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第7話
しおりを挟む「今日の礼だ」
飲め、と言い放たれる。ローレンがなんて言ったのかが気になったが、それを聞く勇気もなく、とにかくこれを飲んだら解放されるのだろう、と信じ、カップを手に持つ。細い繊細な取っ手と、藍色と白の小花模様の可憐なデザインを楽しむ間もなく、口をつける。柔らかな口当たりで、一口飲むと、さっぱりとしたミントとほんのりと甘い花の香りが鼻を抜ける。ほ、と肩の力が抜ける。
「おいしい…」
何か、甘い。ふんわりとはちみつの甘味があって、心がほどける。
(何の種類のお茶だろう…)
ブレンドしてみたい、と興味が湧く。聞いてみたい、と思いつつ、視線をあげて様子をうかがおうとすると、ローレンは横から僕に向き直って見つめていた。どき、と身体が跳ねると、すぐにローレンは視線をそらす。自分も同じものを飲む。
なんだか、ローレンが柔らかい顔をしていた。気がした。
都合の良い見間違いだろう、そうだ、きっと。
そう言い聞かせて、温かなカップに口を寄せる。
喋りっぱなしだった喉は、緊張もあって渇いていて、優しく身体に沁み込んでいく。
僕たちは並んで、何も言わずに同じハーブティーを啜った。
ただ、それだけ。
それなのに、何か、言い得ぬ満たされたものが心の中に芽生えていた。
ハーブティーを飲み終えると、なぜか僕の部屋まで彼はやってきて、僕が室内に入るのを見届けると、昼を食べすぎるな、と言い残して去っていった。
よくわからないけれど、胸の中がぽかぽかと柔らかく温かくて、ベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。
翌日、昼はサンドイッチをひと切れにして、腹を空かせて夕食を迎えた。リビングに入ると、やはり、二人分の食事が用意されていて、僕が到着した時には、ローレンが昨日と同じ席に座って、本を読んでいた。
(どうして…?)
なぜ、今日もいるのだろう。
僕のいつも座る場所にも料理がセットされている。昨日よりもフルーツが種類多く、いつもより華やかだった。
座って良いのか戸惑っていると、僕に気づいたローレンは本を閉じて、僕を見上げる。
「早く座れ」
「は、はい…」
つん、と言われた言葉に、急いで腰掛ける。どうして、と頭の中が不思議でぐるぐると混濁していく。執事たちが、僕たちの目の前に温かいスープを出して、小さく食べやすいように切られたチキンソテーが出てくる。ローレンのもとにも同じものが出てきて、僕のものよりもチキンとパン、それにサラダも倍の量ある。
長い指がスプーンを持って、薄い唇へと運ぶ。たったそれだけなのに、美しい所作に見惚れていると、ばち、と目が合って、急いでそらしてしまう。
「早く食べろ」
「ご、ごめんなさい…」
昼を軽めにしたら、野菜の甘みが存分に引き出されたコンソメスープを口にすると、胃がきゅう、と鳴って喜んでいた。手のひらサイズのフォカッチャをちぎって、オリーブオイルをつけて食べる。香り豊かで懐かしい風味は、実家のものと同じだった。
「奥様のご実家のオリーブオイルは特別、香りが良いとシェフもいつも申しております」
しぼりたてのレモンとハーブを浸した水を注ぎながら、執事長が僕に笑いかけていた。
「そう言っていただけて、…光栄です」
素直に実家の、僕の大切なオリーブたちを褒めてもらえると嬉しくて、頬が緩む。執事長も笑みを深める。
「おい」
は、と息を飲む。現実に引き戻されるような、はっきりと強く冷たい声が、すっと耳に入ってくる。何かしてしまったのか、とゆっくりと視線を送ると、眉を寄せて、なぜか不機嫌そうなローレンがいて、汗がにじむ。
(何か、失礼をしてしまったのだろうか…)
食事の場でへらへら会話などして、マナー違反だったか。仕事で疲れているところに、こんなぐうたらしている自分が笑っているのは、失礼なことか。
