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第8話
しおりを挟むいつもの倍、早く湯浴みを終わらせて、彼の部屋の前に立つ。たくさんシュミレーションはした。
(昨日と同じ…、だから、今日は失敗しない…)
本を訳すだけ。彼によく聞こえるように、はっきりと喋る。メモを取っているなら、取りやすいようにゆっくりと。図が必要な場合は、隣に移動して読み上げればいい。
(ローレンは、嫌かもしれないけど…)
僕が近くにいるなんて、嫌だろう。発情期の時だって、一度出してしまえば、ローレンはすぐに部屋を去っていく。よほど嫌なのだと思う。義務だから、付き合ってくれているのだ。
ずき、と胸の奥が鋭く痛んで、手のひらを当てる。と、と、と少し早い心音が伝わってくる。深呼吸を繰り返して、大丈夫、まだ大丈夫。と自分に唱える。
意を決してノックをすると、入れ、と短い返事が返ってくる。硬い声にやはり身体を硬くしてしまう。ゆっくりと、扉を開けると、ローレンは昨日の書斎の椅子ではなく、ソファに腰掛けていた。
目の前にいくつかの本を置いて、長い脚を優雅に組んで座っていた。僕を見ると、すぐに視線を本に戻してしまう。室内へ足を踏み入れ、ローレンの座っているソファから数歩離れた場所で立ち、どうしようかと悩む。
「こっちへ来い」
彼が言い放つので、表情を伺いながら近づく。不機嫌そうには見えないから、大丈夫だ、と軽く息をつく。
「昨日の続きを」
リボンのようなものがついた栞をとって、本を開いたローレンが僕に本を渡す。見上げてきた瞳は、ろうそくの明かりを吸い込んで、ちらちら、と光った。星屑が詰め込まれた夜空のように美しくて、ことり、と心臓が動く。
「し、失礼します…」
本を預かって、昨日と同じ場所に座る。ローレンがいる、左半身が熱い気がする。うつむいた時に、一束髪の毛が落ちてきて、それを耳にかけなおす。
昨日の続き、新しい章のページをめくったその時、ローレンがいきなり立ち上がった。僕に何を言うでもなく、部屋の奥へと行ってしまい、思わず立ち上がる。
(ど、どうしよう…何か、失礼をしてしまったのかな…?)
突然の行動に、自分の無礼を察して、一気に身体の熱が足の裏から床へと逃げていき、吸い取られていくようだった。
「ロ、…」
名前を呼ぼうとして、飲み込む。
(名前を呼んだら…)
ここへ嫁いできた当初を思い出して、さらに背筋が凍えた。冷たい瞳で見下すように睨まれて、心底嫌悪をにじませた碧眼に拒絶される。唇がかすかに戦慄いて、それを指先でつまんで俯く。どうすれば、どうすれば、と小さい頭で必死に考えても、答えは出てこない。自分の愚図さに涙が溢れてしまいそうになって、余計に腹が立つ。
すると、急にふわり、と柔らかなものが頭にかかった。驚いて頭をあげると、すぐ目の前に端正な顔立ちがあって、目を見張る。
「あ、…」
「濡れている」
小さくつぶやくと、大きな手のひらで僕の頭を柔らかなタオル越しに包んで撫でる。か、と耳先まで顔が熱くなり、視界が潤む。
毛先から水滴を吸うように押さえるとタオルから顔がのぞいてしまう。目が合った拍子に涙が一筋、頬を零れていって、ローレンは切れ長の目元を見開いた。ふ、と息をつくと、バラの香りが漂う。ど、と心臓が跳ねて、愛しさにまた涙が溢れてしまった。
「なぜ、泣く…」
ローレンは見開いた瞳を細めて、眉間に皺を寄せて、奥歯を噛み締めながら苦々しくつぶやいた。
急激な温度の下降に我に返った僕は、急いで飛びのいて頭を下げる。
「ご、ごめんなさい…っ、僕、また、ご迷惑を…っ!」
床の上に、はら、と白いタオルが舞い落ちた。
(また、無礼を働いてしまった…)
ローレンに触れられて、驚いて、でも嬉しくて、緊張していた身体に温かなものが溢れて、身体が制御できずに涙になって溢れてしまった。
けれど、それは、何もわからずに見ていたローレンからすれば、意味不明で気持ちの悪いものであり、迷惑でしかないのだ。
