甘雨ふりをり

麻田

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第9話

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 真っ暗な水の中に僕はたゆたっている。
 こぽこぽと、僕の身体の中の空気が水に溶ける音は心地よい。水の中も良いものだと身体を流れのままにまかせている。
 何かがぼんやりと聞こえてきた。僕を呼ぶ声が聞こえる。二人の声。優しく呼ばれている、久しぶりの二人の声だ。その声の方に振り返ると、まばゆく光る二人の背中が見えた。

「秀一…陽介…」

 名前を呼んでも、彼らは気づかない。もう一度、声を張り上げて呼ぶが、気づきもしないで二人は談笑している。彼らに向けて、手を差し伸ばしながら走るが到底追いつけない。すると、彼らの腕に縋りつく小さな影を見つけた。その影は大きくなり、彼らを飲み込んでしまう。あっという間に、僕はまた真っ暗な冷たい海の中にひとりだった。

 我慢していた涙が、つ、と頬を伝うのがわかった。それを、誰かの冷たい手のひらが包み込み、優しく拭ってくれた。瞼は重くて、上げられない。その優しさに甘えるように、また一粒、二粒と涙があふれる。手で拭えきれなくなった涙を熱い柔らかいものが吸い取ってくれた。

「ありがとう…」

 その優しい誰かに届くように、声を振り絞ってまた眠りについてしまった。次は、温かい陽のもとの夢だといいな、とぼんやり思った。



 温かい。
 それに、良い匂いがする。
 陽の元にいるような気持ちになる。
 ふんわりと、甘い良い匂いが僕を包んでいる。なんて、心地よい夢なのだろうか。ずっとここにいたい。
 
 ゆるゆると、まばたきをする。見たことのない高い天井だ、とゆっくり考えてみる。瞳を左右に回すと、足元の方に黒板が設置されており、右を向けば雨粒がガラスをたたいているのがわかった。左には使われていない机と椅子が並んでいた。どうやら、先ほどいた棟の空き教室であることがわかった。
 深く溜め息をつくと、左頬が痛んだ。どうやら、口が切れているらしく、痛みに息がつまると、頬にひんやりとしたものが当たっていることに気づいた。
 目線をあげると、この前テントで見かけた成人向け雑誌を読みながら、僕の頬を冷やす佳純がいた。

「何、読んでんの…」

 ちらり、と僕に目線をやって、すぐに雑誌に向き直る。

「エロ漫画」

 なにそれ…。呆れながら、身を起こすと、彼のブレザーが僕にかけられており、ふんわりと甘い良い匂いがした。夢の中の匂いは、これだったのか…と思い、ブレザーを引き寄せ、大きく息を吸い込む。ぬくもりも感じられる。頭は、どうやら、胡坐をかいている佳純の膝枕に甘えていたようだった。

「佳純…」

 じわ、と穴の開いた心をせき止めるように、温かいものが沸き起こるのがわかった。たまらず、彼の名を呼んでしまう。彼は、今度は目線もくれず、雑誌に夢中だった。

「……バカ…」

 特別、気遣うでもなく、いつも通りいてくれるのが佳純の優しさなのだと、なんとなくわかった。身体にかけられたブレザーも、何時間そうしてくれていたかわからない膝枕も、大きな手のひらで氷嚢をずっと左頬にあててくれたことも、全部が彼の優しさを物語っている。
 彼の右手を、そっと両手で包み込む。その手は冷え切っていた。心の奥が熱くなるのと同時に、彼を抱きしめたくなる衝動を抑え込む。

「…ありがとう」

 僕の熱で彼を温められるように、ぎゅうと手を包む。ぺらり、と雑誌をめくる音がしたが、しばらくそうしていた。
 彼の手のひらから伝わった冷感で、僕の手がじんじんしてきた頃に、そっと顔に手を近づけられた。左頬に触れたか触れられていないかわからなかったが、彼はするりと撫でてすぐ去っていった。

「まだ、冷やした方が良いぞ…明日も多分、腫れる」

 それだけ言うと、また雑誌に目をやってしまう。どうしてこうなったのか、聞いてほしいようなわがままな気持ちになったが、いざ聞かれたとしても、どう説明すればよいのかわからないと思う。余計なことを言わない彼の隣は居心地がよかった。
 彼の冷たい右手をもう一度握りしめて、身体を寄せる。大きな肩に額をつけて、ぐりぐりと擦り付ける。彼の優しい匂いがしみついたブレザーでもう一度、自分の身体を包み込む。ブレザーからも、彼からも、甘い匂いがして、僕を包み込んでくれているような気がした。額からは、薄いワイシャツ一枚隔てて、彼の手のひらや表情とは正反対のように熱い身体を感じて、足の指先が痺れるような高揚感が身体に宿った。

 この、大きな身体に抱きしめられたら、どれだけ気持ちが良いだろう。
 彼は、どんな声で、僕を求めるのだろう…

 は、と目を見開いた。発情期はまだなのに、なぜこのような欲にまみれたことを思ってしまうのだろう。目の前で雑誌を淡々と読み続ける彼は相変わらずだ。恥ずかしくて、顔を手で隠す。なんて、僕は欲深で醜いのだろう。彼の隣にいることが、恥ずかしい。そう思い、身を離そうとすると、彼が僕を見つめていた。きっと、今、顔は真っ赤で、そんな僕を彼は訳がわからなく気持ち悪く思うだろう。でも、手で隠すこともできないほど、じ、と彼は僕をまっすぐ見つめていた。瞳が潤み、ゆらゆら揺れている気がする。でも、顔を隠すことも、目をそらすことも叶わない。彼が瞳で、僕を支配している。

「七海」

 彼はいたって普通に、僕の名前を呼んだだけだった。
 ただ、僕には、それが、たまらなかった。彼のバリトンが僕の鼓膜を通り、心を揺さぶり、全身を熱くさせた。唇を何度か動かすが、何も言葉にはできなかった。彼の瞳が求めている気がして、そ、っと彼の肩に額をあて、その腕に両手を控え目にかけた。彼は、それに満足したのかどうなのかわからないが、ちらりと盗み見ると、また雑誌を淡々と読んでいた。
 どきどきと心臓が脈打つと右頬がひりつく。それでも、僕はうっとりと瞼をおろし、彼の匂いに酔いしれた。
 彼が、どう思っているのか、とても気になった。

「佳純…」

 名前を呼んでも、彼からは何の反応もない。

「佳純」

 もう一度、名前を呼ぶ。額をぐりぐりと押し付けると、駄々をこねる子供をなだめるように、彼の腕にすがっていた僕の手を優しく撫でられ、ぽんぽんと叩かれた。その指を、ぎゅ、と握りしめると、彼は僕の手のひらを包み、指で甘やかしてくれた。この甘い時間があれば、僕は、これだけで良いと少し、思った。
 ぱちぱちと雨粒がガラスを叩く。教室のすべてが外から見渡せるように、ここの部屋は全面がガラス張りになっている。目の前は樹木や花、植物が僕らが世界から隠すように茂っていた。目の前には、立派な紫のアジサイが咲き誇っていた。小さな花が集まり、大輪を装うその姿が、愛おしく思えた。


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