陰日向から愛を馳せるだけで

麻田

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第6話

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 底知れぬ恐怖と共に、どこかで胸の内にある一抹の小さな期待が混じる。

(けど、僕の妄想が叶ったことなんてない…)

 だから、きっと良いものではないはずなのだ。また、傷ついてしまうのかと思うと、背筋が冷える。けれど、僕には引き返すことはできない。
 何度目かになる深呼吸をして、暴れる心臓を撫でて、必死に落ち着けと自分に言い聞かせて、震える手で軽くノックをした。

「入れ」

 すぐに返答があって、冷たい汗がこめかみに滲む。振り返ると、もうその廊下は誰もおらず、ただただ途方もなく長く見えた。
 すると、目の前のドアが開かれた。温かな光が差し込んできて、すぐに向き直ると、大きな壁があって見上げる。そこには、先ほど見たままのローレンが立っていた。

「あ…」

 いきなりの至近距離に頭が追いつかずに、耳の奥で心臓がど、ど、と強く跳ねる。
 澄んだ海底のような瞳は、じ、と僕の到来を驚いているようにも見えた。静かに見下ろしてから、す、と目が細くなって、部屋の中へと帰っていく。扉は開けたままで、どうすれば良いのかわからずに立ち尽くしていると、入れ、と言い捨てるように声をかけられた。

(入っていいのだろうか…)

 僕にここへ入る権利があるのだろうか。
 ここに来て、自分以外の部屋に入ることが初めてだった。ましてや、彼のプライベートな空間になんて、思いも寄らなかった。部屋の温かな空気を指先に感じて、冷気が入ってしまう、と気づいて、重い脚を一歩踏み入れた。
 扉を音を立てないように閉める。ローレンは、大きな机の前に座る。目の前には分厚い本が幾重にも積んである。
 どうすればいいのかわからずに、扉の前に立ち尽くす。
 薄いシャツ一枚のローレンは腕まくりをしている。僕には温かい部屋だけれど、ローレンにとっては暑いのだろうか。ぱち、と暖炉が爆ぜる音がした。

「来い」

 急に命令されて、肩が跳ねてしまう。困惑しながらも視線を送ると、ローレンは机の上の本を読んでいた。

(何かわからないけど…、言うこと、きかないと…)

 ひや、と背中に冷たいものを感じながらも、カーディガンを握りしめつつ、机に近づく。
 扉に向かうように配置されている机の前に立つと、ローレンが小さく咳払いをする。

「この本を訳してほしい」

 ずい、と開いた状態の本を渡そうとしてくる。状況がわからずに眉をひそめていると、チ、と舌打ちが聞こえた。きゅ、と喉元が絞めつけられて、急いで本を受け取る。
 そこには、確かに僕の出身の南方地域の言葉が書かれている。しかし、ここの言葉と読み方は同じで、文法や言い回しが独特だから違うといえば違うのだが、賢い彼なら難なく訳せそうだと思う。本からこっそり視線をあげると、ローレンは僕を一心に見つめていた。
 ぱち、と目が合うと、どきり、と心臓が跳ねて、急いで本で壁を作る。

(どういうこと…? 訳せばいいの…?)

 内容は古い地形についての説明だった。難しい言い回しもあるが、実家では本をよく読んでいたため、ちゃんと理解はできた。

「え、と…」

 読めばいいのか。何かに書けばいいのか。
 わからずに、ページの端を摘まみながら、ちら、と視線を寄せる。ローレンは手帳を開いて、万年筆を持つ。

「訳せ」

 早くしろ、と言わんばかりの冷たい圧を感じて、渡されたページの一行目から訳していく。
 地層の説明、過去に起きた災害について…。ローレンはそれを手帳にまとめて書いているようだった。

「図にあるように…」

 本文のままに訳していくと、図を使った説明に移っていた。
 これは、見せた方が早いのでは、と思い、口をつぐむ。どうすればいいか、と思案していると、顔を上げたローレンが、見せろ、とつぶやいた。
 一歩近づいて、ローレンが見やすいように向きを変えて本を机の上に置く。それを見つめながら、唇を撫でるように考え込む。

「続きを」
「は、はい…、え、と…」

 こんな風にローレンに必要とされることが初めてで、急にそれを実感してくると、ひっくり返った文字たちが急に難読文字になってくる。言葉に詰まっていると、ローレンが何度か呼吸をした後に、もそり、と何かを言った。

