12 / 28
12
しおりを挟む
「……ふぅ。これで物流ルートの最適化、及び関税の見直し案が完了しましたわ。セバス、清書に回しておいてちょうだい」
深夜の顧問室。
私は最後の一行を書き終え、ペンを置きました。
窓の外には、静まり返ったヴァレンティーノ王国の美しい夜景が広がっています。
前の国では、この時間はまだレナード殿下の「深夜のポエム付き愚痴メール」の処理に追われていたものでしたわ。
「……お疲れのようだな。仕事中毒(ワークホリック)もほどほどにしろ」
突然、背後の扉が開きました。
振り返ると、そこには公式の場での正装を解き、少し寛いだ格好のカイル殿下が立っていました。
手には、二つのカップと小さな木箱を持っています。
「カイル殿下? このような時間に、護衛も連れずにどうされたのですか? 危機管理能力を疑いますわよ」
「君にだけは言われたくないな。深夜二時に財務報告書を更新している女の台詞か、それが。……ほら、茶を淹れてきた。一息つけ」
彼は迷いなく私の向かいの席に座り、カップを差し出しました。
立ち上る香りは、私が最も好む最高級の東方茶……。
さらに木箱を開けると、そこには宝石のように繊細なマカロンが並んでいました。
「……あら、この茶葉の銘柄。私の好みを把握していらっしゃるの?」
「君の経費精算書を見れば一目瞭然だ。君は嗜好品に関しては妥協しない。……効率を追求する者は、燃料にもこだわるべきだ、というのが私の持論でね」
「ふふ、合理的で結構ですわ。いただきます」
温かいお茶が、冷え切った思考をじんわりと解きほぐしていきます。
カイル殿下は、私がマカロンを一口食べるのを見届けると、ふっと表情を和らげました。
「グリムから報告を聞いた。あのバカ王子の資産を差し押さえて、奨学金に回したそうだな」
「ええ。ゴミを宝に変える錬金術ですわ。……でも、カイル殿下。これは単なる慈善事業ではありませんのよ? 教育に投資することは、十年後の納税者の質を上げること。つまり、長期的な増税戦略なのです」
「……どこまでも可愛げがないな、君は。だが、その『可愛げのなさ』こそが、私が君を信頼する最大の理由だ」
カイル殿下は身を乗り出し、じっと私の瞳を覗き込んできました。
月の光が彼の銀髪を照らし、いつもより声のトーンが低く響きます。
「前の国では、君の能力は『便利屋』としてしか扱われていなかった。だが、ここでは違う。私は君の出す数字を、国家の心音だと思っている」
「……国家の、心音?」
「ああ。君が書類を整えるたび、この国の血流が良くなる。……ルビー、私は君をただの顧問として見ているわけではない。君という存在そのものが、私の理想とする国の形だ」
……困りましたわ。
脳内の計算機が、急にエラーを吐き出しました。
今まで「有能な道具」として褒められたことは何度もありましたが、「理想の形」だなんて言われたのは初めてです。
「カイル殿下。そのような……甘い言葉を並べても、報酬の引き下げ交渉には応じませんわよ?」
「誰がそんなことを言った。むしろ、永久契約(結婚)を結んだ場合の追加ボーナスについて、提案しようと思っていたところだ」
「……えっ?」
「君ほどの女を、他国へ渡すリスクは取れない。……君が望むなら、この国の半分を君の『専用予算』として与えてもいい。どうだ、私と心中する気はないか? 経済的な意味でも、人生的な意味でも」
カイル殿下の手が、机の上に置かれた私の手に重なりました。
その体温は意外なほど熱く、私の心拍数は、一分間あたりの平均値を大幅に超えて上昇していきます。
「……カイル殿下。それは、その……非常に投資価値の高いご提案ですわね」
「だろう? 断る理由は、私の顔が君の好みではない、という一点以外に見当たらないはずだ」
「……お顔立ちは、満点ですわ。左右対称(シンメトリー)で、鼻筋の角度も黄金比に近い。……困りましたわ、これでは損得勘定が働きません」
私は赤くなった顔を隠すように、最後の一つになったマカロンを口に放り込みました。
甘いはずのマカロンが、今は少しだけ胸を締め付ける味がしました。
「……返事は、次回の四半期報告書の時まで待っていただけますかしら?」
「フッ、いいだろう。君らしい締め切り設定だ。……では、今夜はこれでお開きだ。しっかり眠れ、ルビー。君の健康管理も、私の重要な『国家資産』の維持項目だからな」
カイル殿下は私の手の甲に軽く唇を寄せ、風のように去っていきました。
一人残された顧問室。
私は再びペンを握ろうとしましたが、手が震えて上手く文字が書けません。
「……全く、想定外ですわ。恋という変数が、これほどまでに論理的思考を妨げるなんて」
窓の外の夜景が、さっきよりも少しだけ輝いて見えるのは、きっと気のせいではありませんわ。
ルビー・フォン・ベルシュタイン。
