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魔獣の森
心音
「ナギ。来るのが遅くなってすみません」
身体が自由になったかと思えば、期待通りの声が鼓膜を震わせ、ぎゅっと身体が密着する。なにが起きたのか状況を確認しようと顔を動かすと、凪の後頭部に添えられた手が動き、視界を塞ぐように胸元に抱き寄せられた。
まるで大きな鳥の翼に包み込まれるかのような抱擁だ。
額が硬い胸板に当たり、柔らかな服の奥から温かな体温と少し早い心臓の鼓動が聞こえてくる。そして彼の身体から漂う、ムスクの良い香りが鼻腔をくすぐり、それから――
「『氷結』」
再び、凛とした声が鼓膜を震わせ、同時に冷気を帯びた風が凪の頬を掠めて吹き抜けていった。
ほどなくして、少し離れたところからイースランの短い呻き声が聞こえてくる。声はすぐに聞こえなくなり、代わりにどさりと何かが地面に倒れこむ音がした。
(一体何が……?)
音のした方向に目を向けようとすると、しなやかな手がそれを阻み、凪の頭を再び胸元に引き寄せてくる。強い力で抱き寄せられて、凪は身動きが取れなくなった。
「あ……す、てる……?」
「もう大丈夫です。私が来たからには手出しはさせません――絶対に」
「何……したんだ。イースランは……」
「見なくて良い。あんなもの、ナギが気にかける価値もない」
被せるように氷のように冷たい低音が頭上から降ってくる。その底冷えするような音程を聞いていると、背筋に冷たいものが滑り落ちていくような気持ちになる。
淡々と告げる抑揚のない声音からは感情を読み取ることが難しい。けれど、微かに振動を繰り返す腕と不規則な荒い呼吸が伝わってきて、彼の所作の端々から底知れない怒気が滲み出ているように思えたのだ。
凪は追究を諦めざるを得ないと判断して目を伏せた。
「……わかった。けれど……ひとつだけ教えてほしい。イースランを……その、殺した……のか?」
「いいえ。八つ裂きにしたいところですが、あんなのでも殺せば色々面倒なことになりますから……………不本意ですが」
殺したのではないとわかり、安堵の息を吐く。
「良かった」と思わず口走ると、アステルの腕の締め付けがあからさまに強くなった。
「ちょ……っ、うごけないって……」
「良かった? 何を言ってるんです。良いわけ無いでしょう。八つ裂きでも生ぬるい。私はあの男に何ひとつ容赦する気はないのに、慈悲で許してやるんです」
さすがに少し息苦しくて、両手でアステルを押し戻そうとしてみたり、足をばたつかせてみても、まったくと言って良いほど効果がない。それどころか、そんな凪の行動をアステルは拒絶と受け取ったのか、離してたまるかと言わんばかりに二本の腕に力を込めて、全力で阻んでくる。
堪らず凪は抗議の声を上げた。
「くるしいから……っ、息っ、できない、し……!」
「それとも、私よりもあの男が気になるのですか?ああいうのがナギの好みだと」
「んなわけあるかっ。離せ……っ、骨、折れる……!」
「離しません。だって離したらまた、ナギはいなくなってしまうでしょう?」
「…………っ」
駄々をこねる子供のように話すアステルに、凪は口を噤む。何か言おうとして開いた口は言葉を紡げずに閉ざされてしまう。
それに、気づいてしまったのだ。
(……震えてる、のか?)
凪を捕らえてやまないその腕から小さな振動が伝わってくる。それが焦りや恐怖から来るものだと察してしまうと、さらに二の句が告げなくなった。
「……ごめん」
なんとかそれだけを喉の奥から絞り出すように言うと、アステルは腕の力を少しだけ緩めて凪の髪を優しく梳いてきた。
「分かればいいんです。さあ、あれの処分はルークに任せて、屋敷に帰りましょう」
「処……いや、うん」
処分という不穏なワードに思わず声が出そうになるが、寸前で言葉を飲み込む。
イースランに関する話題は地雷が多い。触れないほうが賢明と言えた。
凪の首肯にようやく満足したのか、アステルはそっと身体を引き離す。
直後、抱きしめられて温まっていた身体を風が吹き抜けた。初夏くらいに吹く柔らかな風であったが、それでも肌寒く感じて身震いする。
それでようやく思い出す――凪はイースランによって衣服を剥ぎ取られ、一糸まとわぬ姿を晒してしまっていた。
(そうだ、服……どこだ?)
