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第80話
しおりを挟む店内にはクラシカルなジャズが流れている。マスターは白シャツの似合うダンディな方で、今日も寡黙にコーヒーを挽いている。香ばしく、深いコーヒー豆の香りが穏やかな時間を引き立てる。
窓枠にはめ込まれた大きな一枚のガラス窓から、公園の様子が見える。木枯らしが吹き、枯れ葉がからからと飛んでいった。もう、今年も終わろうとしている。
今年を振り返ると、色々なことが起こりすぎたと思う。
生まれて初めての経験をたくさんした。その出来事の中心で渦巻いているのは、彼だった。
(去年の僕よりも、出来ることが増えたな…)
自分をひとつ、褒めてあげられた。少し、彼に近づいている。それが嬉しいのだ。
(早く、春になってほしい)
大学入試への準備に抜かりない。定期的に受けている模試でも好成績を残していて、合格判定も安心していいものだった。不合格への不安はない。
春に、彼と同じ大学に行けたら、会いに行こうと決めていた。
(そこで、ちゃんと伝えよう)
今まで、彼がたくさんくれたものを、たくさん返していきたい。
彼が待っているものを、僕があげていきたい。
(会いに行って、気持ちを伝えて、それから…)
それからのことを考えると、言葉が詰まってしまう。マスターの煎れたコーヒーに口をつける。香りの通りに豊かな味わいが広がって、後味も深みがある。僕の大好きなコーヒー。こくり、と飲み落とすと、胃の中から温かくなって、少し気分が楽になる。
からん、と後ろで新しいお客さんが入店した音がした。マスターが小さく挨拶をする。
「コーヒーひとつ」
そう注文した声に、僕は聞き覚えがあった。窓枠から視線をあげると、ガラスに反射した男性の影が見えた。ベージュのロングコートにネイビーのマフラーを肩にかけていた。コーヒーの香りの中に、ふわり、と甘い匂いがした。急いで振り返ると、僕の目の前の椅子が引かれて、その男性が腰掛けた。
(どうして…)
驚きのあまり、声が出ない。目を見張って、そこにいる人が本物なのかを考える。いくら考えたってわからないのに。
僕を見て、彼は眉を下げて、困ったように小さく笑った。
「久しぶりだな」
深いバリトンが鼓膜を揺らすと、色々な感情が多くゆさぶられて、冷静ではいられない。口を開くと、ちょうどその時にマスターがコーヒーを届けにやってきた。ありがとう、と彼が笑顔で受け取って、一口飲んだ。それにつられて、僕も口にする。
「体調はどうだ?」
カップの中を覗き込んだまま、彼がつぶやいた。今までどうやって会話をしてきたのかわからなくなって、温かいカップを両手で包むように握りながら、首を縦に振った。
「いい、よ。入試もあるし、今は薬を休んでるんだ」
嘘ではなかった。毎日、小さいけれど僕の社会とかかわっていて、体調を崩して迷惑をかけるのが嫌だったのと、一度寝込んでしまったら、次に起き上がれる自信がなかったから。山野井先生とは毎月、通院で会っている。その時々に色々な話を聞いてもらっている。その時間が、僕の心の整理をする時間でもあった。先生からも、焦る必要はなくて、自然に任せてみるのもいい手だと言われ、今は元気であることを優先している。
彼は、視線をあげて、僕の顔を見てから、よかった、と柔らかく微笑んだ。きゅう、と喉の奥が鳴るような絞られる感覚して、僕は視線を落す。顔が、熱い。
少し前に、大学のカフェテラスにいる彼を遠くから盗み見した。今、こんな間近に、本物がいることが、改めても信じられない。ちらり、と上目で彼を見ると、外を眺めていた。高い鼻梁も、艶やかな唇もとがった顎も、涼し気な眦も、すべて変わらない。しかし、少しクマが出来ている。疲れた表情を見せるのは、彼がスーツ姿で髪の毛もきれいに撫でつけた、仕事モードだからだろうか。それを差し引いても、地球上で一番美しく、誰もが認めるかっこよさが彼なのだと思う。
「センター、そろそろだな」
もう一口、コーヒーを飲んでから、彼が静かに発した。ぼう、と見惚れていたことに気づいて、恥ずかしくてさらに頬に熱が集まるのがわかる。誤魔化すように、手の甲で頬をさすってから、髪の毛を耳にかけた。
「うん、再来週」
新聞を何紙も読んでいる彼だから、そのくらい知っていて当然だとわかっているのに、もしかしたら、気にかけてくれていたのかと都合よく思ってしまう。
