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第5話
しおりを挟む義母が来た翌日だった。
いつも通り、十人は座れるだろう広いダイニングテーブルで僕は一人で夕食を食べていた。近くには執事が控えている。けれど、子を成さない当主のお荷物である僕が気軽に話しかけてはいけない。そういう距離感でいつも一緒にいた。困っていれば助けてくれる。それが、彼らの仕事だからだ。
今日も料理はおいしい。地域の違う僕のために、同じ地元出身のシェフを雇っているらしい。だから、食事に苦労したことはない。細かな気遣いのできる執事に、とても感謝している。少しずつ、こちらの地域の味に馴染むように調理をしてくれていて、今では、近くのレストランのものでもおいしいと思えるようになっていた。
いつもと違うと思ったのは、目の前にもう一食分、食事が用意されていることだった。温かなスープやメイン料理だけが置かれておらず、パンやサラダと空のコップが用意されている。
首を傾げながらも、執事に聞くのもしのばれて、きっと、お客さんが来るのだと思い、僕はいつもよりも早めにスプーンを口に運んでいく。
遠くから、扉を開く音がして、おかえりなさいませ、と執事たちの声がうっすらと聞こえる。その足音はばたばたと音をたてながら、まっすぐにここへと向かってくる。振り返ると、息を切らしたローレンが現れた。
長い銀髪がやや乱れて、ちらちらと室内の灯りに光って見えた。驚きつつも、急いで立ち上がって、頭を下げる。
「お、おかえり、なさいませ…」
ローレンにおかえりなさい、と言うのは、二度目のことだった。
今までは、僕が自室以外にいる時には顔を合せなかった。最初の頃は、挨拶に降りた方が良いと思っていて、日付が変わる頃まで起きて、ようやく帰ってきた彼を眠たげな顔で迎えたせいで、舌打ちをして、無理をするな、と嫌がられてしまった。それからは、疲れた彼にわざわざ嫌な顔をさせてしまうのではないかと思い、自室内でドアの中から、おかえりなさいませ、と心の中でつぶやくだけにした。
心の準備もないままだったから、執事たちと同じようにするしか考えが至らなかった。
(これで、あってるのかな…)
手入れのよくされた木目の床を見つめながら、頭の中をぐるぐる回す。すると、視界の中に僕よりもサイズの大きい室内履きの爪先が現れた。
戸惑いながらも、視線をちらり、とあげると、ローレンは、肩で大きく溜め息をつくと、僕と目が合った。
「今日、母が…」
まっすぐに碧眼が僕を見下ろして、口を開いた。しかし、僕が小首をかしげると、すぐに口をつぐんでしまった。
「いや、なんでもない」
踵を返す彼に、義母に何か言われたのだろうか、と考えを巡らすが、その答えに行きつく前に、ダイニングテーブルを回って、目の前にローレンが静かに腰掛けた。すぐに執事たちが周囲にやってきて、ワインを注ぎ、柔らかな湯気を立てるチキンとスープを持ってきた。
フォークとナイフを持ち、チキンにたてるローレンがいて、どうすれば良いのかわからずに、佇んでいると、ちら、と何度か僕を見てから、小さく切ったチキンを口に運んだ。それを飲み落としてから、小さくローレンがつぶやく。
「早く、食べろ」
意図がわからないが、彼がそう言うのであれば、そうすべきなのだ。僕も小声で、失礼します、と言って元居た場所に腰掛ける。かちゃ、かちゃ、と食器の音が広い部屋に吸い込まれていく。
もう食欲がわかなくて、スープだけをちみちみとスプーンですすっていく。その間に、突然現れた当主に、視線を送るが、彼がこちらを見ることはない。
緊張に変な汗がこめかみに滲んでいた。
(なんだろう…、どうすれば…)
いつも一人で食べていた食事は、寂しくて味気薄いと思っていたが、いた方が味がなかった。
沈黙が流れていて、急に現れた理由もわからず、嫌いである僕が目の前で食事をしていて、不快ではないのだろうか、と気になって仕方がない。もう気持ちがいっぱいで、食欲は一切なくなってしまった。スプーンは進まず、ついには、手を膝の上に組んでしまった。無礼を承知だが、もう口に運ぶ気にならなかった。
