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第50話(終)
しおりを挟むほどけた心は、素直に彼へ思いを唱えた。
「だけど、これ以上、傷つきたくない…」
僕の胴をぐるりと囲んで腕は、さらに抱き込んで僕の心音を探っているようだった。
「あなたの隣に僕よりもふさわしい人がいます…、僕は歓迎されていない…。だけど、僕はすごくわがままで、…あなたの一番でないと、嫌なんです」
ごめんなさい、と語尾が小さくなって情けなさに背筋が冷えてくる。
「ようやく…」
彼の柔らかな声が聞こえたあとに、こめかみに、ちゅ、と控え目なリップ音が響く。顔をあげると、ローレンは目を細めて嬉しそうに緩んだ顔をしていた。
「ようやく、わがままを言ってもらえた」
長い指先が地肌を撫でて、毛先をさらりと落とす。エリオンにしていたような仕草に、羞恥が宿る。
それから、額にしっとりと唇が吸い付く。
「世界で一番愛しいのはセリ、お前だけだ」
瞳は薄い膜を張って潤んでいる。青の宝石に一切の淀みはない。あまりにもまっすぐに愛を謳われてしまい、口の中が落ち着かない。
「で、でも…若くて、可愛くて、愛想が良くて賢くて、健康なオメガなんて、…あなたにふさわしい方はたくさんいます。血筋も良い…」
「そんなことは、私も言えるだろう? 私よりも美しく、たくましく、身分の良いアルファはたくさんいる…」
「いません! ローレンほど美しく、愛情深い方…」
一瞬、ローレンの瞳が下がって寂し気に揺れた。間髪入れずに言葉が滑り出た。しかし、ローレンは僕の言葉を聞くと目を見張ってから、頬をあげる。
頬が熱くなり、居場所がなくなる気持ちだった。視線を彷徨わせて、隠れようとしたいのに、彼の長い腕は一切、僕を離さない。顔を背けると、紅潮した頬に、彼がキスをした。
「私たちは同じ思いを、ちゃんと抱ける夫婦だな」
夫婦。
心の中でつぶやくと、やっぱりまだむず痒い。
「けど…、ん」
ちゅ、と今度は唇が吸われる。軽快な音を立てて、長い睫毛が僕の頬をかすめて、離れていく。ぱち、ぱち、とまばたきを繰り返して、驚きに固まっていると、そんな僕を見て、彼はとろけた笑みを惜しみなく見せる。
「納得するまで、いくらでも話そう。これから、私たちは永遠に一緒にいるのだから」
目頭が熱くなって、顔をしかめる。
五年前では想像もできなかった。
あの婚礼の儀では、瞳すら交わることはなかった。誓いの口づけすらも拒まれてしまった。
その彼が、今、僕を一心に見つめて、愛を謳い、唇を合わせる。
こつり、と額を合わせて長い睫毛を伏せた彼は、うっとりと囁く。
「それは、死すらも私たちを別つことはできないだろう。それが、魂の番なのだ」
(魂の、番…)
絵空事だと思っていた、伝聞でしか知り得ない言葉を彼が大切そうにつぶやいた。
世界でたった一人、ずっと恋忍び、愛を募らせてきた、アルファから与えられるものに、涙が止めどなく零れる。
「世界でたった一人の、私の愛する人」
―――セリ、ずっと傍にいさせてほしい。
毛先を梳かれ、頬を撫で、うなじにそ、と指先が触れる。びり、と待ち望んだ番の愛に全身が震え、ふ、と頬が緩み吐息が溢れた。
「…はい」
僕の愛する、たった一人のアルファ…
通じ合う日が来るだなんて、都合の良い妄想だと思っていた。
本当に、本当に、彼から求められる日が来るなんて。
夕日は彼の滑らかな陶器肌を温かに照らし、ちらちら、と潤みを持った瞳は虹色に光る。その奥には、穏やかで晴れやかな青空が広がる。中心には、まっすぐに僕だけが映っている。
甘やかな、彼の薔薇の香りが風に乗ってやってくる。それは、僕を守るように、愛するように包み込む。
僕たちは、もう一度、誓いのキスをする。
引き戸を開けるとまっすぐに差し込む日差しに目をすがめる。
「ママ!」
「エル!」
朗らかな弾ける声が聞こえると、まっすぐに僕の腕の中に飛び込んできてくれた。それを思い切り、ぎゅうぎゅうと抱きしめる。
「ママ、会いたかった!」
胸元でぐりぐりと頭をこすりつける我が子に、ごめんね、と返す。
あの日、ローレンと本当の思いを通じ合った雪残る日。会っていなかった三年分の発情期が訪れたようで、街が見える頃には自分では歩けなくなっていた。最初は昨日の熱が残っているのかと思ったけれど、彼から溢れる薔薇の香りは強まる一方で、忘れていた下腹部の疼きがうなじを刺激した。そう思うと、エリオンを身籠ってから身体を壊したことはなかったのに、彼と出会った途端、発熱したのは発情の症状だったのかもしれない。