私の冷徹な算盤が、初めて「愛」という名の予測不能な数字を弾き始めた夜でした。
深夜の顧問室。
私は最後の一行を書き終え、ペンを置きました。
窓の外には、静まり返ったヴァレンティーノ王国の美しい夜景が広がっています。
前の国では、この時間はまだレナード殿下の「深夜のポエム付き愚痴メール」の処理に追われていたものでしたわ。
「……お疲れのようだな。仕事中毒(ワークホリック)もほどほどにしろ」
突然、背後の扉が開きました。
振り返ると、そこには公式の場での正装を解き、少し寛いだ格好のカイル殿下が立っていました。
手には、二つのカップと小さな木箱を持っています。
「カイル殿下? このような時間に、護衛も連れずにどうされたのですか? 危機管理能力を疑いますわよ」
「君にだけは言われたくないな。深夜二時に財務報告書を更新している女の台詞か、それが。……ほら、茶を淹れてきた。一息つけ」
彼は迷いなく私の向かいの席に座り、カップを差し出しました。
立ち上る香りは、私が最も好む最高級の東方茶……。
さらに木箱を開けると、そこには宝石のように繊細なマカロンが並んでいました。
「……あら、この茶葉の銘柄。私の好みを把握していらっしゃるの?」
「君の経費精算書を見れば一目瞭然だ。君は嗜好品に関しては妥協しない。……効率を追求する者は、燃料にもこだわるべきだ、というのが私の持論でね」
「ふふ、合理的で結構ですわ。いただきます」
温かいお茶が、冷え切った思考をじんわりと解きほぐしていきます。
カイル殿下は、私がマカロンを一口食べるのを見届けると、ふっと表情を和らげました。
「グリムから報告を聞いた。あのバカ王子の資産を差し押さえて、奨学金に回したそうだな」
「ええ。ゴミを宝に変える錬金術ですわ。……でも、カイル殿下。これは単なる慈善事業ではありませんのよ? 教育に投資することは、十年後の納税者の質を上げること。つまり、長期的な増税戦略なのです」
「……どこまでも可愛げがないな、君は。だが、その『可愛げのなさ』こそが、私が君を信頼する最大の理由だ」
カイル殿下は身を乗り出し、じっと私の瞳を覗き込んできました。
月の光が彼の銀髪を照らし、いつもより声のトーンが低く響きます。
「前の国では、君の能力は『便利屋』としてしか扱われていなかった。だが、ここでは違う。私は君の出す数字を、国家の心音だと思っている」
「……国家の、心音?」
「ああ。君が書類を整えるたび、この国の血流が良くなる。……ルビー、私は君をただの顧問として見ているわけではない。君という存在そのものが、私の理想とする国の形だ」
……困りましたわ。
脳内の計算機が、急にエラーを吐き出しました。
今まで「有能な道具」として褒められたことは何度もありましたが、「理想の形」だなんて言われたのは初めてです。
「カイル殿下。そのような……甘い言葉を並べても、報酬の引き下げ交渉には応じませんわよ?」
「誰がそんなことを言った。むしろ、永久契約(結婚)を結んだ場合の追加ボーナスについて、提案しようと思っていたところだ」
「……えっ?」
「君ほどの女を、他国へ渡すリスクは取れない。……君が望むなら、この国の半分を君の『専用予算』として与えてもいい。どうだ、私と心中する気はないか? 経済的な意味でも、人生的な意味でも」
カイル殿下の手が、机の上に置かれた私の手に重なりました。
その体温は意外なほど熱く、私の心拍数は、一分間あたりの平均値を大幅に超えて上昇していきます。
「……カイル殿下。それは、その……非常に投資価値の高いご提案ですわね」
「だろう? 断る理由は、私の顔が君の好みではない、という一点以外に見当たらないはずだ」
「……お顔立ちは、満点ですわ。左右対称(シンメトリー)で、鼻筋の角度も黄金比に近い。……困りましたわ、これでは損得勘定が働きません」
私は赤くなった顔を隠すように、最後の一つになったマカロンを口に放り込みました。
甘いはずのマカロンが、今は少しだけ胸を締め付ける味がしました。
「……返事は、次回の四半期報告書の時まで待っていただけますかしら?」
「フッ、いいだろう。君らしい締め切り設定だ。……では、今夜はこれでお開きだ。しっかり眠れ、ルビー。君の健康管理も、私の重要な『国家資産』の維持項目だからな」
カイル殿下は私の手の甲に軽く唇を寄せ、風のように去っていきました。
一人残された顧問室。
私は再びペンを握ろうとしましたが、手が震えて上手く文字が書けません。
「……全く、想定外ですわ。恋という変数が、これほどまでに論理的思考を妨げるなんて」
窓の外の夜景が、さっきよりも少しだけ輝いて見えるのは、きっと気のせいではありませんわ。
ルビー・フォン・ベルシュタイン。
私の冷徹な算盤が、初めて「愛」という名の予測不能な数字を弾き始めた夜でした。
1
あなたにおすすめの小説
