40 / 163
40 鋭い牙を、刺してしまった
しおりを挟むユンファ殿は、自嘲して微笑んだ。
…たっぷりと涙に濡れているその目――切れ長のまぶたは弱々しくゆるみ、まるで涙に溺れているかのよう小さく揺らぐその薄紫色の瞳は、それでも俺の目をじっと見つめてくる。
「…ソンジュ様に嫌われてしまったことも、これでよくわかっております…――しかし、どうか今宵だけは、このどうしようもない僕の側に、いてください……」
「……、…、…」
ユンファ殿は切実な目をして、俺のことを見てくるのだ。――どうしてあれほど酷い拒否をされて、それでもなお、俺なんかのことをこう想えるのか。…あまりにも夢見がちな人である。馬鹿な乙女のようだ。
彼は、涙に濡れた声でそっと、笑う。
「…もう話しをせずとも構いません…、僕に触れてほしいなどとは、露ほども思っておりません…、ただ、ただ側にいてくださいませ…、この夜が、明けるまで……」
「……、…っ」
ならぬ。――この美しい人の、この切実な涙目にほだされてはならぬ。
困りきっていることを示す俺は、ぐるりと呆れたふうに目玉を回し――上のほう、ちょうどユンファ殿の寝台についた天蓋あたりを、何ともなしに眺めつつ、ため息まじりに。
「…何もお側でなくとも、私は同じ部屋の中、あの扉の前でユンファ殿を、しかとお守りして……」
「…怖いんです…」
するとユンファ殿は、俺の言葉を遮るように…それでいてかなり小さな声でぽそりと、そう一言。――すかさず俺は、責めるような苛立ちの調子で。
「何がですか。何が怖いと?」
「…そ…それは、…ジャスル様が…――するとまぶたを閉ざすのも、とても…怖くて……」
俺が尋ねれば、ユンファ殿はそう小さく、恐る恐るそう打ち明けてきた。――しかし俺は、彼のお姿を見ながらというのは無理があるため、やはり天蓋あたりを睨みつけながら。
「…ユンファ殿…申し訳ないが、そう私に申されましても困りまする。甘えるにしたって、相手をお間違えなのでは? それに、怖い怖いとおっしゃられても貴殿、明日にはその人のものとなるのでしょう。――心配は無用。ジャスル様は、甘ったれのユンファ殿でも、しこたま可愛がってくださるに違いありませぬ。」
「………、…」
ユンファ殿は何も言わず、ただ彼の落胆の気配はある。
俺は意識的に、心を凍り付かせる。そこに嘘など滲まぬように。――嘘がユンファ殿にバレれば、優しさとなってしまうからだ。
「…あるいは、その怖いというのだってどうせ嘘なのでしょう? そうやって、女子どものように甘えてメソメソ泣けば、情が絡んで人が留まるとでも思っているのか。…しかし、それが許されるのは子どもか、せいぜい女のみだ。貴殿がそう甘えたって可愛くないどころか、ひたすらに情けないだけです。」
「…はい、ごめんなさい……」
あまりにもしおらしい謝罪に、ぐっと喉が詰まる。
…喉元までこみ上げてくる罪悪感が、酷いほど俺の胸を締め付けているのだ。…ユンファ殿はかなり小さな声で「でも、嘘ではありません…」と――しかし、ここで責めの手を緩めてはならぬ。
「…そもそも貴殿は、全て覚悟の上で、この縁談を承諾したのでしょう。」
「…それも…そうですね…、ごめんなさい……」
健気なまでの小さな言葉だ。
ズクリ、この胸は痛むが。――俺は今、鬼だ。
「…それでいて、なぜ怖いなどと情けないことを?」
「…そ、それは……、…、…」
「…ふん、やはり嘘なのでしょう。私に甘えたいがために、そんな嘘をつくとは……」
彼、そんなことを俺に言えばあるいは、俺と慕い合えるとでも思っていたのだろうか。――そりゃああの醜い中年であるジャスル様よりは、俺のほうがいくらもマシに思えるのは当然のことだろうが、…そう我儘を言えどもユンファ殿は、明日には正式に、その人のものとなるのだ。
