7 / 13
Cメロ-1
ある休日、俺は参考書を買いに本屋へと来ていた。ふと思い立って医学書コーナーへと向かう。
耳、耳、耳……。
あった、と指を止めて、思考も同じくぴたりと止まる。耳に関する本のあまりの数の少なさに、愕然としたのだ。
確かに俺も山都から騒音性難聴なんて言葉を聞くまで、難聴に種類があるなんて知らなかった。聾者も中途失調者も一括りにしていた。
世間の関心なんてこんなもんだ。この本の少なさがそれを物語っている。
俺は参考書を買おうと思っていたのも忘れ、本屋を後にした。
*
セミの声がじわじわと耳に障る。扇風機をつけないと、そろそろしんどくなってきた。だけどまだ起きたくなくて、俺は布団の中であがいていた。
「譲二~、お前待ち合わせしてたんじゃねぇの?」
兄貴の声にぱちりと目を開けた。時計を見やると、まだ七時半だった。待ち合わせの時間にはまだ早い。
「なんか女の子来てっけど」
「は!?」
俺は飛び起きた。
俺の部屋を覗き込む兄貴の後ろ、山都がひょこっと顔を覗かせた。
「おはようジョージ! ラジオ体操の時間だよ!」
カンベンしてくれ……。
寝起きから準備が終わるまで、全部山都に見られてしまった。
いや別にいいんだけど……。裸を見られたわけじゃないし……。
でも、仮にも好きな子に全部見られるというのはどうなんだ? 山都がなんにも気にしてない顔なのが、またさらに腹立つ。
「いやー、ジョージってお兄さんと二人暮らしだったんですね!」
「そうだよー。実家がちょっと遠くてね。俺も、由真ちゃんみたいな可愛い子が譲二と友達だなんて、知らなかったよ。こいつ、そういうことなーんにも話さないからさー」
兄貴は昼夜逆転してるんだから、仕方ないだろ。珍しく今日は早起きしてるな……。
「ほら兄貴、今日は早出じゃなかったのか? 遅刻するぞ」
「はいはい。二人っきりになったからって手出すんじゃないぞ」
「誰が出すかこんな色気なし女!」
「ジョージひっどーい!」
兄貴は笑いながら出かけていった。
まったくもう……。つい口を滑らせたけど、どうすんだこれ。山都はプンプン怒っている。
その目が部屋の片隅を向いた。
「ん、ちゃんと準備してたんだね」
その視線の先には、俺のベースケースがある。
昨夜、押入れから出すときにはすごく緊張した。実に八ヶ月振り。形が変わってたらどうしようと思いながら蓋を開けたけど、そんなことはなかった。当たり前だ。
それから俺は念入りに手入れをした。
『八ヶ月も放置しやがって』とベースが言ってる気がした。
『またよろしくな』とも。
俺は牛乳を注いで、兄貴が用意してくれたトーストとハムエッグの横に置いた。山都の前には麦茶が置いてある。
「おまえ、朝飯はちゃんと食ったのかよ」
「うん? 食べてきたよ」
「そっか」
俺がトーストにかぶりつくのを、山都は楽しそうに見ていた。
夏休みが始まった。バンド活動始動である。
八時を過ぎれば、もう暑さにうんざりしてくる。俺と山都は楽器ケースを担いで、そんなうだるような暑さのアスファルトの上を歩いていた。
「うん、英語科棟の二階借りれたって」
リュー先輩からのメッセージだ。山都はスマホを見ながら言った。
英語科棟は、特別教室を挟んでさらに渡り廊下を行ったところだ。
「なんで英語科棟?」
「三年生が課外あるから普通教室じゃうるさいし、屋上じゃ暑いでしょ? 英語科棟なら夏休みは誰も使わないし、クーラーあるから涼しいじゃーん」
だめだ、クーラーと聞いただけで暑くなってきた。久し振りにベースを肩に担いで歩くけどしんどい。ベースってこんな重かったっけ?