気温は低くないとはいえ、このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。凪はふるりと身体を震わせると、イースランに剥ぎ取られた衣服を探そうと辺りを見回す。
(あった)
服は相変わらず危機感なく眠りこける白蛇の――リンダの傍に落ちていた。
取りに行こうとアステルに背を向けると、背後から衣擦れの音が響き、肩に黒い外套がかけられる。
その外套からは嗅ぎ慣れたムスクの匂いが漂ってきた。
(……アステルの、匂いだ)
思わず足が止まる。
アステルは凪を外套ごと、その腕の中に優しく抱き留めた。
「どこにも行かせない」
耳元で囁かれた言葉は、まるで呪詛のように凪の身体を縛り付けてくる。けれどその拘束は不快ではなくて、むしろ心地良さすら覚えてしまうから不思議だ。
「……どこにも行かないよ」
凪はそう答えると、外套の前をそっと合わせて彼の身体にもたれかかった。
するとアステルの身体の奥から響く鼓動が耳を打つ。それは先程までの乱れた心音ではない。調和の取れた規則正しい脈拍だ。
とくんとくん。とくんとくん。
と――
(なんだか……ほっとする音だ)
その鼓動を聞いていると、強張りきった自身の身体から徐々に力が抜けていくのがわかった。
自分を囲うこの存在が絶対的な守護者に思えて、口から安堵が漏れ出た。
「ナギ」
名前を呼ばれて後ろを振り返る。目の前に金色の瞳が映り込んだ。
アステルは凪の頭を優しく撫でると、凪の唇に自らのものをそっと重ねた。
触れるだけの優しいキスだ。
けれど、艶やかな花弁のような柔らかい唇が押し当てられると、どくんと一段と大きな鼓動が聞こえてきた。
凪の鼓動か、それともアステルのものか。ぼんやりとそんなことを考えながら凪は目を閉じた。とくん、とくんと心臓が高鳴り、頬がほんのりと上気する。凪はアステルの首にそっと両腕を回した。
――しかし。
凪の求めとは逆に、唇はすぐに離されてしまい、アステルの視線は別のところに向けられる。
「……怪我、していますね」
「え……?」
アステルの視線を辿ると、先ほどアステルの首に巻きつけた凪自身の両腕――いや、両手の手首に行き着いた。そこには赤く擦れた痕がついている。蔦に拘束された状態で無理に暴れたせいで出来たものだ。
「この怪我……あいつに?」
凪が返事をするよりも早く、アステルは問いかけてきた。しなやかな手が傷口をなぞると、ちくりと小さな痛みが走って凪は顔をしかめた。
「あ、うん……。でも大したことない」
「……」
小さく首を振ると、沈黙が返される。
凪はアステルの表情を窺い見た。彼は何かを考えるように、じっと一点を見つめている。その視線の先には、氷漬けにされたイースランの姿があった。
「……あの、アステ――」
「ナギ」
名前を呼ばれて口を閉ざす。
彼から迸る殺気を感じて凪はごくりと唾を呑み込んだ。
「少し待っていてください」
それだけ言うとアステルは凪から手を離し、イースランに向かって歩き出した。
身体が自由になったかと思えば、期待通りの声が鼓膜を震わせ、ぎゅっと身体が密着する。なにが起きたのか状況を確認しようと顔を動かすと、凪の後頭部に添えられた手が動き、視界を塞ぐように胸元に抱き寄せられた。
まるで大きな鳥の翼に包み込まれるかのような抱擁だ。
額が硬い胸板に当たり、柔らかな服の奥から温かな体温と少し早い心臓の鼓動が聞こえてくる。そして彼の身体から漂う、ムスクの良い香りが鼻腔をくすぐり、それから――
「『氷結』」
再び、凛とした声が鼓膜を震わせ、同時に冷気を帯びた風が凪の頬を掠めて吹き抜けていった。
ほどなくして、少し離れたところからイースランの短い呻き声が聞こえてくる。声はすぐに聞こえなくなり、代わりにどさりと何かが地面に倒れこむ音がした。
(一体何が……?)
音のした方向に目を向けようとすると、しなやかな手がそれを阻み、凪の頭を再び胸元に引き寄せてくる。強い力で抱き寄せられて、凪は身動きが取れなくなった。
「あ……す、てる……?」
「もう大丈夫です。私が来たからには手出しはさせません――絶対に」
「何……したんだ。イースランは……」
「見なくて良い。あんなもの、ナギが気にかける価値もない」
被せるように氷のように冷たい低音が頭上から降ってくる。その底冷えするような音程を聞いていると、背筋に冷たいものが滑り落ちていくような気持ちになる。
淡々と告げる抑揚のない声音からは感情を読み取ることが難しい。けれど、微かに振動を繰り返す腕と不規則な荒い呼吸が伝わってきて、彼の所作の端々から底知れない怒気が滲み出ているように思えたのだ。
凪は追究を諦めざるを得ないと判断して目を伏せた。
「……わかった。けれど……ひとつだけ教えてほしい。イースランを……その、殺した……のか?」
「いいえ。八つ裂きにしたいところですが、あんなのでも殺せば色々面倒なことになりますから……………不本意ですが」
殺したのではないとわかり、安堵の息を吐く。
「良かった」と思わず口走ると、アステルの腕の締め付けがあからさまに強くなった。
「ちょ……っ、うごけないって……」
「良かった? 何を言ってるんです。良いわけ無いでしょう。八つ裂きでも生ぬるい。私はあの男に何ひとつ容赦する気はないのに、慈悲で許してやるんです」
さすがに少し息苦しくて、両手でアステルを押し戻そうとしてみたり、足をばたつかせてみても、まったくと言って良いほど効果がない。それどころか、そんな凪の行動をアステルは拒絶と受け取ったのか、離してたまるかと言わんばかりに二本の腕に力を込めて、全力で阻んでくる。
堪らず凪は抗議の声を上げた。
「くるしいから……っ、息っ、できない、し……!」
「それとも、私よりもあの男が気になるのですか?ああいうのがナギの好みだと」
「んなわけあるかっ。離せ……っ、骨、折れる……!」
「離しません。だって離したらまた、ナギはいなくなってしまうでしょう?」
「…………っ」
駄々をこねる子供のように話すアステルに、凪は口を噤む。何か言おうとして開いた口は言葉を紡げずに閉ざされてしまう。
それに、気づいてしまったのだ。
(……震えてる、のか?)
