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記憶の欠損
しおりを挟む俺は少なくとも三度、死にかけた。
一度はガキの頃。
自転車で車道に飛び出して、文字通りぶっ飛ばされて入院し、幸いなことに頭のねじは飛ばなかったが、かろうじて手術に成功した右足が少しだけ不自由になった。
そのハンデを克服しようと運動にがむしゃらになったのが中学の時。
サッカーと柔道、剣道を周囲に呆れられながら掛け持ちして、剣道部では主将を務めた。高校の時は真剣にも手を出した。学校には居合い部がなかったので、電車で駅で四つほど離れた道場に通い詰めて、二年生の時に部を作った。
大学の時は、すでに足の不自由さもわからなくなっていたので、当時、なぜか夢中になっていた経済を選考した。だが当然と言うべきか肌に合わず、他に何かないかと探していた二学年の秋、私立探偵のアルバイトを始めた。バイト料は安かったが、否応なくむき出しになる人間性と繰り広げられる本物のドラマに心惹かれたのだと思う。
その、直後だった、まだ中学生だった南野に腹をかっさばかれたのは。
こいつが死にかけた二度目だ。
あまりに出血が多く、二週間近く生死の狭間をさまよい、目を覚ましたのは「奇跡」だと評された。俺はそんなことはどうでもよかった。加害者の南野が少年院に送られたことの方が、辛かった。
三度目はつい三ヶ月前。
引き受けた当初から嫌な予感を覚えていた依頼だった。依頼人から提出された書類やこちらで集めた情報に危険を感じさせるものは一つもなく、数多く寄せられる中でも珍しくもない行方調査のようだった。
だが俺は、情報を集めれば集めるほど強まる正当性が気に入らなくて、部下に預けていた依頼を取り上げて独りで抱え込んだ。不思議がる南野をあえて出張で北海道まで飛ばした。
未だに何故なのかは分からない。
昼食を取りに寄った喫茶店の、狭い階段で突き落とされた。
運悪く頭から落ちて頭蓋骨骨折。
今度は二ヶ月近くも生死をさまよい、目覚めたその時、記憶が欠損していた。脳の一部が出血によって圧迫され、その出血を取り除こうにも場所が悪いらしい。
未だに俺の記憶は欠けている。
探偵の仕事に支障はないが、人間関係に問題があるとわかったのが、退院の日だった。
俺は南野とどうして身体の関係を持ったのか、まったく覚えていない。
そのことが発覚したあと、二人だけで記憶のすりあわせをしてみた結果、俺は奴に関する多くのことを忘れていて、それは仕事や他の人間関係などよりもよっぽど多く、しかも肝心なところが抜けているらしかった。
らしい、というのは、南野が言わないからだ。
奴はあれ以来、すっかりふて腐れて俺の側に近寄らない。
記憶が無くなる以前のように、人の家にふらりと現れてコンビニの袋を見せることもなく、仕事と称して一緒に居残ることもない。時折、唐突すぎるほどの勢いでぶつけてきた感情の露出もなくなった。
一度、退院した夜にいきなりキスされて以来、奴は俺に近づかなくなった。
今じゃちょっとばかり手のかかる、だが優秀な部下だ。
以前は少しだけわかっていたかも知れない南野の考えが、今では本当にわからなくなってしまった。
奴はわかってもらう気もないんだろう。
だが、俺から近づくには、セックスの記憶があまりに生々しすぎる。ひしゃげた記憶の中で奴は俺のなけなしの自尊心を傷つけるほど手酷かった。おかげで以前は平気で出来ていた簡単なスキンシップも出来なくなって、会話自体もほとんどない。
他の部下たちには、記憶に欠損のある俺を南野が信頼していないように見えるらしく、あらゆる方向から気を回して、信頼を取り戻させようとしているようだった。だが南野にもその気はなく、俺は申し訳ないと思いながら、未だに奴に近寄ることさえ躊躇われる。
所長には独立を持ちかけられている。
今、下にいる部下を何人か回してやるから、自分で事務所を持てと。
まだ若いし、早すぎると何度も断ってるが……、近いうちにこちらから頼んでしまうかも知れない。南野との気詰まりするような毎日から逃げるためだけに。
そんな自分が嫌だ。
吐き気がするほど嫌いだ。
だが、いつまでも南野とこんなことを続けていたら、俺は奴をダメにしてしまう気がする。まだ南野は若い。所長に言わせたら俺も若いかも知れないが、俺は奴の将来の方が気にかかる。
せっかくどぶの底から這い上がってきたんじゃないか。社会の冷たい風を振り切って成功を手にしようとしているんじゃないか。
もっと自分を大切にしろと、殴りたくなる。
だが今の俺にその資格はない。
南野。
俺はお前のことが分からない。
そのことが辛いと思ったのは、初めてだ。
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