「あれあれー? ジョージくんは楽器持ってるだけでへばってるんですかー?」
「んなわけねーだろしばくぞ山都」
「きゃー! こわーい!」
そう言ってギターを背負った山都は駆けていく。
……あいつの方が体力あるかも。今日から筋トレしよう。
俺はそう心に決めて、山都の後を追った。
昇降口では、すでにリュー先輩が待ち構えていた。
「適度に休憩取りつつちゃんと練習すること。由真に手出したらぶっ殺す」
「だから出しませんって!」
どいつもこいつも! 兄貴はともかくリュー先輩は目がマジだ。怖い!
山都がリュー先輩に「ありがとねー」と言って、カギを受け取った。
二人で英語科棟へ向かう。
開け放たれた窓からセミの鳴き声が聞こえる。二つに結んだ山都の髪を、風が揺らした。
そうだ、なんか違うと思ったら、今日は髪を結んでいるのだ。赤い補聴器がよく見える。
「髪、結んでるんだな」
俺の声に山都はぴたりと立ち止まって、振り返った。まじまじと俺の顔を見たあと、にっと笑う。
「気づいてないのかと思った」
「いや気づくだろ普通」
「暑いからねー」
山都はくるりと前を向いて、また歩き出した。
やっぱ暑かったのか。その長さだもんな。
「夏休みだし、ジョージしかいないし」
ぽつりと山都は呟くと、それきり黙ってしまった。
いつも、髪が邪魔じゃないのかと思っていたけど、補聴器を見られるのが嫌だったのかもしれない。思えば二人でライブに行った日も、髪を下ろしていた。
……『内側』に入ったということだろうか?
「さ、ついたよー」
英語科棟二階の教室の前には、アンプ二台とドラムがすでに置いてあった。
「リュー先輩が持ってきてくれたのか?」
「ううん。二年の先輩でね、リューの手伝いをしてくれる人たちかいるの。先輩たちに運んでもらったって」
手伝い……? 脅しじゃないよな……。
締め切っていた教室はむわっとしていて、俺たちは急いで窓を開けてクーラーを点けた。おおよそ換気ができたところで窓を閉めて、クーラーの冷気に一息つく。
ドラムとアンプを運び入れて、ケースからベースを取り出した。
コードを繋いで、電源を入れて。
立ち上がって、肩に食い込むストラップに、知らず知らずのうちに緊張してしまう。
こうやって弾くのは、久し振りだ。
うちはマンションだから、家でアンプに繋ぐことはないし、なによりまともに弾くのは、最後のライブ以来だ。
黒光りするベースは、黒光りするままで待っていてくれた。
弾けるだろうか。
ほぼ一年振りか? 指の動きは悪くなってるだろう。左手の指は、もう大分柔らかくなっている。
俺は左手でネックを持ち、右手でピックを握って固まっていた。
「ジョージは弾けるよ」
クーラーの音だけが充満する教室に、凛とした声が響いた。
顔を上げると、ギターを抱えた山都と目が合った。俺はその目から視線を反らせなくなる。
その目は、俺がちゃんとまたベースを弾けるようになると信じきっている目だ。どうしてそこまで信じられるんだ。
「……なんで、そう思う?」
気づけば、そう聞いていた。
俺は俺が信じられない。自分のやり方は間違ってないと思ってやってきた。
でもそれが、あの結果だ。
「だってあたしはジョージのベースが好きだから。ジョージなら絶対大丈夫」
なんだそれ。理由になってねぇよ。
また暴走するかもしれない。山都の望む演奏をできないかもしれない。
それでもお前は、聞いてくれるのか?
「ジョージが言ったんじゃん。『雑音だなんて言わせない』って。それってジョージのベースも含めてってことでしょ? あたし、ジョージとならできると思うの。やってみよう? もし失敗しても、できるようになるまでやればいいんだし」
山都はピックで俺を指して、にっと笑った。
なんだかなぁ。
一緒にバンドやろうとか、俺のベースがいいとか、山都が俺の助けを必要としてるみたいに言うけど、実際のところ、助けられてるのは俺の方かもしれない。
こういうので、どっちがつらいとかいうのはずるいけもしれないけど、俺の悩みなんかより山都の方がずっと大変なはずだ。耳が聞こえなくなるなんて、俺だったらもっと周りに当り散らしちまうかもしれない。
だけど、山都は一緒にやろうと言ってくれる。
中学時代の俺に言ってやりたい。仲間がいるっていうのは、こんなに心強いものなんだぞ、と。
俺はピックを握り直した。一弦を弾く。重低音がビリビリと足の裏に伝わった。二、三、四、とチューニングを合わせていく。
山都は静かにその様子を見ていた。俺は深く息を吸って、長く吐く。
LODのあの曲。ライブの帰りに山都が歌った曲なら弾いたことがある。
ワン、ツー、スリー、フォー。
あぁ、懐かしい。この感じ。音が指先から、耳から、足の裏から、腹の底から伝わってくるこの感じ。ベースじゃなきゃ味わうことのできない痺れが、俺の鼓動を早めていく。
でも、もどかしい。指さばきが追いつかない。くそ、これが八ヶ月のブランクか。頭の中じゃリズムは正確に刻まれてるのに、実際聞こえる音はガタガタだ。
だけど。
顔を上げると、案の定、山都は笑っていた。
うん、楽しいよな。音楽は楽しい。
跳びたくなる。頭を振りたくなる。叫びたくなる。笑いたくなる。
ずっと、この感覚を忘れてた気がする。
最初は、その光景に憧れたはずだ。好きなバンドのライブを見て、その楽しそうな光景を自分も味わいたいと思った。
理想に追いつけなくて、どんどん周りが見えなくなっていった自分。
それを、山都は引き戻してくれた。いや、このままの自分でいいと言ってくれたんだ。
それでも。
俺は、お前が自由に歌えるように弾いてみたい。
「ははっ、全然ダメだ」
一曲弾き終わる頃には、左手が痛くなっていた。こりゃ指作りから始めないとダメだな。指が柔らかくなりすぎてしまってる。
「でも、やっぱジョージのベースはいいね」
当たり前のように言う山都に、俺は言葉に詰まってしまう。
なんだよ、こんなんじゃ全然だ。文化祭まであんまり時間がない。
ただ弾けるだけじゃダメなんだ。山都に完璧に合わせられないとダメだ。
知らず知らずのうちに、眉間にしわが寄っていく。
「ジョージ、音を楽しむよ。カンペキに」
眉間をぐりぐりと押された。指はすぐに離れて、山都のその指はピックを摘まむ。
触れられたところが熱を持ったみたいだ。
俺はそれを悟られないように、弦を確認するふりをした。
耳、耳、耳……。
あった、と指を止めて、思考も同じくぴたりと止まる。耳に関する本のあまりの数の少なさに、愕然としたのだ。
確かに俺も山都から騒音性難聴なんて言葉を聞くまで、難聴に種類があるなんて知らなかった。聾者も中途失調者も一括りにしていた。
世間の関心なんてこんなもんだ。この本の少なさがそれを物語っている。
俺は参考書を買おうと思っていたのも忘れ、本屋を後にした。
*
セミの声がじわじわと耳に障る。扇風機をつけないと、そろそろしんどくなってきた。だけどまだ起きたくなくて、俺は布団の中であがいていた。
「譲二~、お前待ち合わせしてたんじゃねぇの?」
兄貴の声にぱちりと目を開けた。時計を見やると、まだ七時半だった。待ち合わせの時間にはまだ早い。
「なんか女の子来てっけど」
「は!?」
俺は飛び起きた。
俺の部屋を覗き込む兄貴の後ろ、山都がひょこっと顔を覗かせた。
「おはようジョージ! ラジオ体操の時間だよ!」
カンベンしてくれ……。