働かないつもりでしたのに、気づけば全部うまくいっていました ――自由に生きる貴族夫人と溺愛旦那様』
鷹 綾
恋愛
前世では、仕事に追われるだけの人生を送り、恋も自由も知らないまま終わった私。
だからこそ転生後に誓った――
「今度こそ、働かずに優雅に生きる!」 と。
気づけば貴族夫人、しかも結婚相手は冷静沈着な名門貴族リチャード様。
「君は何もしなくていい。自由に過ごしてくれ」
――理想的すぎる条件に、これは勝ち確人生だと思ったのに。
なぜか気づけば、
・屋敷の管理を改善して使用人の待遇が激変
・夫の仕事を手伝ったら経理改革が大成功
・興味本位で教えた簿記と珠算が商業界に革命を起こす
・商人ギルドの顧問にまで祭り上げられる始末
「あれ? 私、働かない予定でしたよね???」
自分から出世街道を爆走するつもりはなかったはずなのに、
“やりたいことをやっていただけ”で、世界のほうが勝手に変わっていく。
一方、そんな彼女を静かに見守り続けていた夫・リチャードは、
実は昔から彼女を想い続けていた溺愛系旦那様で――。
「君が選ぶなら、私はずっとそばにいる」
働かないつもりだった貴族夫人が、
自由・仕事・愛情のすべてを“自分で選ぶ”人生に辿り着く物語。
これは、
何もしないはずだったのに、幸せだけは全部手に入れてしまった女性の物語。
婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。
黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」
豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。
しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。
あの日々に戻りたくない!自称聖女の義妹に夫と娘を奪われた妃は、死に戻り聖女の力で復讐を果たす
青の雀
恋愛
公爵令嬢スカーレット・ロッテンマイヤーには、前世の記憶がある。
幼いときに政略で結ばれたジェミニ王国の第1王子ロベルトと20歳の時に結婚した。
スカーレットには、7歳年下の義妹リリアーヌがいるが、なぜかリリアーヌは、ロッテンマイヤー家に来た時から聖女様を名乗っている。
ロッテンマイヤーは、代々異能を輩出している家柄で、元は王族
物語は、前世、夫に殺されたところから始まる。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
旦那様には愛人がいますが気にしません。
りつ
恋愛
イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。
※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。
裏切られた令嬢は、30歳も年上の伯爵さまに嫁ぎましたが、白い結婚ですわ。
夏生 羽都
恋愛
王太子の婚約者で公爵令嬢でもあったローゼリアは敵対派閥の策略によって生家が没落してしまい、婚約も破棄されてしまう。家は子爵にまで落とされてしまうが、それは名ばかりの爵位で、実際には平民と変わらない生活を強いられていた。
辛い生活の中で母親のナタリーは体調を崩してしまい、ナタリーの実家がある隣国のエルランドへ行き、一家で亡命をしようと考えるのだが、安全に国を出るには貴族の身分を捨てなければいけない。しかし、ローゼリアを王太子の側妃にしたい国王が爵位を返す事を許さなかった。
側妃にはなりたくないが、自分がいては家族が国を出る事が出来ないと思ったローゼリアは、家族を出国させる為に30歳も年上である伯爵の元へ後妻として一人で嫁ぐ事を自分の意思で決めるのだった。
※作者独自の世界観によって創作された物語です。細かな設定やストーリー展開等が気になってしまうという方はブラウザバッグをお願い致します。
《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。
ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」
その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。
厄介払いされてしまいました
たくわん
恋愛
侯爵家の次女エリアーナは、美人の姉ロザリンドと比べられ続け、十八年間冷遇されてきた。
十八歳の誕生日、父から告げられたのは「辺境の老伯爵に嫁げ」という厄介払いの命令。
しかし、絶望しながらも辺境へ向かったエリアーナを待っていたのは――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる