醜貌の聖女と呼ばれ、婚約破棄された公爵令嬢ですが、実は本物の聖女だったので王国が滅びかけています

きまま

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王都に異変が現れたのは、婚約破棄から三日後のことだった。

最初は小さな違和感に過ぎなかった。
朝になっても、冷たく、肌にまとわりつくような、湿り気を帯びた霧が晴れずにいた。
早朝の市に立つ商人たちは口々に「今年は妙な天気だ」と首を傾げるのみで、通りを行く人々は無意識に足早となる。

街路樹の葉は季節外れにもかかわらず黒ずみ始め、花は蕾のまま力尽きるように落ちていった。
庭師たちは土を疑い、水を疑い、肥料を変えたが、どれも効果はなかった。

聖堂では、供えられた祝福の水が薄く濁り、光を失っていた。神官たちは眉を寄せ、何度も浄化の祈祷を繰り返したが、水は元の澄んだ輝きを取り戻さない。

「……聖女の加護が、弱まっている?」

若い神官の一人が思わずそう呟いた。

「馬鹿な。聖女は王家にいるはずだろう」

「婚約破棄された公爵令嬢が聖女だったとでも言うのか」

冗談めかした笑いが起き、その場はそれで終わった。

だが、異変は確実に広がっていく。

王都近郊で魔獣の出没が相次いだ。
本来なら結界によって寄りつかないはずの低級魔獣が畑を荒らし、家畜を襲い、人を傷つける。辺境では瘴気が濃くなり、巡回兵の報告が急増した。
被害の報告は一日に数件だったものが、やがて十件を超え、ついには数え切れなくなり、報告書には「原因不明」の文字が並ぶ。

王城では緊急会議が開かれていた。

重厚な扉の奥、長い会議卓を囲む重臣たちの顔は硬く、空気は張り詰めている。

「結界の補強を急げ」

「神殿への祈祷を増やさせろ」

玉座の前で指示を飛ばすレオンハルトの声は苛立ちを帯びていた。机上に積まれた報告書の束は、まるで王国の不安そのもののように増え続けている一方で、どれも根本的な解決には至っていない。

「なぜだ……」

彼は無意識に呟く。

結界は毎日、正しく更新されている。
神官たちも以前と変わらぬ祈りを捧げている。
何一つ欠けていないはずなのだ。
——それなのに、力が足りない。

「殿下」

側近が言い淀みながら進み出る。

「……恐れながら、聖女の祝福が最近、ほとんど感じられないとの報告が」

「聖女はいる!」

レオンハルトは声を荒げた。

「新たに迎えた令嬢はどうした。あれほど美しい瞳を持つ女だぞ!」

美しさこそが聖女の証だと、彼は疑っていなかった。そう信じていたからこそ、選んだのだ。
側近は一瞬、言葉を詰まらせ、視線を伏せる。

「……彼女には祝福の徴が確認できません。祈祷に参加させても、特段、反応は……」

「そんなはずはない!」

否定の言葉は強く、しかし、根拠は空虚だった。
同じ頃、王都の広場では不穏な噂が立ち始めていた。

「そういえば、新しい令嬢、聖女の力が無いらしいよ」

「アルヴァリア公爵家の令嬢が王城にいた頃はこんなことなかったよな」

「あの仮面の人の話?」

最初は酒場の隅や市場の立ち話で交わされる、根も葉もない噂話に過ぎなかった。
しかし、霧は晴れず、魔獣は減らず、人々の不安は確実に積み重なっていく。
やがて、その噂は疑念へ。疑念は確信へと姿を変え始める。

あの人がいたから、平和だったんじゃないか?

誰かがはっきりと告げたわけではない。だが、誰もが同じ結論に辿り着き始めていた。
——銀の仮面の令嬢がいなくなってから、王国はおかしくなったのだ、と。



その晩。
レオンハルトは一人、執務室にいた。
重厚な机に向かいながら、彼の指は報告書の文字をなぞっているだけで、内容はほとんど頭に入っていなかった。
外では遠くで魔獣の出没を告げる警鐘が鳴っている。それが一定の間隔で繰り返されるたびに、胸の奥がうるさくざわついていた。

「……騒がしい」

吐き捨てるように呟き、彼は音を振り払うように額を押さえた。
王都が不安定なのは一時的なものだ。結界の調整が遅れているだけだ。そう、自分は正しい判断をした。あの女を切り捨てたことに、何の誤りもあるはずがない。

そう、あるはずがないのに。
ふと、机の端に積まれた書類の一角に視線が止まる。

『アルヴァリア公爵家』

その名を見ただけで、胸の奥に小さな痛みが走った。
かつてはそこに居るのが当たり前だった名前。王家を支える柱の一つとして、疑うことすらしなかった存在。
それを自分の手で切り捨てた。

脳裏に浮かぶのは、銀の仮面ばかりだ。
夜会の光を受けながら、ただ静かに立っていた姿。罵られても、侮られても、言い返さず、縋りもしなかった女。

あの時、なぜ何も言わなかった?

問いが浮かび、しかし、すぐに苛立ちに変わる。
言えるはずがなかったのだ、仮面で顔を隠す女に、王妃の資格などないのだから。美しくなければ意味がない。民に夢を見せる存在でなければならない。
そうだ。
だから、自分は間違っていない。

——だが。

「……なぜだ」

低く漏れた声は誰に向けたものでもなかった。
彼女が王城を去ってから、結界は弱まり、祈祷は効かず、民は不安に怯えている。
偶然だ。そう言い聞かせても、事実がそれを否定する。

必要だったのは彼女だったのか?

その問いが再び浮かび上がる。

「違う」

今度ははっきりと声に出した。

「俺は正しい選択をした。美しい女を選んだ。王として当然の判断だ」

言い聞かせるように、何度も繰り返す。
だが、胸の奥に沈む違和感は言葉を重ねるほどに大きくなっていく。

仮面の奥の顔を彼は知らない。
それなのに、なぜかその瞳だけが、やけに鮮明に思い出される。静かで、怯えもせず、すべてを受け止めるような視線。

「……くだらない」

レオンハルトは立ち上がり、乱暴に書類を払いのけた。
彼女のことなど考える必要はない。失った大切なものなど何もない。
そう言い切れない自分を、彼はまだ認められずにいた。
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