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第7章 小さな足音が聞こえる
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雨の予報だったが、空はなんとか持ちこたえていた。
灰色の雲が低く流れ町はどこかぼんやりとした空気に包まれている。冬の冷たさとは違う、じんわりと胸の奥に染みるような静けさ。
「Cafe縁」の扉が、そっと開いた。
「……こんにちは。おひとりですか?」
「ええ。ひとりです。今日は。」
来店したのは六十代くらいの女性だった。
深いネイビーのコートに、襟元には小さなブローチ。指先には年輪のような優しさがにじんでいる。
けれどその表情には、ふとした空白のような寂しさがあった。
「温かいカフェオレと、なにか甘いものをいただけるかしら?」
「チョコとオレンジのスコーンがあります。今朝焼いたばかりです。」
「それを……ありがとう。」
席に着くと、女性はバッグの中からそっと一枚の写真を取り出した。
それは小さなトイプードルの写真だった。つぶらな瞳でこちらを見上げ、笑っているような愛らしい表情。
「……この子、ついこの前、天国に行ったんです。十四年も一緒にいたのにね。あっという間でした。」
写真を見つめる視線に揺れる光が差す。
「お名前、聞いてもいいですか?」
「ミル。ミルクティー色の毛だったから、娘がつけたの。夫が亡くなったあと、この子とふたりきりで……毎朝散歩して、夜はテレビの音を聞きながら並んでソファで寝て……まるで、小さな家族だったのよ。」
有村はそっとカフェオレのカップを置き、女性の言葉に耳を傾ける。
「この子、耳がよくてね。私が少しでも元気ないと、すぐに気づくの。どうしたの?って顔して見てくるのよ、ほんとに。……たぶん、夫がいたころよりも誰かに寄り添ってもらってた気がする。」
微笑むその表情の奥に、失ったものの重さが確かに滲んでいた。
そして続ける声は、少しだけかすれていた。
「家が、静かで。……こんなに音がないって、寂しいものなのね。
足音も、寝息も、鳴き声も。聞こえないと、かえって耳が冴えてしまって……。」
店内の時計が、カチリと小さな音を立てた。
窓の外で風が木の葉を揺らす。誰かがいなくなったあとの静けさが、やけに似合う午後だった。
「この店のこと、前から気になってたの。でも今日になって、ようやく……入ってみようって。」
「よかったです。何も話さなくても、ただ座っているだけでも構いませんから。」
そう言って有村は、言葉カードの木箱を持ってきた。
時間とともに飴色になった木肌。中には、いくつもの小さな言葉の種が詰まっている。
「よければ、一枚引いてみてください。……言葉って、不思議なもので。
読んだその時の気持ちで、まるで違って聞こえるんです。」
女性はゆっくりと指先でカードを一枚選び、手に取った。
書かれていた言葉は、まるで今日の彼女を待っていたかのようだった。
「いなくなった存在は、思い出のなかで生き続ける。そして、ときどき、風になって帰ってくる」
女性は黙ってその言葉を見つめ、写真に目を落とした。ミルの笑ったような顔がそこにある。
懐かしい毛並み、あたたかな重み名前を呼んだときの振り返る仕草……それらが一瞬にして胸によみがえってきた。
「……帰ったら、また話しかけてみます。ミル、元気にしてる?って。なんだか今、少しだけ……この子が近くにいる気がして。」
「ええ。きっと、そばにいますよ。」
有村はやさしく言った。
それは、過去に誰かを失った者だけが持てる、確信に近いやさしさだった。
店を出るころ空から小さな雨粒が落ちてきた。コートの肩に、ひと粒、ふた粒。まるで空の上からこぼれ落ちた「会いたいね」の合図のように。
女性はそっと空を見上げて微笑んだ。
そして、バッグの中の写真にふたたび手を添え小さく囁いた。
「……じゃあ、一緒に帰ろうか。ミル。」
【第7章:完】
灰色の雲が低く流れ町はどこかぼんやりとした空気に包まれている。冬の冷たさとは違う、じんわりと胸の奥に染みるような静けさ。
「Cafe縁」の扉が、そっと開いた。
「……こんにちは。おひとりですか?」
「ええ。ひとりです。今日は。」
来店したのは六十代くらいの女性だった。
深いネイビーのコートに、襟元には小さなブローチ。指先には年輪のような優しさがにじんでいる。
けれどその表情には、ふとした空白のような寂しさがあった。
「温かいカフェオレと、なにか甘いものをいただけるかしら?」
「チョコとオレンジのスコーンがあります。今朝焼いたばかりです。」
「それを……ありがとう。」
席に着くと、女性はバッグの中からそっと一枚の写真を取り出した。
それは小さなトイプードルの写真だった。つぶらな瞳でこちらを見上げ、笑っているような愛らしい表情。
「……この子、ついこの前、天国に行ったんです。十四年も一緒にいたのにね。あっという間でした。」
写真を見つめる視線に揺れる光が差す。
「お名前、聞いてもいいですか?」
「ミル。ミルクティー色の毛だったから、娘がつけたの。夫が亡くなったあと、この子とふたりきりで……毎朝散歩して、夜はテレビの音を聞きながら並んでソファで寝て……まるで、小さな家族だったのよ。」
有村はそっとカフェオレのカップを置き、女性の言葉に耳を傾ける。
「この子、耳がよくてね。私が少しでも元気ないと、すぐに気づくの。どうしたの?って顔して見てくるのよ、ほんとに。……たぶん、夫がいたころよりも誰かに寄り添ってもらってた気がする。」
微笑むその表情の奥に、失ったものの重さが確かに滲んでいた。
そして続ける声は、少しだけかすれていた。
「家が、静かで。……こんなに音がないって、寂しいものなのね。
足音も、寝息も、鳴き声も。聞こえないと、かえって耳が冴えてしまって……。」
店内の時計が、カチリと小さな音を立てた。
窓の外で風が木の葉を揺らす。誰かがいなくなったあとの静けさが、やけに似合う午後だった。
「この店のこと、前から気になってたの。でも今日になって、ようやく……入ってみようって。」
「よかったです。何も話さなくても、ただ座っているだけでも構いませんから。」
そう言って有村は、言葉カードの木箱を持ってきた。
時間とともに飴色になった木肌。中には、いくつもの小さな言葉の種が詰まっている。
「よければ、一枚引いてみてください。……言葉って、不思議なもので。
読んだその時の気持ちで、まるで違って聞こえるんです。」
女性はゆっくりと指先でカードを一枚選び、手に取った。
書かれていた言葉は、まるで今日の彼女を待っていたかのようだった。
「いなくなった存在は、思い出のなかで生き続ける。そして、ときどき、風になって帰ってくる」
女性は黙ってその言葉を見つめ、写真に目を落とした。ミルの笑ったような顔がそこにある。
懐かしい毛並み、あたたかな重み名前を呼んだときの振り返る仕草……それらが一瞬にして胸によみがえってきた。
「……帰ったら、また話しかけてみます。ミル、元気にしてる?って。なんだか今、少しだけ……この子が近くにいる気がして。」
「ええ。きっと、そばにいますよ。」
有村はやさしく言った。
それは、過去に誰かを失った者だけが持てる、確信に近いやさしさだった。
店を出るころ空から小さな雨粒が落ちてきた。コートの肩に、ひと粒、ふた粒。まるで空の上からこぼれ落ちた「会いたいね」の合図のように。
女性はそっと空を見上げて微笑んだ。
そして、バッグの中の写真にふたたび手を添え小さく囁いた。
「……じゃあ、一緒に帰ろうか。ミル。」
【第7章:完】
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