「あ、ご、ごめんなさい…」

 何か怒られたのだと思い、咄嗟に身を引いて謝る。うなじが冷えてひりつく気がする。ローレンは、遠のいた僕を見上げると、顔を歪めた。

(せっかく、必要とされたのに、役に、立てなかった…)

「や、やっぱり…僕では…、実家から、地学者を紹介させますから…、その…」

 なんとか役に立とうと言葉を増やすが、そうすればそうするほど、彼の表情が険しくなっていって、頭の奥が重くなる。

「ご、ご、めんなさ、…お役に立てず、僕…」

 ローレンの放つオーラが重力を増していく気がする。うつむくと、はっきりと涙が盛り上がっているのがわかって、視界が歪んでいく。でも、ここで泣いてしまったら、余計に迷惑をかけてしまう。

「ごめ、ごめんなさ、…」

 一歩、後退る。失礼だけど、もう気持ちが苦しくて、耐えられない。

(もっと優秀なオメガを寄越すってお義母様がおっしゃっていたのに…)

 彼と過ごせる時間は限られている。こうやって、はじめて部屋に呼んでもらえたのに。
 そのチャンスすらも、自分は叶えられないのだ。何もできない無力で愚かなオメガの自分に、自分自身があきれ果ててしまう。

「か、帰ります…ごめんなさい…」

 頭をさげて、扉に向かって大股で歩く。ドアノブを握りしめて、開こうとした時、後ろから、腕が伸びてきて、目の前のドアを押した。
 その伸びてきたものに沿って、視線をあげていくと、すぐ後ろに、さらり、と細い銀色の糸が丹精な顔にかかっていた。涙の膜が張った瞳を大きく見開くと、じり、と焦げ付くように強いまなざしが僕を射抜く。
 薄い桃色の唇が、やや開くがすぐに閉じられて、もう一度、開いた。
 ドアノブを握っていた手首を、ドアを押していた大きな手のひらが掴んだ。ひやり、と冷たい指先が手首の裏の皮膚に触れると、冷えるはずなのに、ど、と体温が上がる。
 手前にあった三人掛けのソファに引っ張られるように、座り込むと隣に彼も腰を下ろす。それから手に持っていた本を開いて、目の前のテーブルに置いた。

「訳せ」

 前屈みに、膝に腕を置いて、手を合わせて握りしめているローレンは、まっすぐに本を見て、そっけなく僕に言う。

「で、でも…」
「訳せ」

 言い淀む僕に、ぴしゃり、と返す芯の強い冷たい声。恐ろしくて目をつむって、肩をすくめると、ローレンの方が苦しそうに眉を寄せて唇を噛んでいた。それから、もう一度、ちいさく、訳せ、という。
 僕は、言われた通りにするしかない。この部屋から逃げることも許されなかった。
 理由はわからないけれど、とにかく言われたことをやるしかないと思い、座り直して、本に目を落とす。震える声で、か細く読みながら、指先で図を指し示す。

「ここの地表が、現れる、ほどの…雨が降ると…地盤が、一気に脆くなり…」

 震える唇が言葉を詰まらせながらも、彼がじ、と説明を聞いているので、僕も続ける。静かに彼が聞いているから、次第に肩の力も抜けていく。十ページほど読み進めたところで、丁度、その章が終わった。次のページを開こうとするが、手のひらが本の上に現れて、そのまま掴んでいく。
 本を持ったローレンはソファから立ち上がり、机の上にそれを置いた。そのまま長い脚であっという間に部屋の奥に行く。姿を消した家主に、どうすればいいのか、と戸惑っていると、かちゃり、と食器のぶつかる音をさせながら、帰ってくる。
 その手もとには、ティーセットがある。机の上に置いて、隣にまた、どかり、と腰を下ろすと大きな手で繊細なティーポットに手をかけた。

「あ、ぼ、僕が…」

 やります、と言おうとするが、ローレンは何も聞こえていないという様子で、二つのカップに温かな茶を注ぐ。宛てにされていないのか。そう気づくと、如何に自分が嫁として機能していないかをまざまざと見せつけられた気がした。悔しさと羞恥と、情けなさに忘れていた涙がこみあげてきて、膝の上で指先が白くなるまで握り締める。

「そんなに…」

 かすれた低い声が聞こえて、ちら、と視線を向けると、ローレンが他所を向いた瞬間だった。長い銀髪が邪魔をして表情は見えなかった。
 目の前にソーサーに乗ったカップが置かれた。




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