心をなくした私と、あやかし荘の住人たち

ホロロン

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第1話 角の生えた大家さん

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すべてを捨てた。
家も、仕事も、名前さえも。逃げるように乗り込んだ電車の窓から、流れていく見知らぬ景色をぼんやりと眺めていた。

誰も自分を知らない場所へ行きたかった。もう、何もかも終わらせてしまいたかった。

気がつけば、降りたことも聞いたこともない駅に立っていた。

バスも通っていない坂道を、たったひとつの荷物を背負って歩いた。
汗ばむシャツの背中に、リュックがじっとりと張り付いて気持ちが悪い。春の空気はまだ涼しいはずなのに、呼吸は浅く、胸の奥がずっと重いままだった。

草の匂いのする、舗装もされていない細道を抜けると、ふいに目の前に古びた大きな日本家屋が現れた。
……旅館だろうか?けれど塀は崩れかけ、瓦はところどころ落ちている。それでも、どこか懐かしい雰囲気が漂っていた。錆びた風鈴が、かすれた音を風に乗せて鳴っている。

人の気配はない……はずだった。でも、玄関の前には、誰かがつけた掃き跡が、まっすぐに伸びていた。

ノックしようとした手が、かすかに震えた。呼び鈴は、見当たらない。

……とりあえず、聞いてみよう。

「……あの、空いてる部屋、ありますか?」

その瞬間、ぎい、と玄関の戸がゆっくりと音を立てて開いた。

「……ありますよ。ちょうど一部屋、空いてます」

低く響いた声に、思わず肩をすくめた。
現れたのは、天井に届きそうなほど大きな男だった。
広い肩、太い腕、どこか獣のような雰囲気。……だが、何よりも目を引いたのはその頭。……角だ。
牛か鹿のような、丸くて硬そうな角が、頭からにょっきりと生えていた。鬼……?

「ひっ……!」

とっさに後ずさろうとした足がもつれて、尻もちをついてしまった。

「ご、ごめん! 驚かせちゃった? 人間、びっくりさせるなって言われてたのに……!」

慌てた様子で手を振りながら、彼はぺこりと深く頭を下げた。

「俺、ここの大家なんだ。名前はオオヤ。……えーと、とりあえず、お茶飲む?」

気づけば、通された座敷のちゃぶ台には、湯気の立つ湯呑みが二つ並んでいた。
逃げ出すべきなのに、なぜか足が動かなかった。

「こっちに来るの、初めてなんだよね? 大丈夫。俺、人間食べたりしないから」

大きな手が、湯呑みをそっと差し出してきた。
彼女はこくんと、小さくうなずいた。
訳がわからないはずなのに、なぜか拒絶する気になれなかった。

湯呑みにそっと唇をつける。それはほんのりと甘くて、やさしい香りがした。
懐かしくて、泣きたくなるような味だった。

不意に、目の奥がじんわりと熱くなって、涙が、一筋、頬を伝ってこぼれた。

「どうしたの? 寒い?」

オオヤが、おずおずとタオルを差し出してくれる。その仕草さえも、どこかぎこちなくて優しかった。

「……ううん、大丈夫です」

ぎゅっと目を閉じて、首を横に振る。本当は、まったく大丈夫じゃない。
でも、「助けて」なんて言ってしまったら、きっとすべてが崩れてしまう。だから、もう少しだけ知らないふりをさせて。

手元の湯呑みに指を添える。その指先は、ほんの少しだけ……あたたかさを取り戻していた。

***

「もっと周りと連携を取ってくれって、前から言ってたよね?」

上司の冷たい声が、耳にこびりついていた。
部下たちは、目を逸らす。味方は誰もいなかった。

(どうして……全部、私が悪いみたいに)

昼も夜も働いた。体調を崩しても、休むことさえ許されなかった。
「気が利かない」「報連相が足りない」と責められ続けた日々。
支えだったはずの恋人には、「重い」と突き放され、他の女の影をあっさりと見せられた。その上、仕事のミスも押しつけられた。

家に帰っても、母の小言と、無関心な父の背中だけ。
疲れた顔を見せれば、「甘えるな」「もっと頑張れ」と言われた。

だから、頑張った。誰にも迷惑をかけないように。
期待に応えられるように。

けれど、ある朝ふと思ってしまったのだ。……私がいなくなっても、誰も困らないんじゃないか、と。

そのまま部屋を引き払い、職場に退職届を送りつけ、スマホを壊した。
いなくなるのではなく、消えてしまいたいと願った。
でも、それすらできなかった。

自分が、情けなかった。

***

ちゃぶ台の湯呑みに映る、自分の顔は少し赤くなっていた。お茶のあたたかさが、体の奥にじんわりと広がっていく。

……もう少しだけ、ここにいてもいいかな。

彼女は、胸の奥でそっと、そう思った。


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