ魚のような目で手元の資料を眺めています。
「殿下……それはルビー様が残された『思考停止防止用トラップ』にございます」
「トラップだと? 仕事中に遊んでいたのか、あの女は!」
「いいえ。そのファイルの表紙には、小さな注釈でこう書かれております。『この案件の矛盾に気づけない者は、即刻ペンを置いて帰宅し、算数ドリルからやり直すこと』……と」
大臣の一人が震える指で、ファイルの下に隠されていた本物の書類を取り出しました。
そこには、レナードが以前適当に承認した「噴水への金粉散布予算」が、いかに国家財政を圧迫するかという地獄のような試算が記されていました。
「な、なんだこの数字は! 桁が多すぎて目が滑るぞ!」
「ルビー様がいらっしゃった頃は、これら全てを彼女が裏で調整し、殿下には『はい』か『いいえ』だけで済む選択肢を用意してくれていたのです。しかし今は……」
「今はなんだ! 申してみろ!」
「はい。現在、王宮内の事務処理速度は、以前の零点二パーセントまで低下。さらに、ルビー様が管理していた『文房具の発注管理表』がロックされたため、羽ペン一本買うのにも財務大臣の判子が必要な状態です」
会議室の隅で、シルヴィアが所在なさげにハンカチを噛んでいました。
彼女は「私が殿下をお支えします」と豪語して会議に潜り込んだものの、並んでいる単語が一つも理解できず、開始五分で置物と化していたのです。
「レナード様……そんなに難しいお話ばかりしないで、もっと楽しいことを考えましょうよ。例えば、今度の園遊会のドレスの色とか……」
「シルヴィア、今は園遊会どころではないんだ! 国境守備隊から『給料が振り込まれないなら、隣国の傭兵に転職する』という脅迫状が届いているんだぞ!」
「まあ! 転職なんて不誠実ですわ。愛国心はないのかしら?」
「愛国心で腹は膨らまない、と昨日ルビーに言われたばかりだ……っ!」
レナードは頭を抱えました。
彼がどれだけ叫ぼうとも、ルビーが構築した「超効率化システム」は、彼女という認証キーを失ったことで、鉄壁の拒絶を続けています。
「殿下、もう一つご報告が。ルビー様が個人的に契約していた『王宮専属の掃除ギルド』が、契約解除を申し出てきました」
「掃除? そんなもの、下働きの者にやらせればいいだろう!」
「それが……。あのギルドはルビー様が自腹で雇っていた精鋭でして。彼らが去った途端、王宮の東棟が埃とゴミで埋め尽くされ、足の踏み場もございません」
「自腹だと!? あいつ、そこまでやっていたのか……」
レナードの脳裏に、いつも涼しい顔で「環境の乱れは思考の乱れですわ」と言いながら、完璧に整えられた空間を提供してくれていたルビーの姿が浮かびました。
当時は「口うるさい小姑」としか思っていませんでしたが、失ってみて初めて、その「口うるささ」が国家の潤滑油だったことに気づかされたのです。
「……あ、そうだ。ルビーの家、公爵邸に直接命令を下せばいい! 『国家反逆罪』をチラつかせれば、あの女も震え上がって戻ってくるはずだ!」
「殿下、それはおやめください! ベルシュタイン公爵は、すでに昨晩、主要な門閥貴族たちと会合を持ち、『娘の不当な扱いに対する法的・経済的対抗措置』の準備を終えております」
「対抗措置……?」
「はい。もし殿下がルビー様に不当な圧力をかければ、公爵家が支援している穀物メジャーが、王都への食料供給を一時停止する……との噂です」
レナードは椅子から転げ落ちそうになりました。
婚約破棄をしただけのはずが、気づけば国家存亡の危機に直結していたのです。
「な、なんなんだ……あの女は魔女か!? たかが一人の令嬢がいなくなっただけで、なぜ国が止まる!」
「殿下。ルビー様は令嬢ではありませんでした。彼女こそが、この国の『OS(基本ソフト)』だったのです……」
書記官の哲学的な呟きは、誰にも届きませんでした。
その頃、ルビーは公爵邸の図書室で、隣国の求人票を眺めながら鼻歌を歌っていました。
「あら、王宮の方で黒煙が上がっているようですわね。……あ、あれはただの掃除不足によるカビの胞子かしら? おーほっほっほ!」
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