意識すると、彼の甘やかな香りが漂ってきて、僕の神経をぼかす。
(会いたかった…)
言ってしまいたい。
先月の模試の結果も誇れるものだった。伝えてしまいたい。
今、勉強している司法についても、彼の意見を聞いてみたい。
アルバイトを始めたことも教えたい。そして、また会いに来てほしい。
(すごく、会いたかった…)
今、目の前に確かに彼がいる。静かにコーヒーを口にする彼を見て、長い睫毛があがって僕と目が合う。急いで視線を落すと、机の上に置かれた彼の節ばった、大きな手が見える。
(あの手で、引き寄せてほしい)
強く、強く抱き寄せてほしい。
手を握ってほしい。僕も、握り返したい。
思えば思うほど、欲が滲んで、自分が浅ましいことに気づいてしまう。黒いもやに心が襲われかけて、急いでカップを寄せて、中の液体を飲み落とした。
「聖なら、大丈夫」
名前を丁寧に呼ばれて、深く優しい声でそう告げられると、胸が締め付けられて苦しくなる。かた、と音がして、視線をあげると彼が椅子を引いて立ち上がっていた。
「え、もう…」
行かないで。
さっき来たばかりじゃないか。
思わず手が伸びそうになってしまうのを、握り拳を作って誤魔化した。彼は僕を見下ろして、目元を温かく垂らしたまま、コートの下から何かを取り出した。
「合格祈願」
ことり、とカップの横に置かれたそれは、白い箱に入った小さな四角だった。え、と顔をあげると、嬉しそうに彼は笑っていた。
「それから、虫除けな。ちゃんとつけてな」
彼の視線が箱に向かっているので、誘導されるように、胸の高鳴りで震える指先をなんとか言うことを聞かせて開封した。見たことのあるブランド名が書かれた白い箱を開けると、藍色のベルベットが貼られた箱がまた出てくる。さすがの知識がない僕でも、これは、母親が持っていたのを知っている。小さなそれを取り出して、手の中で、蓋を上げる。中からは、柔らかなクッションに挟まった、細いピンクゴールドの指輪が入っていた。
「こ、れって…」
どういう意味かわからなくて、顔をあげると彼は肩をすくめていた。
「中学生の俺から」
瞬きを繰り返していると、くすり、と彼は笑った。その笑顔は、記憶のものよりも、少し、大人っぽくなっている気がする。どんどん心音が早く鳴り騒ぎ、落ち着かなくて、僕も立ち上がってしまう。店内には、僕と彼が二人。それからオーナーがキッチンでコーヒー豆の手入れをしている。穏やかなジャズが僕たちの間を流れる。それも、自分の鼓動の音で聞こえなくなっていく。ぐるぐると頭の中は、良い考えばかりが浮かんでは消えていく。
だから、どういう意図か、やっぱり確認したくて口を開けると、それよりも早く、彼が言葉を発した。
「本当は、センター直前に会いに来たかったんだが、どうしてもアメリカに行かないといけなくてな」
「アメ、リカ…?」
ああ、と彼は答えると、コートのボタンをしめ、マフラーを簡単に首に巻いた。ふわ、と彼の匂いがコーヒーの香ばしい香りの間から身体に流れ込んで、体温がまだ上がっていく。みぞおちの辺りが絞られるように痛んで、それなのに心地よくて、浮遊感さえ覚えてくる。それなのに、彼がアメリカにまた行くということを聞いて、急に手の中にある小さな箱が鉛のように重く、自分が現実にいるのだと思い出させた。
「どのくらい…?」
「今回は、わからない。一月か、二月か。半年か一年か…」
(そんなに…?)
信じられない、という顔になっていたのだろう。彼が、眉を下げて僕を励ますように微笑みかけた。す、と彼の指が伸びてきて、咄嗟に身構えてしまうが、その指は僕の目元にあるほくろを撫でて、すぐに去っていった。その手を捕まえて、もっと、と頬ずりをしてしまう前に、彼がマスターに声をかけた。レジスターの横で会計を始めてしまい、急いで彼の腕に手をかけた。は、と瞠目して彼は振り返る。
「またっ、連絡…しても、いい…?」
なんて言葉を選べばいいのかわからなくて、当たり障りのないことしか言えなかった。けれど、彼は僕の言葉を聞いてから、マスターからレシートを預かって、僕に向き直ってくれた。
「待ってる、いつでも」
じゃあ、と言って彼から僕の手は簡単に滑り落ちて、からん、とドアのベルが鳴った。彼は一度も振り返ることなく、長い脚で遠くに歩いて行ってしまった。
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