僕を家に連れていくと、すぐに布団に寝かせてくれた。ふうふう、と息をするだけで身動きひとつとれない僕の代わりに、彼は丁度帰ってきたエリオンを花屋に預けて、僕の体調が回復するまでの数日間、そこで過ごすように説得してくれたらしい。花屋に僕の家に誰も近づけるな、けれど食料は持ってこい、一応医者もいつでも来れるように言っておけ、など散々理不尽なお願いをしていた、というのも、先ほど花屋から聞いた。
布団の上で荒い息遣いをする僕に気づいて駆け寄ってきたエリオンの顔がぼんやりと記憶にある。
「ママ…! どうしたの? おかぜ? 大丈夫?」
矢継ぎ早に質問をされるが、答えたいのに喉が声を出せずに、ただやんわりと微笑むことで精いっぱいだった。
「エリオン」
凛とした声がまっすぐに耳に届く。それだけで、うなじがじりり、と焦げ付いて、息を飲む。エリオンは声がした方に振り向いて、ロナ、と小さく答える。
「セリは具合が悪い」
「ママ、病気なの? 大丈夫なの?」
僕の枕元へきたローレンは膝をついて、エリオンと目線を合わせる。
「エリオン、セリを治せるのは、世界で私だけなのだ」
はっきりと言われると、身体の奥で隠れていた蕾が花開こうと動き出す。
エリオンは理解ができないようで、ぐず、と鼻を鳴らしだしてしまう。
「まま…、ふぇ…、ママぁ…」
ローレンと僕とを交互に見ては、大きなはしばしの瞳を潤ませていく。大粒の涙が盛り上がって、ぼろ、と零れてしまった。
重い手をなんとか持ち上げて、その涙を拭い頬を包む。小さな手が僕の手を必死に握り返す。
「大丈夫だから…、すぐ、よくなるよ…」
「大丈夫だ」
後ろからローレンも援護してくれる。
「死ぬものではない。…エリオンの愛する人を、私に任せてくれるか?」
深く優しい染み入る声だった。
エリオンは、僕の手を握りしめながら、しばらく黙ってから、小さく首を縦に振った。
ローレンに向き直ると、エリオンはぺこり、と頭を下げた。
「ママを…おねがいします…」
理解の良い、賢い返事に僕自身も目を見張る。
ローレンは、大きい手のひらで柔らかな銀色の髪を撫でる。
「いい子だ」
そう優しくつぶやいて、エリオンの頬にキスをした。
エリオンは部屋を出る前に僕に一度抱き着いて、ローレンがしてくれたのと同じように、僕にも頬にキスをして、ママだいすき、と囁いて涙いっぱいの顔で笑ってくれた。ローレンと手を握り合って、家を後にした。
それから、僕たちは、ようやくお互いがお互いを好き合っていたのだと自覚して初めての発情期を迎えた。十数年に渡るその時間は、あまりにも熱く、とろける時間だった。時間があまりにも濃かったからなのか、たった三日で発情期は収まった。
もう発情期は終わった、と言っても、彼は一切それを認めずに、結局五日あまり、僕たちは爛れた夜をいくつも越してしまった。
エリオンを抱きしめたまま立ち上がろうとしたのに、足腰に力が入らずに一つも腰をあげられなかった。
「エリオン」
よろけた僕に気づいてか、ローレンがエリオンの後ろから彼の脇に手をいれて抱き上げる。
わあっ、と高い声を出して、エリオンは頬を染めて笑い声をあげる。
「ロナ!」
会いたかったよ! と、易々とエリオンを抱き上げたローレンに嬉しそうに抱き着く。
「待っていてくれてありがとう」
「こちらこそ、ママをありがとう」
そう言って笑い合う二人は、お互いの頬にキスをしあった。じんわりと指先が熱くなる。
ローレンに抱きしめられて、ふふ、と笑うエリオンの腕に触れる。ぱ、と僕に振り返って、ママ~、と手を差し伸べてくる。それを握り返して、まっすぐにエリオンを
見つめる。
「エル…、今まで言ってこなかったのだけど、エルのパパはね…」
改めて言う、となると、すごく緊張する。唇をきゅ、と引き結んで、息を飲み込む。
エリオンは、どう思うだろうか。
(もし、エリオンが嫌がったら…)
そうなってしまったら。僕は…。
また、彼と離れることを選ぶのか、と思うと、ようやく結ばれたものが無惨に切り裂かれていく。
しかし、どうやっても、エリオンの気持ちが僕にとって一番大切なものなのだ。
できれば、エリオンにも、大切にしてもらえたら、と願う。
エリオンは、ローレンになついている。父親がいなかったから、若い男の人に甘えているのだと思う。それか、本能的に、感じるものがあるのか。