大体、俺が妻帯者であるとわかっていてこのような…慕っているだ、ジャスル様の子は生めぬだ――すなわち彼、要約すれば、俺の子しか生めぬというような旨のことを言っているわけである。
あれではまるで、自分を抱いてくれ、というような誘いのセリフにも近しいだろう。――明日には人のものとなる彼が、明日に“婚礼の儀”を控えているような彼が。
いくら政略結婚とはいえ、ジャスル様と婚約をしている身で――そのジャスル様の護衛である俺にうつつを抜かし、慕っている、と。俺の子どもしか自分は産めぬと。
下手な娼婦よりタチの悪い話だ。
…そう、俺は思い込む。――思い込まねばならぬ。
やはり淫蕩という噂、あながち間違いでもないのか。
ユンファ殿、ありていにいえば…例の、よほどの淫乱、らしいのだ。――いや…ユンファ殿の本当のところは、これでもわかっているつもりなのだが――俺は今、今だけでも、そう思い込むべきなのだ。
「嘘では……、ソンジュ様……」
「…釘を刺されても、いまだ妻帯者の私を誘うとは、どうしようもない淫乱なのだな。…私には妻がいて、そしてユンファ殿には、夫となるジャスル様がいらっしゃいます。…その人の言う通り、こういったことは夫となる、ジャスル様にのみされよ。――そうすればあの方は心から喜び、ユンファ殿のことも手厚く慰めてくださることでしょう。」
「…………」
「……、…」
俺は思わず、ユンファ殿を見てしまった。
「…………」
はら…と――伏せ気味になったユンファ殿の目から、また涙がこぼれ落ちていった。…しかし、彼は泣いているからといって顔をしかめているわけでもなく、また虚ろな…人形のような顔になってしまっている。
「……、…、…」
本当はこんな顔、させたくはなかったが。――なぜ見てしまったのか、俺はまた上のほうを見上げる。…そして、これを言い切ったなら、さっさとユンファ殿を振り払い、持ち場へ戻るつもりだ。
「…そういったことを重ねた先に、想い合うメオトとなれるものでございます。…貴殿のご不安は理解できなくもないが、私のような下男にうつつを抜かすのではなく、夫となるジャスル様と向き合われよ。――それに、たった一晩のことでございませんか。…寂しいのはわかるが、だからといって適当な下男に滅多なことをおっしゃられるな。さあ、もう、大人しく休まれよ。…」
「………、…」
あまりにも、何も言わぬユンファ殿。
またつい、はた…とその人を見た俺は――己に嫌悪した。…この胸の中に、鋭く太い針がグサリ刺さったようである。
ユンファ殿はもう、俺の二の腕を掴んではいない。
…ならば俺は、この場から立ち去ることも容易い。しかし――ユンファ殿は俯き、切ないものをその美しい眉に宿しながら、悲しげにまぶたを閉ざしていた。
その平たい胸の中央に、俺が先ほど渡した、真っ赤な林檎を押し当てて――。
今もまた、つぅ…と、その人の白い頬に涙が伝ってゆく。――俺はその涙を見た途端、するとなぜか…――この林檎を渡したときの、ユンファ殿の…ふふ、と嬉しそうにほころんだあの笑顔が、この脳裏に過ぎってしまった。
“「……ぁ、ありがとう、ございます……」”
たかだか林檎一つを、いやに大事そうに撫でさすり――嬉しそうに、嬉しそうにそう俺へ礼を言ったユンファ殿が、俺の頭に蘇ってきてしまったのだ。
「…………」
「…………」
言い過ぎたか――いや。
…あれくらい言わなければ、ならなかった。きっと。
0
あなたにおすすめの小説
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる