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「……素晴らしい。この羽ペンの滑らかさ、インクの速乾性。そして何より、この静寂。これこそが知的生産活動に最適な環境というものですわ」
ヴァレンティーノ王国の王宮、私専用に用意された『財務特別顧問室』。
私は、エルゴノミクスに基づいた最高級の椅子に深く腰掛け、うっとりと溜息をつきました。
前の国の、カビ臭い書類整理室とは雲泥の差ですわ。
「お嬢様、失礼いたします。本日分のコーヒーと、隣国のカイル殿下より差し入れの特製モンブランでございます。……それと、非常に質の悪い紙が届いております」
セバスが銀のトレイに乗せて持ってきたのは、一通の手紙でした。
封蝋には見覚えのある、しまりのない獅子の紋章。レナード殿下の実印です。
「セバス、それを触る前に手袋はしているかしら? 無能菌が移ると困るわ」
「ご安心を。トングでつまんで参りました。……いかがいたしますか? シュレッダーにかけますか?」
「いいえ。どれだけ惨めなことが書いてあるか、娯楽として読んであげましょう。音読してちょうだい」
セバスは一度咳払いをし、仰々しく手紙を広げました。
『親愛なるルビーへ。お前がいなくなって三日が経った。王宮は今、かつてないほど静かだ。……というか、誰も仕事の仕方が分からず、全員が虚空を見つめている状態だ。シルヴィアも「書類が多すぎて目が痛い」と泣いてばかりで、私の癒やしにならない。
そこでだ、ルビー。特別に、本当に特別に、貴様の罪を許してやることにした。今すぐ戻ってくれば、以前の地位を保証し、シルヴィアの相談役として雇ってやろう。感謝して戻ってくるがいい。追伸、金庫のパスワードを忘れたので、手紙の裏に書いて返信しろ』
読み終わると同時に、部屋の中に沈黙が流れました。
私は静かにモンブランを一口食べ、その濃厚な栗の風味を堪能してから口を開きました。
「……セバス。今の文章の中に、『謝罪』や『給与の交渉』、あるいは『反省』という言葉は含まれていたかしら?」
「いいえ。確認できたのは『傲慢』が八割、『他力本願』が二割でございます」
「そう。私の読解力が落ちたわけではないのね。……殿下、相変わらず算数だけでなく国語も赤点ですわね。『許してやる』ですって? 泥棒が被害者に『盗んだものを返させてやるから感謝しろ』と言っているようなものですわ」
そこへ、ノックもなしにカイル殿下が入ってきました。
彼は私の手元にある手紙を一瞥し、不敵な笑みを浮かべました。
「おや、前の飼い主から迷い犬への呼び出しかな? ずいぶんと安っぽい紙を使っているな」
「カイル殿下、失礼ね。私は犬ではなく、フリーランスの専門職ですわ。……見てください、この内容。私がシルヴィア様の『相談役』だなんて。私の時給をいくらだと思っているのかしら」
「フッ、我が国ならその紙一枚で、地方の村一つが救えるだけの予算を君に任せている。……で、どうするんだ? 戻りたいなら止めはしないが、その手紙の返信には、我が国の最高機密である『君の笑顔』は同封させないぞ」
「あら、上手いことを言いますわね。でも安心してください。私は一度売却した株を買い戻すほど、ノスタルジーに浸る趣味はありませんの」
私はセバスから手紙を受け取り、それを丁寧に……。
縦に四分割、横に八分割して、コーヒーのコースター代わりに敷きました。
「セバス、返信を書きなさい。……内容はこうよ。『拝啓、レナード殿下。お手紙拝読いたしました。返信用の切手代が同封されていなかったので、今後のご連絡は私の弁護士を通してください。なお、パスワードのヒントを追加します。それは、あなたがシルヴィア様に贈った宝石の鑑定額の合計です。……もちろん、本物の価値ではなく、あなたが騙されて買った偽物の額の方ですよ』」
「……お嬢様、それはあまりにも酷薄ではありませんか?」
「いいのよ。彼は真実を知る必要があるわ。愛に目が眩んで、市場価格より三倍も高いガラス玉を買わされたという真実をね」
カイル殿下は声を上げて笑いました。
「ははは! やはり君を選んで正解だった。ルビー、明日の会議では、この国全土の物流網の再編案を出してもらう。……無能な王子の相手をしている暇など、君には一秒もないはずだ」
「ええ、もちろんですわ。……さあ、セバス。このコースター(手紙)がコーヒーの染みで汚れる前に、新しい仕事に取り掛かりましょうか」
私はレナード殿下の「呼び出し」を、文字通り物理的に踏み台にして、新しいデスクに向き合いました。
追いかける恋は興味ありませんが、追い越していく利益には、どこまでも情熱を燃やせるのですから。
ヴァレンティーノ王国の王宮、私専用に用意された『財務特別顧問室』。
私は、エルゴノミクスに基づいた最高級の椅子に深く腰掛け、うっとりと溜息をつきました。
前の国の、カビ臭い書類整理室とは雲泥の差ですわ。
「お嬢様、失礼いたします。本日分のコーヒーと、隣国のカイル殿下より差し入れの特製モンブランでございます。……それと、非常に質の悪い紙が届いております」
セバスが銀のトレイに乗せて持ってきたのは、一通の手紙でした。
封蝋には見覚えのある、しまりのない獅子の紋章。レナード殿下の実印です。
「セバス、それを触る前に手袋はしているかしら? 無能菌が移ると困るわ」
「ご安心を。トングでつまんで参りました。……いかがいたしますか? シュレッダーにかけますか?」
「いいえ。どれだけ惨めなことが書いてあるか、娯楽として読んであげましょう。音読してちょうだい」
セバスは一度咳払いをし、仰々しく手紙を広げました。
『親愛なるルビーへ。お前がいなくなって三日が経った。王宮は今、かつてないほど静かだ。……というか、誰も仕事の仕方が分からず、全員が虚空を見つめている状態だ。シルヴィアも「書類が多すぎて目が痛い」と泣いてばかりで、私の癒やしにならない。
そこでだ、ルビー。特別に、本当に特別に、貴様の罪を許してやることにした。今すぐ戻ってくれば、以前の地位を保証し、シルヴィアの相談役として雇ってやろう。感謝して戻ってくるがいい。追伸、金庫のパスワードを忘れたので、手紙の裏に書いて返信しろ』
読み終わると同時に、部屋の中に沈黙が流れました。
私は静かにモンブランを一口食べ、その濃厚な栗の風味を堪能してから口を開きました。
「……セバス。今の文章の中に、『謝罪』や『給与の交渉』、あるいは『反省』という言葉は含まれていたかしら?」
「いいえ。確認できたのは『傲慢』が八割、『他力本願』が二割でございます」
「そう。私の読解力が落ちたわけではないのね。……殿下、相変わらず算数だけでなく国語も赤点ですわね。『許してやる』ですって? 泥棒が被害者に『盗んだものを返させてやるから感謝しろ』と言っているようなものですわ」
そこへ、ノックもなしにカイル殿下が入ってきました。
彼は私の手元にある手紙を一瞥し、不敵な笑みを浮かべました。
「おや、前の飼い主から迷い犬への呼び出しかな? ずいぶんと安っぽい紙を使っているな」
「カイル殿下、失礼ね。私は犬ではなく、フリーランスの専門職ですわ。……見てください、この内容。私がシルヴィア様の『相談役』だなんて。私の時給をいくらだと思っているのかしら」
「フッ、我が国ならその紙一枚で、地方の村一つが救えるだけの予算を君に任せている。……で、どうするんだ? 戻りたいなら止めはしないが、その手紙の返信には、我が国の最高機密である『君の笑顔』は同封させないぞ」
「あら、上手いことを言いますわね。でも安心してください。私は一度売却した株を買い戻すほど、ノスタルジーに浸る趣味はありませんの」
私はセバスから手紙を受け取り、それを丁寧に……。
縦に四分割、横に八分割して、コーヒーのコースター代わりに敷きました。
「セバス、返信を書きなさい。……内容はこうよ。『拝啓、レナード殿下。お手紙拝読いたしました。返信用の切手代が同封されていなかったので、今後のご連絡は私の弁護士を通してください。なお、パスワードのヒントを追加します。それは、あなたがシルヴィア様に贈った宝石の鑑定額の合計です。……もちろん、本物の価値ではなく、あなたが騙されて買った偽物の額の方ですよ』」
「……お嬢様、それはあまりにも酷薄ではありませんか?」
「いいのよ。彼は真実を知る必要があるわ。愛に目が眩んで、市場価格より三倍も高いガラス玉を買わされたという真実をね」
カイル殿下は声を上げて笑いました。
「ははは! やはり君を選んで正解だった。ルビー、明日の会議では、この国全土の物流網の再編案を出してもらう。……無能な王子の相手をしている暇など、君には一秒もないはずだ」
「ええ、もちろんですわ。……さあ、セバス。このコースター(手紙)がコーヒーの染みで汚れる前に、新しい仕事に取り掛かりましょうか」
私はレナード殿下の「呼び出し」を、文字通り物理的に踏み台にして、新しいデスクに向き合いました。
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