細かい模様の絨毯の上に落ちたタオルを、骨ばった手が握りしめて、ゆっくりと拾い上げた。
「迷惑、ではない…」
かすれた低い声は、聞き間違いかもしれない。ぱち、と暖炉から薪の音がして、それと重なっていたから、自分の言いように聞こえてしまったのかもしれない。
だから、表情を見て、確認しないとわからない、と気づいて、そろそろ、と視線をあげる。
ローレンは、タオルを強く握りしめて、僕を見つめていた。まなじりがほんのりと赤く見えるのは、暖炉のせいだろうか。
「嫌、だったか…?」
眉を寄せて、目を細めるローレンは、苦しそうだった。
その表情の真相がわからない。けれど、ローレンは、傷ついているのかもしれない、と思った。
だから、少しでも苦しいものを取り除けてあげたい。
「違い、ます…! 僕は、いつも…、その…旦那、様に、迷惑をかけて、ばかりで、…」
ごめんなさい…。
かすれた声は情けなくて、震えていて、頭の悪い僕ではこのくらいの言葉しか思い浮かばなかった。
「迷惑などではない」
たった一歩近づいてきただけなのに、ローレンの長い脚では、あっという間に僕の目の前に移動してきた。前屈みで力強く、はっきりと言い放つ。思わず、美しい碧眼に捕まって目をそらすことができなかった。
爛々と光る瞳は力溢れていて、明確な意思がそこにはあった。
「お前は嫌かと聞いている」
嫌、と言葉に出す時に、ローレンの瞳はひどく悲しそうに揺れたように見えた。
(どうして…)
僕のことを迷惑がっているのは、ローレンの方なのに。
それなのに、ローレンの方が傷ついた顔をしていた。ふ、と息をつくと、身体の力が抜けて、ゆるゆると首を横に振った。
「嫌、ではありません…、その、旦那様の方が…」
「私が嫌な訳がない」
つややかに光る唇が一言ずつ間違えないように、しっかりと動く。ちか、と光った瞳は、天の川を詰め込んだ夜空そのもののようだった。
とく、と心臓が温かなものを全身に流し出す。銀色の長い睫毛が、美しいアーモンド形の瞳を縁取り、輝きをさらに強くさせる。吸い込まれてしまいそうだった。
唇が、小さく開いては何かを飲み込んで、柔く噛まれる。それを何度か繰り返したところで、ローレンは、僕に背を向けた。
去っていく背中に手を差し伸ばすが、言葉は出てこない。
(どういう、意味…?)
ローレンはずんずんと大股で奥の部屋から新しい淡い水色のタオルを持ってくると、僕の首元にふんわりとかけた。そうするとすぐに、ソファに腰掛けて、長い脚を組んで本を捲り出してしまう。
(嫌じゃ、ないって、こと…?)
ローレンの言葉を頭の中で反芻させる。迷惑をかける、と頭をさげたら、迷惑ではない、と彼ははっきりと言った。
都合の良い頭は、いつも通り、淡い希望の考えに気づいてしまう。
(いけない、そんな訳、ない…)
もしかしたら、ローレンが僕を拒絶していない、なんて思ってしまった。けれど、いつもそれは、希望でしかなくて、現実にはならない。
膨らんだ柔らかで温かなものを、自分ですぐにぺしゃんこに潰してしまう。きゅ、と喉の奥が絞られるが、それが現実なのだ。タオルを借りて、襟足を拭う。もう、暖炉の熱で乾いているようだった。
ソファの隣に静かに腰掛けて、タオルを膝の上にたたむ。
「続き…、読みます、ね…?」
タオルの上に先ほど開いた本を置く。ローレンに向き直って、上目で尋ねると、ぱち、と一瞬目があったのに、すぐにそらされてしまった。
(やっぱり、そう、だよね…)
自分で萎ませておいてよかった、とかすかに口角があがった。勘違いをして、可哀そうなのは自分自身なのだ。
余計なことを考えないで、少しでも、彼の役に立てるなら、できることを全うしよう。
そう思い直して、今日は僕の地元の歴史についての解説を指でなぞりながら始めた。読み上げる僕の横顔を彼が、隣でじ、と見ていることなんて、気づきもしないで。
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