8 / 10
第8章 行き先のない地図
しおりを挟む
風が強い冬の午後、雲が低く垂れ込めて太陽の光は路地の奥まで届かない。
「cafe縁」の前に、ひとりの青年が立ち尽くしていた。
コートの襟を立てて手袋もせず、どこか所在なさげに店の扉を見つめている。
有村はガラス越しにその姿に気づき、そっと扉を開けた。
「寒いですよ。どうぞ温まっていってください。」
「……あ。すみません。通りすがりで……あまり、喫茶店とか入ったことないんです。」
「特別な場所ではないですよ。静かにお茶を飲めるだけです。よかったら……」
ためらいながらも青年は店内へと足を踏み入れた。
座ったのは入り口に最も近い席。どこか逃げられる場所を選ぶような……
「何か、甘いものを。」
「りんごのタルトがあります。今朝焼いたものです。」
「じゃあ、それ……お願いします。」
やがて有村が紅茶とタルトを運んできた。
青年はひとくち頬張って、しばらく黙っていた。そして小さな声でぽつりと言った。
「逃げてきたんです。いろんなものから。」
「……」
「仕事も、家も友達も……自分のことも、よくわからなくなって……」
有村は答えず、ただそばにいた。
青年は口を開きながら少しずつ言葉を吐き出していく。
「周りがみんな進んでる気がして、自分だけ取り残されてる感じで……。それが、苦しかった。」
店の中は静かだった。時計の針の音が、やけに大きく響いていた。
「そんな自分に疲れて気がついたらこの町まで歩いてました。」
有村はゆっくりと立ち上がると、カウンターの奥からいつもの木箱を持ってきた。木目の美しい掌ほどの小箱。その中には一枚ずつ手書きのカードが並んでいる。
「言葉カードです。……かつて大切な人が残してくれた言葉を、自分のも加えて少しずつ書き留めたものなんです。」
青年が顔を上げると、有村は小さく微笑んだ。
「その人は作家でした。言葉を綴ることで誰かの心が少しでも軽くなるならって、いつもそう言ってました。今もその言葉が誰かの背中をそっと押してくれる気がして……こうして置いてあるんです。」
青年は戸惑いながらも、小さな箱から一枚のカードを引いた。
そこに書かれていたのは……
「立ち止まることは道に迷うことじゃない。息をつくための時間だ」
青年はその言葉を、何度も何度も読み返した。
そして、小さく息を吐いて、ようやく少しだけ微笑んだ。
「……あの、名前、聞いてもいいですか?」
「有村です。この店を引き継ぎました。」
「……有村さん。なんか、すごく変な話ですけど……今日、ここに来てよかったです。ありがとうございました。」
「また、気が向いたら立ち寄ってください。迷っても、ここは変わりませんから。」
青年はカードをそっとコートのポケットにしまい、静かに立ち上がった。
歩き出した背中はまだ不安定だったが、さっきよりもほんの少しだけ、まっすぐに見えた。
扉が閉まる音を聞きながら、有村はふと手の中に残った木箱に目を落とした。
この箱の中には彼女が遺した言葉たちが今も息づいている。忘れたくないと願った、あの人の小さな灯りのかけらたち。
「行ってらっしゃい。」
誰に聞かせるでもないその声は、あの頃と変わらない、有村のやさしさだった。
【第8章:完】
「cafe縁」の前に、ひとりの青年が立ち尽くしていた。
コートの襟を立てて手袋もせず、どこか所在なさげに店の扉を見つめている。
有村はガラス越しにその姿に気づき、そっと扉を開けた。
「寒いですよ。どうぞ温まっていってください。」
「……あ。すみません。通りすがりで……あまり、喫茶店とか入ったことないんです。」
「特別な場所ではないですよ。静かにお茶を飲めるだけです。よかったら……」
ためらいながらも青年は店内へと足を踏み入れた。
座ったのは入り口に最も近い席。どこか逃げられる場所を選ぶような……
「何か、甘いものを。」
「りんごのタルトがあります。今朝焼いたものです。」
「じゃあ、それ……お願いします。」
やがて有村が紅茶とタルトを運んできた。
青年はひとくち頬張って、しばらく黙っていた。そして小さな声でぽつりと言った。
「逃げてきたんです。いろんなものから。」
「……」
「仕事も、家も友達も……自分のことも、よくわからなくなって……」
有村は答えず、ただそばにいた。
青年は口を開きながら少しずつ言葉を吐き出していく。
「周りがみんな進んでる気がして、自分だけ取り残されてる感じで……。それが、苦しかった。」
店の中は静かだった。時計の針の音が、やけに大きく響いていた。
「そんな自分に疲れて気がついたらこの町まで歩いてました。」
有村はゆっくりと立ち上がると、カウンターの奥からいつもの木箱を持ってきた。木目の美しい掌ほどの小箱。その中には一枚ずつ手書きのカードが並んでいる。
「言葉カードです。……かつて大切な人が残してくれた言葉を、自分のも加えて少しずつ書き留めたものなんです。」
青年が顔を上げると、有村は小さく微笑んだ。
「その人は作家でした。言葉を綴ることで誰かの心が少しでも軽くなるならって、いつもそう言ってました。今もその言葉が誰かの背中をそっと押してくれる気がして……こうして置いてあるんです。」
青年は戸惑いながらも、小さな箱から一枚のカードを引いた。
そこに書かれていたのは……
「立ち止まることは道に迷うことじゃない。息をつくための時間だ」
青年はその言葉を、何度も何度も読み返した。
そして、小さく息を吐いて、ようやく少しだけ微笑んだ。
「……あの、名前、聞いてもいいですか?」
「有村です。この店を引き継ぎました。」
「……有村さん。なんか、すごく変な話ですけど……今日、ここに来てよかったです。ありがとうございました。」
「また、気が向いたら立ち寄ってください。迷っても、ここは変わりませんから。」
青年はカードをそっとコートのポケットにしまい、静かに立ち上がった。
歩き出した背中はまだ不安定だったが、さっきよりもほんの少しだけ、まっすぐに見えた。
扉が閉まる音を聞きながら、有村はふと手の中に残った木箱に目を落とした。
この箱の中には彼女が遺した言葉たちが今も息づいている。忘れたくないと願った、あの人の小さな灯りのかけらたち。
「行ってらっしゃい。」
誰に聞かせるでもないその声は、あの頃と変わらない、有村のやさしさだった。
【第8章:完】
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる