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第5話 心の扉
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あやかし荘での暮らしにも、少しずつ慣れてきた。
朝はカナエの元気な声に起こされ、昼はオオヤや白澤と他愛もない会話を交わす。夜は、時折夢を見ながらも、ちゃんと眠れるようになってきた。
そんなある日、オオヤがふいに言った。
「今日は町まで買い出しに行こうか。そろそろ米も切れそうだし」
「町……ですか」
久しぶりに聞いたその言葉に、彼女の胸がわずかに強ばる。でも、オオヤと白澤が一緒だと聞いて、不思議と肩の力が抜けていく。
「……うん、行きます」
町は思っていたより近かった。舗装された道を抜けて雑木林を過ぎると、どこか懐かしい匂いのする商店街が広がっていた。焼きたてのパンの香り、花屋に並ぶ季節の草花、どこか遠くから響く自転車のベル。
ふと目に留まったのは、新聞屋の店先。積み重ねられた新聞の一番上に、太字の見出しが躍っていた。
「元研究員の不正処理問題、和解成立」
その瞬間、視界がぐらりと歪む。記事の下、黒いインクで刷られた活字の中に、見覚えのある名前があった。
「……麻宮 博之」
喉がひゅっと鳴り、呼吸が止まった。
忘れたはずの名前。あの日を境に、封じ込めてきたはずの過去。
「どうした?」
背後から声がして、彼女はびくりと肩を震わせた。振り返ると、白澤が不思議そうに彼女を見ていた。
「……いえ、なんでもないです」
笑顔をつくってそう答え、彼女は新聞から目を逸らし、その場を離れた。けれど、胸の奥がざわざわと波打っていた。
……事故、報告書、隠蔽。
誰が悪くて、何が正しかったのか。何ひとつ、はっきりしないまま、すべてが終わった。
職場も、未来も、そして……あの人も。
帰り道、彼女はほとんど口をきかなかった。
オオヤも白澤も、無理に問いただすことはしない。ただ少しだけ歩幅を合わせて、静かに彼女の隣を歩いてくれた。
あやかし荘に帰りつくと、カナエが玄関で出迎えてくれる。そして、ふと首をかしげながら言った。
「今日は……なんか、風の音がちょっと寂しかった」
その言葉に、彼女はふっと笑った。
「そうだね……ちょっとだけ、昔のことを思い出しちゃった」
その夜。布団に潜り込みながら、彼女はそっと顔を隠すようにして、静かに涙を流した。
あふれてきたのは、悔しさでも怒りでもない。ただ、置いてきたはずの何かが、胸の奥で静かに疼いていた。誰にも聞かれたくなくて、誰にも知られたくなくて……気が付いたら、そのまま眠りに落ちていた。
***
夜、静寂の中。彼女は浅い眠りの中で、かつての記憶を夢として再びなぞっていた。
薄暗い研究室の中。
いつもと変わらないはずの夜だった。けれど、何かがひどく狂っていた。
モニターが点滅する。警告音が鳴る。誰かが声を荒げている。
彼女は懸命に資料を確認し、データを読み取ろうとする。けれど、頭がうまく働かない。焦燥と不安だけが、じわじわと胸を締めつけていく。
「……こんなはずじゃ……!」
背後から誰かが書類を叩きつけた。
「お前が確認したんだろう! これはもう、報告できないレベルだ!」
振り返ると、そこにいたのは麻宮だった。
信じていた恋人。共に研究をしてきた相手。
けれど、彼の顔は怒りと焦りに歪んでいた。その後ろにいた上司たちも、まるで「お前が悪い」と言わんばかりの沈黙で立っていた。
「え……でも、それは……」
「いいから。どうせ、君の署名で処理した資料だろ?」
夢の中でも、言葉が出なかった。その瞬間、彼女の中で何かが壊れた。
責任逃れ。裏切り。心から信じていた人の、その本心を知ったときの、あの底冷えするような絶望。
ざあざあと、何かが崩れる音がする。研究室の壁がひび割れ、天井が落ちる。資料が焼け、机がひっくり返る。麻宮の姿も、煙にかき消えていった。
何もかもが、ぐちゃぐちゃだった。
……そして、闇。
彼女は、はっと目を覚ました。
呼吸が荒く、喉がひりつく。額には冷たい汗がにじみ、胸がつぶれそうなほど締めつけられていた。
……夢、か……
けれど、夢ではない。
あの日、確かにすべてが終わったのだ。
枕元にあったティッシュに手を伸ばし、顔を拭う。震える手を握りしめながら、彼女は布団の中で小さく丸くなった。
私は……まだあの日を、越えられていない。