寝起きから準備が終わるまで、全部山都に見られてしまった。
いや別にいいんだけど……。裸を見られたわけじゃないし……。
でも、仮にも好きな子に全部見られるというのはどうなんだ? 山都がなんにも気にしてない顔なのが、またさらに腹立つ。
「いやー、ジョージってお兄さんと二人暮らしだったんですね!」
「そうだよー。実家がちょっと遠くてね。俺も、由真ちゃんみたいな可愛い子が譲二と友達だなんて、知らなかったよ。こいつ、そういうことなーんにも話さないからさー」
兄貴は昼夜逆転してるんだから、仕方ないだろ。珍しく今日は早起きしてるな……。
「ほら兄貴、今日は早出じゃなかったのか? 遅刻するぞ」
「はいはい。二人っきりになったからって手出すんじゃないぞ」
「誰が出すかこんな色気なし女!」
「ジョージひっどーい!」
兄貴は笑いながら出かけていった。
まったくもう……。つい口を滑らせたけど、どうすんだこれ。山都はプンプン怒っている。
その目が部屋の片隅を向いた。
「ん、ちゃんと準備してたんだね」
その視線の先には、俺のベースケースがある。
昨夜、押入れから出すときにはすごく緊張した。実に八ヶ月振り。形が変わってたらどうしようと思いながら蓋を開けたけど、そんなことはなかった。当たり前だ。
それから俺は念入りに手入れをした。
『八ヶ月も放置しやがって』とベースが言ってる気がした。
『またよろしくな』とも。
俺は牛乳を注いで、兄貴が用意してくれたトーストとハムエッグの横に置いた。山都の前には麦茶が置いてある。
「おまえ、朝飯はちゃんと食ったのかよ」
「うん? 食べてきたよ」
「そっか」
俺がトーストにかぶりつくのを、山都は楽しそうに見ていた。
夏休みが始まった。バンド活動始動である。
八時を過ぎれば、もう暑さにうんざりしてくる。俺と山都は楽器ケースを担いで、そんなうだるような暑さのアスファルトの上を歩いていた。
「うん、英語科棟の二階借りれたって」
リュー先輩からのメッセージだ。山都はスマホを見ながら言った。
英語科棟は、特別教室を挟んでさらに渡り廊下を行ったところだ。
「なんで英語科棟?」
「三年生が課外あるから普通教室じゃうるさいし、屋上じゃ暑いでしょ? 英語科棟なら夏休みは誰も使わないし、クーラーあるから涼しいじゃーん」
だめだ、クーラーと聞いただけで暑くなってきた。久し振りにベースを肩に担いで歩くけどしんどい。ベースってこんな重かったっけ?
「あれあれー? ジョージくんは楽器持ってるだけでへばってるんですかー?」
「んなわけねーだろしばくぞ山都」
「きゃー! こわーい!」
そう言ってギターを背負った山都は駆けていく。
……あいつの方が体力あるかも。今日から筋トレしよう。
俺はそう心に決めて、山都の後を追った。
昇降口では、すでにリュー先輩が待ち構えていた。
「適度に休憩取りつつちゃんと練習すること。由真に手出したらぶっ殺す」
「だから出しませんって!」
どいつもこいつも! 兄貴はともかくリュー先輩は目がマジだ。怖い!
山都がリュー先輩に「ありがとねー」と言って、カギを受け取った。
二人で英語科棟へ向かう。
開け放たれた窓からセミの鳴き声が聞こえる。二つに結んだ山都の髪を、風が揺らした。
そうだ、なんか違うと思ったら、今日は髪を結んでいるのだ。赤い補聴器がよく見える。
「髪、結んでるんだな」
俺の声に山都はぴたりと立ち止まって、振り返った。まじまじと俺の顔を見たあと、にっと笑う。
「気づいてないのかと思った」
「いや気づくだろ普通」
「暑いからねー」
山都はくるりと前を向いて、また歩き出した。
やっぱ暑かったのか。その長さだもんな。
「夏休みだし、ジョージしかいないし」
ぽつりと山都は呟くと、それきり黙ってしまった。
いつも、髪が邪魔じゃないのかと思っていたけど、補聴器を見られるのが嫌だったのかもしれない。思えば二人でライブに行った日も、髪を下ろしていた。
……『内側』に入ったということだろうか?