「…もう…、いいのか?」
親指をこすり合わせていると、頭上から声がして、顔をあげるとまっすぐにローレンが僕を見つめていた。山盛りあった食事は、きれいに完食されていた。
「も、申し訳、ありません…」
失礼を指摘されたのだと思い、急いでスプーンを持ち直して、スープを少しだけつけて、口に宛がう。バターのコク深いグリーンスープはおいしいのに、これ以上身体に入れられる自信がなかった。けれど、ローレンを不快にさせたくない。そう思えば思うほど、身体が強張って、進まなかった。
「具合が、悪いのか…?」
ローレンから、気遣う言葉が聞こえて、目を見張る。かちゃ、とスプーンを皿に落としかけて、急いで戻した。じ、と僕を見つめる碧眼は、今までになかった色を帯びている気がした。
いつも興味のない、真っ青で冷たい色だった碧眼は、気丈の柔らかい蝋燭の灯を揺らして、僕の言葉を温かく待っているようだった。
「い、いえ…。お昼を食べすぎてしまったようです…。申し訳ありません…」
なんとか絞り出した答えを出してから、頭をさげる。
ローレンは何度か息を吸い込んで、ゆっくりと溜め息のように吐いた。その空気の流れに、肩を固くする。
(また、迷惑をかけてしまった…)
なんだかわからないけれど、気を遣わせている気がする。
なぜだろう。昨日やってきた義母と何か、関係があるのだろうか。
真意が何もわからずに、目の前がぐるぐると回ってくる。
「謝るな」
ぴし、と言われた強い一言に肩が跳ねる。思わず、もう一度、謝って頭を下げてしまう。
顔をあげずにいると、ローレンは今度こそ呆れたようで、がたり、と立ち上がった。それから、何も言わずに部屋から出て行ってしまった。僕は、何が起きたのか何もわからなくて、なぜ彼が怒っているのかも検討がつかず、とにかく自分が余計なことをしてしまったのだと頭の中が混沌としていた。
後ろで一番経歴の長い執事長が、白く蓄えたひげの下で小さく溜め息をついていたことには気づかなかった。
入浴を終えて、髪を乾かしてもらったあと、寝室で温かなろうそくの色を楽しみながら、寝る前のハーブティーを口にしていた時だった。
控え目にノック音がして、振り返る。今日は静かな毎日と違う。
恐る恐る、ドアノブを回すと、執事長が頭を下げて立っていた。
「お休み前に申し訳ありません」
深く穏やかな声でそう告げる。ドアに半身を隠しながら、様子を伺いながらうなずく。僕よりも頭一つ分以上高い位置にある頭を下げたまま続ける。
「旦那様がお部屋でお待ちです」
「え…?」
突然のことに耳を疑う。ぱちぱち、と瞬きを繰り返していると、ゆっくりと白髪の頭があがり、細眼の執事長は笑みを浮かべていた。
「今夜は冷えますゆえ、ぜひお上着を」
そう言って、片腕を開いて先を促す。軽く頭をさげてそのまま待っているので、僕は従うしかないのだとうなずく。
そもそも僕は、ここにお世話になっている身であって、選択肢なんかないのだ。
一度室内に戻って、ソファにかけてあったアイスグレーのカーディガンを羽織る。柔らかくて軽いのに、とても温かい。この部屋に用意されていたものの一つだ。白いシルクの寝間着のままで良いのだろうかと不安になるが、執事長が特に言わなかったから、このままで良いのだろうと結論づけて、部屋を出る。
木造建築の香り豊かな代々受け継がれている屋敷の床を踏みしめて、執事長の後に続く。長い廊下を歩いて、突き当りにある大きな扉の前で止まった。それから、こちらに振り返って、頭をさげた。
「あ、あの…」
胸の前で手を握りしめる。声をかけるが、執事長は頭を下げたまま、また一歩と下がっていってしまう。
ここが何の部屋かもわからない。なぜ自分が呼ばれているのか。一体何が起きているのか、何もわからない。
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