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「お元気そうで何よりです、グレイブ様」
そう言った私の声は窓から差し込む陽光に溶けていった。けれど、彼はただ頷くだけで言葉を交わさない。
沈黙——。
それはもう見慣れていたから、私は笑みを崩すことはなかった。
幼い頃からずっと、彼は無口だった。私が一方的に話し、彼はただそれに耳を傾けているだけ。それでも、彼の合わない眼差しの奥に微かな好奇心を見つけた気がして、何度も話しかけていた。
「先日、母が新しいドレスを仕立ててくださったのです。刺繍に少しだけ白い花を散らしてくれて。それが、グレイブ様のお好きな色だと思って」
その好奇心を揺さぶるように声を掛ける。彼はちらりとこちらを見たが、まだ言葉はない。
どうやら、ファッションに興味は無いらしい。私は慌てて次の話題を探す。
「領地では、もうすぐ春祭りがありますね。小さな市も開かれると聞きました。今度、ご一緒に——」
「行けない」
拒絶するその声は花弁を踏みつぶすように淡々としていた。それでも、声を聞けたことが酷く嬉しかった。
「では、また明日もお伺いしてよろしいでしょうか?」
「……好きにすればいい」
私は微笑みを返したまま、サッと立ち上がった。私はまだ、信じている。
彼の沈黙の奥に、かすかな優しさが隠れていると——。
翌朝、陽が昇るより少し早く、私は馬車に乗り込んだ。
暗い早朝に支度をしていたから、執事が驚いたように眉を上げて、理由を聞かれたが、それに答えられるほど余裕はなかった。
ただ、今日はきっと、昨日よりも会話ができるはずと、そう信じていた。
辺境伯邸の庭は春の名残を抱いていた。
白い花々が風に揺れ、その向こうにグレイブの姿が見えた。
彼は黒い上着に手袋をしたまま、庭師に何か指示を出している。私の姿に気づいたものの、驚いたように一瞬だけ眉を寄せ、すぐ視線を逸らした。
「ごきげんよう、グレイブ様」
「……ああ。リシェルか」
その声は冷たかった。
形式的な挨拶のはずだというのに、彼の声が聞けただけで、何か目的を一つ達成したような幸福感に胸が高鳴った。
そして、私は胸の奥で息を整え、そっと彼に歩み寄る。春の風が裾を揺らし、靴音が芝を踏むたびに小さく沈んだ。
「いいお天気ですね。冬の名残も、もうすぐ消えてしまいそうです」
彼は応えない。
額にかかる髪が光を受け、淡く揺れた。
その横顔を見つめることすら、いけないことのように思えて、私は視線を逸らす。
庭の奥では、風に煽られた花々がかすかにざわめいていた。あの白い花だけが、ひときわ静かに咲いている。まるで、私の胸の内を知っているかのように。——あの花の名は何だっただろうか。
「最近、領地では子どもたちがよく歌を歌っているんです。春を呼ぶ歌だそうで——」
言葉を紡いだ瞬間、彼が小さく肩を揺らした。
何かを言いかけたのかと思ったが、そのまま沈黙に戻る。
「……そうか」
ようやく落ちた声は風よりも弱く、私の足元で消えた。
その響きの余韻がまだ胸の奥で揺れているうちに、彼はわずかに眉を寄せ、視線を逸らす。
静寂が二人のあいだに降り、やがて、彼は踵を返した。
動作はゆるやかで、ふらついていて、まるで何かを言いかけてやめたような——そんな迷いがあった。
けれど、その背中には明確な拒絶の壁がたしかにあった。
私はその場で風に身を任せる。
風が通り抜け、ドレスの裾が風に翻り、淡い陽光を弾く。そして、不意に白い花弁がひとつ、私の足元に落ちた。
この花の名前は、幼い頃に彼が教えてくれたはずなのに。
どうして、思い出せないのだろう。
日差しは柔らかいのに、背筋を撫でる風はひどく冷たかった。まるで風に散る花弁のように、私の決意も頼りなく揺れていた。
そう言った私の声は窓から差し込む陽光に溶けていった。けれど、彼はただ頷くだけで言葉を交わさない。
沈黙——。
それはもう見慣れていたから、私は笑みを崩すことはなかった。
幼い頃からずっと、彼は無口だった。私が一方的に話し、彼はただそれに耳を傾けているだけ。それでも、彼の合わない眼差しの奥に微かな好奇心を見つけた気がして、何度も話しかけていた。
「先日、母が新しいドレスを仕立ててくださったのです。刺繍に少しだけ白い花を散らしてくれて。それが、グレイブ様のお好きな色だと思って」
その好奇心を揺さぶるように声を掛ける。彼はちらりとこちらを見たが、まだ言葉はない。
どうやら、ファッションに興味は無いらしい。私は慌てて次の話題を探す。
「領地では、もうすぐ春祭りがありますね。小さな市も開かれると聞きました。今度、ご一緒に——」
「行けない」
拒絶するその声は花弁を踏みつぶすように淡々としていた。それでも、声を聞けたことが酷く嬉しかった。
「では、また明日もお伺いしてよろしいでしょうか?」
「……好きにすればいい」
私は微笑みを返したまま、サッと立ち上がった。私はまだ、信じている。
彼の沈黙の奥に、かすかな優しさが隠れていると——。
翌朝、陽が昇るより少し早く、私は馬車に乗り込んだ。
暗い早朝に支度をしていたから、執事が驚いたように眉を上げて、理由を聞かれたが、それに答えられるほど余裕はなかった。
ただ、今日はきっと、昨日よりも会話ができるはずと、そう信じていた。
辺境伯邸の庭は春の名残を抱いていた。
白い花々が風に揺れ、その向こうにグレイブの姿が見えた。
彼は黒い上着に手袋をしたまま、庭師に何か指示を出している。私の姿に気づいたものの、驚いたように一瞬だけ眉を寄せ、すぐ視線を逸らした。
「ごきげんよう、グレイブ様」
「……ああ。リシェルか」
その声は冷たかった。
形式的な挨拶のはずだというのに、彼の声が聞けただけで、何か目的を一つ達成したような幸福感に胸が高鳴った。
そして、私は胸の奥で息を整え、そっと彼に歩み寄る。春の風が裾を揺らし、靴音が芝を踏むたびに小さく沈んだ。
「いいお天気ですね。冬の名残も、もうすぐ消えてしまいそうです」
彼は応えない。
額にかかる髪が光を受け、淡く揺れた。
その横顔を見つめることすら、いけないことのように思えて、私は視線を逸らす。
庭の奥では、風に煽られた花々がかすかにざわめいていた。あの白い花だけが、ひときわ静かに咲いている。まるで、私の胸の内を知っているかのように。——あの花の名は何だっただろうか。
「最近、領地では子どもたちがよく歌を歌っているんです。春を呼ぶ歌だそうで——」
言葉を紡いだ瞬間、彼が小さく肩を揺らした。
何かを言いかけたのかと思ったが、そのまま沈黙に戻る。
「……そうか」
ようやく落ちた声は風よりも弱く、私の足元で消えた。
その響きの余韻がまだ胸の奥で揺れているうちに、彼はわずかに眉を寄せ、視線を逸らす。
静寂が二人のあいだに降り、やがて、彼は踵を返した。
動作はゆるやかで、ふらついていて、まるで何かを言いかけてやめたような——そんな迷いがあった。
けれど、その背中には明確な拒絶の壁がたしかにあった。
私はその場で風に身を任せる。
風が通り抜け、ドレスの裾が風に翻り、淡い陽光を弾く。そして、不意に白い花弁がひとつ、私の足元に落ちた。
この花の名前は、幼い頃に彼が教えてくれたはずなのに。
どうして、思い出せないのだろう。
日差しは柔らかいのに、背筋を撫でる風はひどく冷たかった。まるで風に散る花弁のように、私の決意も頼りなく揺れていた。
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