「さ、ついたよー」
英語科棟二階の教室の前には、アンプ二台とドラムがすでに置いてあった。
「リュー先輩が持ってきてくれたのか?」
「ううん。二年の先輩でね、リューの手伝いをしてくれる人たちかいるの。先輩たちに運んでもらったって」
手伝い……? 脅しじゃないよな……。
締め切っていた教室はむわっとしていて、俺たちは急いで窓を開けてクーラーを点けた。おおよそ換気ができたところで窓を閉めて、クーラーの冷気に一息つく。
ドラムとアンプを運び入れて、ケースからベースを取り出した。
コードを繋いで、電源を入れて。
立ち上がって、肩に食い込むストラップに、知らず知らずのうちに緊張してしまう。
こうやって弾くのは、久し振りだ。
うちはマンションだから、家でアンプに繋ぐことはないし、なによりまともに弾くのは、最後のライブ以来だ。
黒光りするベースは、黒光りするままで待っていてくれた。
弾けるだろうか。
ほぼ一年振りか? 指の動きは悪くなってるだろう。左手の指は、もう大分柔らかくなっている。
俺は左手でネックを持ち、右手でピックを握って固まっていた。
「ジョージは弾けるよ」
クーラーの音だけが充満する教室に、凛とした声が響いた。
顔を上げると、ギターを抱えた山都と目が合った。俺はその目から視線を反らせなくなる。
その目は、俺がちゃんとまたベースを弾けるようになると信じきっている目だ。どうしてそこまで信じられるんだ。
「……なんで、そう思う?」
気づけば、そう聞いていた。
俺は俺が信じられない。自分のやり方は間違ってないと思ってやってきた。
でもそれが、あの結果だ。
「だってあたしはジョージのベースが好きだから。ジョージなら絶対大丈夫」
なんだそれ。理由になってねぇよ。
また暴走するかもしれない。山都の望む演奏をできないかもしれない。
それでもお前は、聞いてくれるのか?
「ジョージが言ったんじゃん。『雑音だなんて言わせない』って。それってジョージのベースも含めてってことでしょ? あたし、ジョージとならできると思うの。やってみよう? もし失敗しても、できるようになるまでやればいいんだし」
山都はピックで俺を指して、にっと笑った。
なんだかなぁ。
一緒にバンドやろうとか、俺のベースがいいとか、山都が俺の助けを必要としてるみたいに言うけど、実際のところ、助けられてるのは俺の方かもしれない。
こういうので、どっちがつらいとかいうのはずるいけもしれないけど、俺の悩みなんかより山都の方がずっと大変なはずだ。耳が聞こえなくなるなんて、俺だったらもっと周りに当り散らしちまうかもしれない。
だけど、山都は一緒にやろうと言ってくれる。
中学時代の俺に言ってやりたい。仲間がいるっていうのは、こんなに心強いものなんだぞ、と。
俺はピックを握り直した。一弦を弾く。重低音がビリビリと足の裏に伝わった。二、三、四、とチューニングを合わせていく。
山都は静かにその様子を見ていた。俺は深く息を吸って、長く吐く。
LODのあの曲。ライブの帰りに山都が歌った曲なら弾いたことがある。
ワン、ツー、スリー、フォー。
あぁ、懐かしい。この感じ。音が指先から、耳から、足の裏から、腹の底から伝わってくるこの感じ。ベースじゃなきゃ味わうことのできない痺れが、俺の鼓動を早めていく。
でも、もどかしい。指さばきが追いつかない。くそ、これが八ヶ月のブランクか。頭の中じゃリズムは正確に刻まれてるのに、実際聞こえる音はガタガタだ。
だけど。
顔を上げると、案の定、山都は笑っていた。
うん、楽しいよな。音楽は楽しい。
跳びたくなる。頭を振りたくなる。叫びたくなる。笑いたくなる。
ずっと、この感覚を忘れてた気がする。
最初は、その光景に憧れたはずだ。好きなバンドのライブを見て、その楽しそうな光景を自分も味わいたいと思った。