そう考えを巡らせて、すぐに謝ろうとした時、目の前からもう一枚、フォカッチャが皿に乗ってやってきた。
「これも食え」
それだけ言うと、ローレンはまた自分の食事を黙々と進める。
この皿は、ローレンの分として与えられていた皿だった。確か、フォカッチャは全部で四枚乗っていたはずだった。最後の一枚を、僕に食えと寄越したのだ。
「で、でも…」
(僕はずっと家にいるだけだから…、仕事に出てるローレンの方がお腹が空いているのに…)
この行動の理由がわからずに、困惑する。遠慮した方が良いのか。けれど、ローレンは僕の言うことなんかまったく興味がないと言う風に食事をしていた。
(静かに食事をしろって、ことだ…)
疲れて帰ってきたところなのだから、呑気に喋るなというローレンのメッセージなのだと気づくと、喉の奥がつぶされたように苦しくなった。胃も一気に重くなって、もう食事もいらない気になる。
けれど、これを残してしまったら、ローレンに盾突くのと同じことになってしまう。
僕は、何度も小さくちぎっては、スープに浸したり、フルーツと一緒に食べたりして、なんとかその一枚を食べきった。僕がフォカッチャと格闘している間にローレンは食事を平らげており、食後の温かな紅茶を啜りながら、僕が完食するかどうかを眺めていた。強い緊張を抱えながらも、味のしない食事をとにかく身体に流し込む。
最後のぶどうを一口で飲み込んで、ようやく僕の食事は終わった。その頃には、ローレンは三杯目の紅茶を飲み干したところだった。
「今日も部屋に来い」
それだけを言い残して、ローレンは先に食事を終わらせて立ち去った。
(きょ、今日も…?)
ローレンが去った扉を見つめながら、まばたきを繰り返す。
一体、どういう理由でローレンが動いているのか。わからない。何か、狙いがあるのだろうか。それとも、気まぐれだろうか。
(そういえば…)
いきなり変わった時間の共有は、昨夜からだ。
心当たりがあるとすれば、義母の言葉だった。
(新しい、お嫁さん…)
僕に子どもができないから、新しいオメガを迎え入れると言っていた。きっと、僕を屋敷から追い出す理由を探しているのではないか。僕の失態を理由に、実家に送り返そうとしているのか。
(そんなことしなくても…)
ぎゅ、と膝の上で手のひらを握りしめる。
回りくどいことをしなくても、ローレンが命令するのなら、僕はそれを受け入れるしかない。僕がここにいられるのは、ローレンとの政略結婚という契約があるからだ。それを破棄できるのは、ローレン本人しかいない。
そう気づいてしまうと、いよいよローレンと離れて暮らす自分が現実味を帯びてくる。
今までも、ローレンと共に過ごす時間なんて、三か月に訪れるたった一夜だけだった。たったそれだけでも、ローレンとつながっていることが、僕にとっての救いだった。
それすらも、奪われてしまうのか。
(本当は…)
彼と一緒にいたい。
結婚式でもらった、大切な指輪をくるりと撫でる。
(愛されなくてもいい…)
だけど、許されるなら一緒にいたい。
今までと同じでもいいから、同じ屋敷にいて、夫婦という契約で結ばれていたい。
けれど、彼との子どもをその契約に巻き込む勇気はない。番という一生の契りを交わして縛り付ける勇気も、もちろんなかった。
本当に自分はわがままだと呆れる。こんな欲深い自分が、気高く聡明な美丈夫のローレンに好かれるはずがない。
(必要とされるように…)
彼が命じてくれるのであれば、それにちゃんと答えて、少しでも長く、一緒にいられるようにしよう。
それが、理不尽なものであっても、無理難題であっても、試されているものだとしても、僕は僕なりに頑張りたい。
(少しでも、ローレンと一緒にいたいから…)
僕を早く追い出したくて理由をつくろうとしている行動だと気づくと、身体が引き裂かれたみたいに痛くて、涙が滲む。必死に紅茶を流し込んで、涙ごと身体の中に押し込む。
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