小さなカフェには優しい風が吹く

ホロロン

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第3章 書けない夏と、あたたかい言葉

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夕暮れの空は、オレンジと群青がゆるやかに溶け合い、どこか懐かしさを帯びた色をしていた。
アスファルトにこだました蝉の声も、ひときわ静かになっていく。夏の終わりが音の輪郭から始まることを誰よりも街が知っているようだった。

そんな時間「Cafe 縁」の扉が控えめに、しかしはっきりと開いた。

現れたのは制服姿の少年。汗が引いたばかりの額と、ほんの少しだけ猫背の背中。Tシャツの上に羽織ったブレザーが彼の華奢な身体に少し大きく揺れていた。

「あの……ここ、入ってもいいですか?」

声はかすれていたが、その中には小さく灯る何かがあった。

「もちろん。お好きな席へどうぞ。」

店主・有村の返事は、いつものように静かで、それでいて、どこかほっとさせる響きを持っていた。

少年は迷った末に、窓際の席へと歩み寄った。
少しだけ開け放たれた窓から、ぬるい風が店の空気を撫でてゆく。カーテンがふわりと揺れた瞬間、彼はようやく息をつけたようだった。

「何にしますか?」

「……アイスコーヒー、お願いします。」

言ったあと、少年はぽつりと「飲めるかな」と小声でつぶやいた。
その声は、有村の耳に届いたが、彼はそれに応えることなく、氷を落とす音だけがカウンターに響いた。

運ばれてきたアイスコーヒーは、グラスの中で小さな水滴を作っていた。少年はそれを両手で包むように抱きかかえ、そして鞄から使い込まれたノートと折れかけたシャープペンを取り出した。

だが、そのペンは紙の上で止まったままだった。

「書けないんです。」

その言葉は、溜息と一緒にこぼれ落ちた。

「小説を書いてて……新人賞に出したいんです。でも、全然、言葉が出てこなくて……書いても、また全部消して……何を書きたかったのか自分でもわからなくなってきて。」

少年の手はノートの端を強く握っていた。

「なんで書くんでしょうね。こんなに苦しいのに。誰にも読まれないかもしれないのに……。」

有村は黙ったまま、そっと向かいの席に腰を下ろした。彼もまた、かつてその問いに立ち尽くしたひとりだった。

しばらくの沈黙のあと、有村は奥の棚から小さな木箱を取り出した。
それは「言葉カード」が入った箱。訪れた人に、そっと寄り添うための静かな贈り物だった。

「どうぞ、一枚。」

少年は驚いたように顔を上げたが、有村の静かな視線に背中を押されて、指先で一枚を引き抜いた。

そこに書かれていたのは……

「あなたの言葉は、きっと誰かの心の中で、生き続ける」

一瞬で、その言葉が胸に触れた。少年は声を出さずに読み返し、そっと目を伏せた。

「……そんなふうに、思えたらいいのに。」

「誰かのためじゃなくて、自分の心のために書いてもいいんですよ。」

有村の言葉は、まるで、冷えた心に灯る小さな火のようだった。

少年は長い沈黙のあと、ふっと笑った。とても小さな笑み。でも、それは確かに希望のかけらだった。

「また来てもいいですか? 書けたら、ちょっとだけ……見てもらえたら……。」

「ええ、もちろん。」

席を立った少年は、ノートをしっかりと抱きしめるように持ち、ゆっくりと扉へ向かった。

外はすっかり群青の空。
沈む陽に染められた雲が、まるで彼の背中を送り出すように浮かんでいた。

きっと明日は、少しだけ言葉が進むだろう。

【第3章:完】
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