凪を捕らえてやまないその腕から小さな振動が伝わってくる。それが焦りや恐怖から来るものだと察してしまうと、さらに二の句が告げなくなった。
「……ごめん」
なんとかそれだけを喉の奥から絞り出すように言うと、アステルは腕の力を少しだけ緩めて凪の髪を優しく梳いてきた。
「分かればいいんです。さあ、あれの処分はルークに任せて、屋敷に帰りましょう」
「処……いや、うん」
処分という不穏なワードに思わず声が出そうになるが、寸前で言葉を飲み込む。
イースランに関する話題は地雷が多い。触れないほうが賢明と言えた。
凪の首肯にようやく満足したのか、アステルはそっと身体を引き離す。
直後、抱きしめられて温まっていた身体を風が吹き抜けた。初夏くらいに吹く柔らかな風であったが、それでも肌寒く感じて身震いする。
それでようやく思い出す――凪はイースランによって衣服を剥ぎ取られ、一糸まとわぬ姿を晒してしまっていた。
(そうだ、服……どこだ?)
気温は低くないとはいえ、このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。凪はふるりと身体を震わせると、イースランに剥ぎ取られた衣服を探そうと辺りを見回す。
(あった)
服は相変わらず危機感なく眠りこける白蛇の――リンダの傍に落ちていた。
取りに行こうとアステルに背を向けると、背後から衣擦れの音が響き、肩に黒い外套がかけられる。
その外套からは嗅ぎ慣れたムスクの匂いが漂ってきた。
(……アステルの、匂いだ)
思わず足が止まる。
アステルは凪を外套ごと、その腕の中に優しく抱き留めた。
「どこにも行かせない」
耳元で囁かれた言葉は、まるで呪詛のように凪の身体を縛り付けてくる。けれどその拘束は不快ではなくて、むしろ心地良さすら覚えてしまうから不思議だ。
「……どこにも行かないよ」
凪はそう答えると、外套の前をそっと合わせて彼の身体にもたれかかった。
するとアステルの身体の奥から響く鼓動が耳を打つ。それは先程までの乱れた心音ではない。調和の取れた規則正しい脈拍だ。
とくんとくん。とくんとくん。
と――
(なんだか……ほっとする音だ)
その鼓動を聞いていると、強張りきった自身の身体から徐々に力が抜けていくのがわかった。
自分を囲うこの存在が絶対的な守護者に思えて、口から安堵が漏れ出た。
「ナギ」
名前を呼ばれて後ろを振り返る。目の前に金色の瞳が映り込んだ。
アステルは凪の頭を優しく撫でると、凪の唇に自らのものをそっと重ねた。
触れるだけの優しいキスだ。
けれど、艶やかな花弁のような柔らかい唇が押し当てられると、どくんと一段と大きな鼓動が聞こえてきた。
凪の鼓動か、それともアステルのものか。ぼんやりとそんなことを考えながら凪は目を閉じた。とくん、とくんと心臓が高鳴り、頬がほんのりと上気する。凪はアステルの首にそっと両腕を回した。
――しかし。
凪の求めとは逆に、唇はすぐに離されてしまい、アステルの視線は別のところに向けられる。
「……怪我、していますね」
「え……?」
アステルの視線を辿ると、先ほどアステルの首に巻きつけた凪自身の両腕――いや、両手の手首に行き着いた。そこには赤く擦れた痕がついている。蔦に拘束された状態で無理に暴れたせいで出来たものだ。
「この怪我……あいつに?」
凪が返事をするよりも早く、アステルは問いかけてきた。しなやかな手が傷口をなぞると、ちくりと小さな痛みが走って凪は顔をしかめた。
「あ、うん……。でも大したことない」
「……」
小さく首を振ると、沈黙が返される。
凪はアステルの表情を窺い見た。彼は何かを考えるように、じっと一点を見つめている。その視線の先には、氷漬けにされたイースランの姿があった。
「……あの、アステ――」
「ナギ」
名前を呼ばれて口を閉ざす。
彼から迸る殺気を感じて凪はごくりと唾を呑み込んだ。
「少し待っていてください」
それだけ言うとアステルは凪から手を離し、イースランに向かって歩き出した。
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