理想に追いつけなくて、どんどん周りが見えなくなっていった自分。
それを、山都は引き戻してくれた。いや、このままの自分でいいと言ってくれたんだ。
それでも。
俺は、お前が自由に歌えるように弾いてみたい。
「ははっ、全然ダメだ」
一曲弾き終わる頃には、左手が痛くなっていた。こりゃ指作りから始めないとダメだな。指が柔らかくなりすぎてしまってる。
「でも、やっぱジョージのベースはいいね」
当たり前のように言う山都に、俺は言葉に詰まってしまう。
なんだよ、こんなんじゃ全然だ。文化祭まであんまり時間がない。
ただ弾けるだけじゃダメなんだ。山都に完璧に合わせられないとダメだ。
知らず知らずのうちに、眉間にしわが寄っていく。
「ジョージ、音を楽しむよ。カンペキに」
眉間をぐりぐりと押された。指はすぐに離れて、山都のその指はピックを摘まむ。
触れられたところが熱を持ったみたいだ。
俺はそれを悟られないように、弦を確認するふりをした。
あなたにおすすめの小説
絶交した幼馴染と大学の合コンで再会した。
孤独な蛇
恋愛
中学生の浅野春樹は上級生と喧嘩騒動を起こしたことがあった。
その上、目つきが悪く地毛は茶髪のため不良少年のような扱いを受けて学校では孤立していた。
そんな中、幼馴染の深瀬志穂だけは春樹のことをいつも気遣ってくれていた。
同じ高校に行こうと声を掛けてくれる志穂の言葉に応えたい一心で受験勉強にも力を入れていた。
春樹にとって、学校で孤立していることは問題ではなかった。
昔から志穂が近くにいてくれるから……。
しかし、3年生なってから志穂の態度がよそよそしくなってきた。
登下校も別々になり、学校で話しかけてくることも無くなった。
志穂の心が自分から離れていってしまっている気がした春樹は焦っていた。
彼女と話がしたい。笑った顔が見たい。
志穂と一緒に帰ろうと、彼女が部活動を行っている体育館へ向かったのだが……。
そこで春樹が耳にしたのは、自分の悪口を言って部活の友達と楽しそうにしている志穂の声だった。
その瞬間、春樹の中で志穂に対する想いや信頼は……消滅した。
妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転
小林一咲
ライト文芸
不倫妻に捨てられ、会社もクビ。
人生の底に落ちたアラフォー社畜・恩塚聖士は、偶然買った宝くじで“非課税10億円”を当ててしまう。
防音タワマン、最強機材、そしてバ美肉VTuber「姫宮みこと」として新たな人生が始まる。
どん底からの逆転劇は、やがて裏切った者たちの運命も巻き込んでいく――。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness
碧井夢夏
ライト文芸
<第五回ライト文芸大賞 最終選考・奨励賞>
住宅街とオフィスビルが共存するとある下町にある定食屋「まなべ」。
看板娘の利津(りつ)は毎日忙しくお店を手伝っている。
最近隣にできたコーヒーショップ「The Coffee Stand Natsu」。
どうやら、店長は有名なクリエイティブ・ディレクターで、脱サラして始めたお店らしく……?
神の舌を持つ定食屋の娘×クリエイティブ界の神と呼ばれた男 2人の出会いはやがて下町を変えていく――?
定食屋とコーヒーショップ、時々美容室、を中心に繰り広げられる出会いと挫折の物語。
過激表現はありませんが、重めの過去が出ることがあります。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
婚約破棄?いいですけど私巨乳ですよ?
無色
恋愛
子爵令嬢のディーカは、衆目の中で婚約破棄を告げられる。
身分差を理由に見下されながらも、彼女は淡々と受け入れようとするが、その時ドレスが破れ、隠していた自慢のそれが解き放たれてしまう。