今も、ローレンの腕の中にすっぽりと収まって、生まれた時からそこにいた、という佇まいだと感じるほど、しっくりと合わさっている。
だったら、と一抹の希望を抱くのは、都合が良すぎるだろうか。
「ママ」
勝手に視線は下がっていたようで、エリオンが気にかけて声をかけてくれた。顔をあげると、エリオンはまんまるの綺麗なはしばみの瞳に僕を映して、桃色の唇でつぶやいた。
「ぼく、ぼくのパパは、ロナがいい」
瞠目してエリオンを見つめると、彼はにっこりと笑って、僕の手を握りながら、ローレンを見上げた。ローレンも眉を上げて驚いているようだった。
「ロナは、世界で一番かっこよくて、王子様みたい。それに、お料理もとっても上手だし、僕のしらないことをたっくさん知ってて、かっこいいの!」
「エリオン…」
ローレンはかすれた声で息子の名前を囁く。そして、大きな手のひらで銀色の丸い頭を撫でる。くふ、と笑いながらうっとりと目を細める。
「それにね」
エリオンは柔らかい声で付け加えると、ちらりと僕を見てから、ころころと微笑んだ。
「ママが、ロナといると嬉しそうなの。ぽってお顔が赤くなるんだよ~?」
え、と声に出さずに頬を隠すが、そんな僕を見て、肩をすくませてエリオンは笑っている。
ローレンはエリオンに身体を寄せて抱きしめる。きゃあ、と高い声が響く。
「私に似て、セリのことが大好きなのだな」
「うん! ぼく、ママのことだ~いすきっ!」
そう言ったエリオンは僕の手を離す。そして、ローレンに両手で抱き着く。胸元で温め合う父親と息子は、幸せそのものの姿だった。
「愛しているよ、エリオン」
一つずつの音を丁寧につむいだローレンは、エリオンのつむじにキスを落とす。エリオンはふっくらとした頬を真っ赤に染めて、長い睫毛を伏せていた。
「パパからママのにおいがする」
二人の匂いがまざっていい匂い、と笑って、父親の胸元に顔を擦り付けた。
(こんな未来、あえりないと思ってた…)
僕のわがままで、たくさん彼を傷つけて、最後に逃げてしまった。彼はこの三年、孤独の中をもがき、今、こうして僕を迎えに来てくれた。
その中で、僕は、愛する彼の最後の別れ形見だと、愛しい我が子と裕福ではないけれど、それは幸せな生活の日々だった。
愛しいからこそ、自分のふがいなさに、本当はローレンと暮らした方が、エリオンにとっては幸せなのではないだろうかと思った日も少なくはない。
けれど、その中に、自分は入れないのだと思い続けてきた。
だから、どんなに苦しい生活でも、エリオンに父親が必要なのだと感じても、ローレンの元へ行くことは考えられなかった。
「エリオン」
同じ美しい銀色の飴細工のように繊細に輝く髪が陽に反射する。陶器のように真っ白な肌の二人は、そっくりだった。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
誕生日、おめでとう。
続けて、彼がゆったりと告げる。
三年前のこの日、僕は一人でこの子を産んだ。約一日、陣痛が続いて、死んでしまうのではないかと何度も意識を失いかけた。その上で、ようやく出会えた我が子は、たくましく泣いていて、愛しい命に身体が震えたことを、昨日のように思い出せる。
「ありがとう、パパ」
小さい手のひらがローレンの頬をつかむと、唇を寄せた。
それから、エリオンは僕に振り返って、手を伸ばす。
情けなく、大粒の涙が幾重にも溢れて止まらない。温かな手のひらを握りしめると、大きな手のひらが、エリオンごと僕を抱き寄せる。
「生まれてきてくれて、…ありが、とう」
ちゃんと、はっきり伝えたかったのに、涙に邪魔されて詰まってしまった。
その涙を小さい指先と、かさついた指先が拭ってくれる。
ずっと、陰日向を生きるのが、僕の運命なのだと思っていた。
初めて恋を教えてくれた、たった一人のアルファは誰からも認められる、日向にいる人だった。
その人を陰日向から見つめて、恋焦がれるだけが僕だった。
一瞬、日陰と交わる奇跡に出会えた我が子をも、陰日向に巻き込んでしまった負い目が常にあった。息子も、陰日向に追い込んでしまった。
陰日向で愛を紡ぎ、愛を育み、愛を馳せる人生なのだと思っていた。
僕の手を引いて、日向に迎え入れてくれたのは、世界でたった一人の、愛する番だった。
温かな日差しに包まれて、僕たちは初めて、ひとつになれた。
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