隣の部屋で、白澤はじっと壁越しの気配に耳を澄ませていた。何も言わず、ただ静かに……彼女の涙が、風の音に紛れるように、そっと見守っていた。
朝はカナエの元気な声に起こされ、昼はオオヤや白澤と他愛もない会話を交わす。夜は、時折夢を見ながらも、ちゃんと眠れるようになってきた。
そんなある日、オオヤがふいに言った。
「今日は町まで買い出しに行こうか。そろそろ米も切れそうだし」
「町……ですか」
久しぶりに聞いたその言葉に、彼女の胸がわずかに強ばる。でも、オオヤと白澤が一緒だと聞いて、不思議と肩の力が抜けていく。
「……うん、行きます」
町は思っていたより近かった。舗装された道を抜けて雑木林を過ぎると、どこか懐かしい匂いのする商店街が広がっていた。焼きたてのパンの香り、花屋に並ぶ季節の草花、どこか遠くから響く自転車のベル。
ふと目に留まったのは、新聞屋の店先。積み重ねられた新聞の一番上に、太字の見出しが躍っていた。
「元研究員の不正処理問題、和解成立」
その瞬間、視界がぐらりと歪む。記事の下、黒いインクで刷られた活字の中に、見覚えのある名前があった。
「……麻宮 博之」
喉がひゅっと鳴り、呼吸が止まった。
忘れたはずの名前。あの日を境に、封じ込めてきたはずの過去。
「どうした?」
背後から声がして、彼女はびくりと肩を震わせた。振り返ると、白澤が不思議そうに彼女を見ていた。
「……いえ、なんでもないです」
笑顔をつくってそう答え、彼女は新聞から目を逸らし、その場を離れた。けれど、胸の奥がざわざわと波打っていた。
……事故、報告書、隠蔽。
誰が悪くて、何が正しかったのか。何ひとつ、はっきりしないまま、すべてが終わった。
職場も、未来も、そして……あの人も。
帰り道、彼女はほとんど口をきかなかった。
オオヤも白澤も、無理に問いただすことはしない。ただ少しだけ歩幅を合わせて、静かに彼女の隣を歩いてくれた。
あやかし荘に帰りつくと、カナエが玄関で出迎えてくれる。そして、ふと首をかしげながら言った。
「今日は……なんか、風の音がちょっと寂しかった」
その言葉に、彼女はふっと笑った。
「そうだね……ちょっとだけ、昔のことを思い出しちゃった」
その夜。布団に潜り込みながら、彼女はそっと顔を隠すようにして、静かに涙を流した。
あふれてきたのは、悔しさでも怒りでもない。ただ、置いてきたはずの何かが、胸の奥で静かに疼いていた。誰にも聞かれたくなくて、誰にも知られたくなくて……気が付いたら、そのまま眠りに落ちていた。
***
夜、静寂の中。彼女は浅い眠りの中で、かつての記憶を夢として再びなぞっていた。
薄暗い研究室の中。
いつもと変わらないはずの夜だった。けれど、何かがひどく狂っていた。
モニターが点滅する。警告音が鳴る。誰かが声を荒げている。
彼女は懸命に資料を確認し、データを読み取ろうとする。けれど、頭がうまく働かない。焦燥と不安だけが、じわじわと胸を締めつけていく。
「……こんなはずじゃ……!」
背後から誰かが書類を叩きつけた。
「お前が確認したんだろう! これはもう、報告できないレベルだ!」
振り返ると、そこにいたのは麻宮だった。
信じていた恋人。共に研究をしてきた相手。
けれど、彼の顔は怒りと焦りに歪んでいた。その後ろにいた上司たちも、まるで「お前が悪い」と言わんばかりの沈黙で立っていた。
「え……でも、それは……」
「いいから。どうせ、君の署名で処理した資料だろ?」
夢の中でも、言葉が出なかった。その瞬間、彼女の中で何かが壊れた。
責任逃れ。裏切り。心から信じていた人の、その本心を知ったときの、あの底冷えするような絶望。
ざあざあと、何かが崩れる音がする。研究室の壁がひび割れ、天井が落ちる。資料が焼け、机がひっくり返る。麻宮の姿も、煙にかき消えていった。
何もかもが、ぐちゃぐちゃだった。
……そして、闇。
彼女は、はっと目を覚ました。
呼吸が荒く、喉がひりつく。額には冷たい汗がにじみ、胸がつぶれそうなほど締めつけられていた。
……夢、か……
けれど、夢ではない。
あの日、確かにすべてが終わったのだ。
枕元にあったティッシュに手を伸ばし、顔を拭う。震える手を握りしめながら、彼女は布団の中で小さく丸くなった。
私は……まだあの日を、越えられていない。
隣の部屋で、白澤はじっと壁越しの気配に耳を澄ませていた。何も言わず、ただ静かに……彼女の涙が、風の音に紛れるように、そっと見守っていた。
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