悪役令嬢として婚約破棄されましたが、異議はありません。

鏡おもち

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「……ふぅ。これで物流ルートの最適化、及び関税の見直し案が完了しましたわ。セバス、清書に回しておいてちょうだい」

 深夜の顧問室。
 私は最後の一行を書き終え、ペンを置きました。
 窓の外には、静まり返ったヴァレンティーノ王国の美しい夜景が広がっています。
 前の国では、この時間はまだレナード殿下の「深夜のポエム付き愚痴メール」の処理に追われていたものでしたわ。

「……お疲れのようだな。仕事中毒(ワークホリック)もほどほどにしろ」

 突然、背後の扉が開きました。
 振り返ると、そこには公式の場での正装を解き、少し寛いだ格好のカイル殿下が立っていました。
 手には、二つのカップと小さな木箱を持っています。

「カイル殿下? このような時間に、護衛も連れずにどうされたのですか? 危機管理能力を疑いますわよ」

「君にだけは言われたくないな。深夜二時に財務報告書を更新している女の台詞か、それが。……ほら、茶を淹れてきた。一息つけ」

 彼は迷いなく私の向かいの席に座り、カップを差し出しました。
 立ち上る香りは、私が最も好む最高級の東方茶……。
 さらに木箱を開けると、そこには宝石のように繊細なマカロンが並んでいました。

「……あら、この茶葉の銘柄。私の好みを把握していらっしゃるの?」

「君の経費精算書を見れば一目瞭然だ。君は嗜好品に関しては妥協しない。……効率を追求する者は、燃料にもこだわるべきだ、というのが私の持論でね」

「ふふ、合理的で結構ですわ。いただきます」

 温かいお茶が、冷え切った思考をじんわりと解きほぐしていきます。
 カイル殿下は、私がマカロンを一口食べるのを見届けると、ふっと表情を和らげました。

「グリムから報告を聞いた。あのバカ王子の資産を差し押さえて、奨学金に回したそうだな」

「ええ。ゴミを宝に変える錬金術ですわ。……でも、カイル殿下。これは単なる慈善事業ではありませんのよ? 教育に投資することは、十年後の納税者の質を上げること。つまり、長期的な増税戦略なのです」

「……どこまでも可愛げがないな、君は。だが、その『可愛げのなさ』こそが、私が君を信頼する最大の理由だ」

 カイル殿下は身を乗り出し、じっと私の瞳を覗き込んできました。
 月の光が彼の銀髪を照らし、いつもより声のトーンが低く響きます。

「前の国では、君の能力は『便利屋』としてしか扱われていなかった。だが、ここでは違う。私は君の出す数字を、国家の心音だと思っている」

「……国家の、心音?」

「ああ。君が書類を整えるたび、この国の血流が良くなる。……ルビー、私は君をただの顧問として見ているわけではない。君という存在そのものが、私の理想とする国の形だ」

 ……困りましたわ。
 脳内の計算機が、急にエラーを吐き出しました。
 今まで「有能な道具」として褒められたことは何度もありましたが、「理想の形」だなんて言われたのは初めてです。

「カイル殿下。そのような……甘い言葉を並べても、報酬の引き下げ交渉には応じませんわよ?」

「誰がそんなことを言った。むしろ、永久契約(結婚)を結んだ場合の追加ボーナスについて、提案しようと思っていたところだ」

「……えっ?」

「君ほどの女を、他国へ渡すリスクは取れない。……君が望むなら、この国の半分を君の『専用予算』として与えてもいい。どうだ、私と心中する気はないか? 経済的な意味でも、人生的な意味でも」

 カイル殿下の手が、机の上に置かれた私の手に重なりました。
 その体温は意外なほど熱く、私の心拍数は、一分間あたりの平均値を大幅に超えて上昇していきます。

「……カイル殿下。それは、その……非常に投資価値の高いご提案ですわね」

「だろう? 断る理由は、私の顔が君の好みではない、という一点以外に見当たらないはずだ」

「……お顔立ちは、満点ですわ。左右対称(シンメトリー)で、鼻筋の角度も黄金比に近い。……困りましたわ、これでは損得勘定が働きません」

 私は赤くなった顔を隠すように、最後の一つになったマカロンを口に放り込みました。
 甘いはずのマカロンが、今は少しだけ胸を締め付ける味がしました。

「……返事は、次回の四半期報告書の時まで待っていただけますかしら?」

「フッ、いいだろう。君らしい締め切り設定だ。……では、今夜はこれでお開きだ。しっかり眠れ、ルビー。君の健康管理も、私の重要な『国家資産』の維持項目だからな」

 カイル殿下は私の手の甲に軽く唇を寄せ、風のように去っていきました。

 一人残された顧問室。
 私は再びペンを握ろうとしましたが、手が震えて上手く文字が書けません。

「……全く、想定外ですわ。恋という変数が、これほどまでに論理的思考を妨げるなんて」

 窓の外の夜景が、さっきよりも少しだけ輝いて見えるのは、きっと気のせいではありませんわ。
 ルビー・フォン・ベルシュタイン。
 私の冷徹な算盤が、初めて「愛」という名の予測不能な数字を弾き始めた夜でした。
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