心をなくした私と、あやかし荘の住人たち

ホロロン

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第6話 眠れない夜

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あやかし荘で暮らす日々は、どこか夢の中にいるような感覚だった。
毎日が穏やかで、時にはカナエとオオヤの軽口に笑い、時にはアカリの暴走に振り回されながらも、何もかもが新しい経験だった。

でも、彼女の心にはまだ、夢のことが、重く残っていた。夜になるのが怖い……またあの夢を見そうで……縁側で一人、立っていたら背後に足音が近づいてきた。

「まだ、寝てなかったのか?」

声をかけてきたのは、あの白澤だった。彼女は軽くうなずき、手元を見つめた。

「うん…なんか、寝付けなくて」

「何か、気になることでもあるのか?」

その一言に、思わず心の中がざわついた。「気になること」と言われて、すぐに思い浮かんだのは、あの夢だった。でも……彼に話せるわけがない。

「ううん、別に。ちょっと、夜風が気持ちよくて」

「そうか」

白澤は一歩近づくと、無言で棚から薬草の入った袋を取り出して、静かに準備を始めた。まるで何も言わずに、彼女の存在に合わせて、彼なりに手助けしようとしているようだった。

「それ、何?」

「寝付けないって言うなら、これを煎じて飲むといい」

薬草の匂いがほんのりとした。彼がこうして、何も言わずにサポートしてくれるのは、どこか安心感を与えてくれる。

「ありがとう」

彼女はお礼を言ったが、白澤は軽く肩をすくめて言った。

「気にするな。それくらい」

その言葉に少しほっとしたような、でもどこか物足りないような気持ちが湧き上がった。
なぜだろう。彼の言葉には、感情がないように感じるからだろうか。でも、何だか不思議な安心感も同時に感じた。

***

薬草の煎じ汁を飲んだおかげか、目を閉じると、心地よい眠気が訪れた。
布団に包まれたまま、ふわりと夢の世界に入っていった。

薄暗い会議室。冷たい蛍光灯の下で重く響く声が彼女を責め立てる。

「もっと周りと連携を取ってくれって、前から言ってたよね?」

上司の冷たい声が、耳にこびりついて離れない。
目の前の書類が震える。手が冷たい。けれど、誰も助けてくれない。部下たちは皆、目を逸らし、沈黙で彼女を突き放していた。全部、私が悪いみたいに……。

昼も夜も働いた。体調を崩しても、休むことさえ許されなかった。
「気が利かない」「報連相が足りない」「責任感がない」罵倒だけが積もっていった。

恋人だった麻宮は、仕事のミスを押しつけて、職場の信用は失墜した。
ほどなくして、彼は他の女性と親しげに話す姿を隠そうともしなくなった。

彼女の頑張りは、誰にも届かなかった。

夢の中の風景が、ざあっと色を失っていく。
資料も机も、声も表情も、灰色に溶けて崩れていく。

……何もかもが、音もなく消えていった。

***

彼女は息を切らしながら目を覚ました。
胸が痛い。喉が詰まる。けれど、声は出なかった。

夢のはずなのに、あまりにも生々しい記憶。
まるで、自分という人間を再び土の下に埋め戻されるような、そんな悪夢だった。
枕元のタオルを握りしめながら、彼女はふたたび、目を閉じた。

……私は、ただ、誰かに大丈夫だって、言ってほしかっただけなのに。
けれど、その一言は、誰にも届かなかった。

隣の部屋で、白澤の気配が微かに動いた気がした。気のせいかもしれない。でももし、聞かれていたとしたら……そのことだけが、少しだけ胸の奥に、あたたかく滲んだ。

***

朝、彼女はぼんやりとした頭で目を覚ました。
窓の外にはやわらかな陽が差し込んでいるのに、心の奥はまだ夜のままだった。

ふらりと廊下に出ると、台所のほうから湯気の立つ香りが漂ってきた。

「あ……おはようございます」

白澤が静かに振り返る。
いつもと変わらぬ穏やかな顔で、湯呑みを差し出してきた。

「眠れなかったようだから、薬湯を。……苦くはないよ。甘めにしてある」

湯呑みの中からは、やわらかな薬草とほのかな柑橘の香りが立ちのぼっていた。
口に含むと、すっと体に染みわたるような温かさ。胸のざわつきが、少しずつほどけていく。

「……ありがとうございます」

うまく笑えなかったけれど、白澤は何も言わずにうなずいた。

「効いてきたら、また少し眠るといい。夢は……時間をかけて薄れていくものだから」

それが、彼の精一杯の優しさなのだと、彼女は感じた。

誰かに「お前のせいだ」と言われ続けた日々の中で、こんなふうに「何も聞かずにそばにいる」ことが、どれだけ救いになるかなんて、あの頃の彼女は知らなかった。

……この家に来て、初めて知ったことだった。


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